Remove ads
日本の学者、文人 (1887-1953) ウィキペディアから
折口 信夫(おりくち しのぶ〈のぶを〉[注 1]、1887年〈明治20年〉2月11日 - 1953年〈昭和28年〉9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。
折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからの顔の青痣(あざ)[注 2]をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。
1887年2月11日、大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。信夫の祖父の造酒之介が、飛鳥坐神社の社家の出身ということもあり、終生、折口はそれを自慢していた(養子なので直接血縁はないと言われている)。1890年より木津幼稚園に通う。1892年、木津尋常小学校(現在の大阪市立敷津小学校)に入学。1894年、叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記した。感謝の念篤く、後年『古代研究』にこの叔母への献詞を載せている。1896年、大阪市南区竹屋町にあった育英高等小学校に入学。
1899年4月、大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)、西田直二郎などがいた。1900年夏に大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた。その折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある。富岡多惠子によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性[2]があるという。
1901年、15歳になったこの年に父親から橘千蔭『万葉集略解』[注 3]を買ってもらった[3]。作歌にも励み、『文庫』『新小説』に投稿した短歌一首ずつが入選。しかし1902年に中学の成績が下がり、暮れに自殺未遂。1903年3月にも自殺未遂したが、「作歌多し」であった。1904年3月、卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖に共感、死への誘惑に駆られた。二上山が眼前に三輪山が遠方に、両方見える村の友人の屋敷に複数回滞在している。
1905年3月、天王寺中学校を卒業。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學の予科に入学。藤無染と同居する。この頃に約500首の短歌を詠んだ。1907年、國學院予科を修了し、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け、強い影響を受けた。また短歌に興味を持ち、根岸短歌会などに出入りした。1910年7月、國學院大學国文科を卒業。卒業論文は「言語情調論」であった。
卒業後は大阪に戻り、1911年10月に大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となった[4]。1912年8月に伊勢、熊野を巡る旅に出た。1913年12月「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得た。
1914年3月、今宮中学校を退職し、上京。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという[5]。1916年、30歳に時に國學院大學内に郷土研究会を創設。『万葉集』全20巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行。1917年1月、私立郁文館中学校教員となった。同年2月には「アララギ」同人となり、選歌欄を担当することになった。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動した。
1919年1月、國學院大學臨時代理講師に就いた。また、万葉辞典を刊行。1921年7月 - 9月、柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行に出た。1922年1月、雑誌『白鳥』を創刊する。同年4月には國學院大學教授となり、穂積忠らを教えた[6]。
1923年6月、慶應義塾大学文学部講師となり「三田文学」にも深く関わった。第2回目の沖縄旅行に出た。1924年1月、亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興。後にこの会を慶應義塾大学に移し、没年まで活動を続けた。またこの年には「アララギ」を去って、北原白秋らと共に歌誌『日光』を創刊した。
1925年5月、処女歌集『海やまのあひだ』を刊行。1927年6月、國學院の学生らを伴って能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪ねた。1928年4月、慶應義塾大学文学部教授に昇格し、芸能史講座を開講した。1929年、川田順、斎藤茂吉、前田夕暮、松村英一、北原白秋らが設立した日本歌人協会(東京市本郷区駒込)[7]に加入。1932年、文学博士号を取得。日本民俗協会の設立に関わり、幹事となった。
1935年11月、大阪木津の折口家から分家。第3回目の沖縄旅行。1940年4月、國學院大學文学部に「民俗学」講座を設けた。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りを初めて見た。
1941年8月、中国大陸を旅し、北京にて講演。同年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入し、藤井春洋は応召。1942年、『天地に宣る』を出版。1944年、藤井春洋は硫黄島に着任。春洋を養嗣子として入籍。1945年3月、第1回大阪大空襲で生家が焼失。大本営が藤井春洋のいる硫黄島の玉砕を発表。同年8月15日の終戦の玉音放送を聴くと、箱根山荘に40日間籠もった。
1948年4月、『古代感愛集』により日本芸術院賞を受賞[8]。同年12月には第1回日本学術会議会員に選出された。1949年7月、能登一ノ宮に戦死した春洋との父子墓を建立した。1950年と翌51年は宮中御歌会選者を拝命。
1953年7月初め箱根仙石原の別荘[注 4]に行くも健康がすぐれなかった。同年8月31日、衰弱が進んで慶應義塾大学病院に入院。同年9月3日、胃癌により永眠。養子として迎えて戦死した春洋と共に、気多大社がある石川県羽咋市一ノ宮町に建立した墓に眠る[9]。また、折口家の菩提寺願泉寺(大阪市)に分骨が納められている。
柳田國男との間には、以下のようなエピソードがあった。
1915年(大正4年)の『郷土研究』誌に載った論文で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという事件があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4-5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。
そして、柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」と、その点では認めていた。ただし、「マレビト」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である[11]。両者は国学発展の祖に当たる賀茂真淵・本居宣長と同じく、教えを受けながらも正当だと思ったところは譲らず、真理の追究を磨く学者の関係を持っていたといえる。なお、『遠野物語』(現行版は角川ソフィア文庫)に折口の跋文(後書き)がある。
柳田は、折口よりも12歳年上で、1945年(昭和20年)夏の第二次世界大戦終結時には、共に60歳を越えていた。戦後にのぞみ、重い口調で柳田は折口へ「折口君、戦争中の日本人は桜の花が散るように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、海に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」と問い、しばらく両者は深く思い沈んでいたという。折口には、18年間を共にした養嗣藤井春洋の硫黄島玉砕という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的であり、終戦の玉音放送を聴くと四十日間の喪に服し、自分が死ぬまで遺影前の供養を欠かさなかったという。第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)で失った戦死者の鎮魂は大きな課題で、戦没者が生前に殉じる価値を見出そうとした皇国の国体などといった観念も昭和天皇の人間宣言とともに潰え果てていた。日本人の神や魂といった問題の意識は柳田も共有していて、折口はその問題を、晩年の論考「民族史観における他界観念」に収斂させていくこととなる[12]。
柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。
歌人としては正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
迢空賞は1967年に折口信夫にちなんで設けられた短歌賞で、短歌界では最も格式ある賞とされている。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
折口家は木津の願泉寺門徒の百姓であったが、曽祖父彦七の時から商家となり、生薬と雑貨を商った[20]。
(先妻) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
彦次郎 | あゐ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
彦七 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
秀太郎 | 静 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
順 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
造酒ノ介 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
こう | 進 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
とよ | ゆう | 信夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||
えい | 親夫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
つた | |||||||||||||||||||||||||||||||||
和夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
関連文献は数百冊あり、下記はあくまで一部、品切絶版を多く含む。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.