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かつて埼玉県上尾市に存在した大字 ウィキペディアから
沖ノ上(おきのかみ)は、埼玉県上尾市にかつて存在した大字。郵便番号は362-0000[2][注釈 1]。
市の統計などでは大石地区に属していた[1]。沖の上と記される場合があった。
埼玉県の県央地域で上尾市中央部の主に大宮台地上[5]に位置していた地区である[6]。現在の浅間台の大半、および中妻、井戸木、小泉、泉台、春日、弁財、原新町の各一部に当たる。 西部を鴨川が流れ、周囲の低地には水田や沼沢地があった。台地との境界は傾斜が緩やかで、その境界は不明瞭である。地区内は後述の通り耕作地が多かった。
かつての隣接大字は時計回りに東側は久保や上尾宿、南側は柏座、谷津(飛地)、春日谷津(現、春日)、弁財、西側は小泉、北側は中妻、桶川町大字町谷[注釈 2]と隣接する。沖ノ上の飛地(字宮山)が大小複数あり、井戸木とも隣接していた。地区の東部は弁財や中妻の飛地があり、他の大字との境界が複雑に錯綜していた[注釈 3]。
1971年(昭和46年)に協議の結果沖ノ上の八つある小字のひとつの浅間台(せんげんだい)から名を採り[7]浅間台(あさまだい)と称する行政町名が新設[注釈 4]されるなど、相次ぐ区画整理事業による地番整理によりほぼ消滅したものの、沖ノ上は長らく浅間台と並存した状況が続き、晩年は埼玉県道323号上尾環状線の鴨川橋の川下側から親橋の間の河川区域に取り残される形で字川西および字宮山が非常に細長い半円形の残部として僅かに残されていた[9][注釈 5]。
2016年(平成28年)9月17日小泉五丁目の成立により、同じ大石地区の中妻や小泉などのように地名が新町名などに継承されることなく完全に消滅した[10][注釈 6]。地名の廃止後も施設名などにその名残を残す例が見られるものだが、かつての区域内には沖ノ上の名が付く施設等は残されていない[注釈 7]。上尾市の消滅した大字・町名は、沖ノ上が唯一である。
もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡大谷領に属する沖ノ上村、古くは中世末期頃より見出せる伊奈荘に属されていたと云う[5][注釈 8]。沖ノ上村は漢字で沖之上村と記される場合がある[注釈 9]。正保の頃は沖村、元禄の頃は上村と記されていたが、それ以降より沖ノ上と称されるようになったと云われている[注釈 10]。地名は諸説あり、「沖」とは広々とした田畑を意味し、上村(現大字上)の方角にある広い田畑という意味がある[13]。 村高は正保年間の『武蔵田園簿』では沖村として250石(田90石余、畑141石余)[14]、『元禄郷帳』および『天保郷帳』によると283石であった[5]。化政期の戸数は30軒余で、村の規模はおよそ東西15町南北13町余であった[5][12]。高札場が村の西部にあった。
1573年(天正18年)より旗本西尾氏の知行地、後に1602年(慶長7年)立藩して原市藩となる。1618年(元和4年)より西尾氏の移封により上知され幕府領となる[5][13]。1624年(寛永元年)より旗本柴田氏の知行地となる[5]。なお検地は1661年(寛文元年)に実施。1698年(元禄11年)より、再び幕府領となる[5]。1768年(明和5年)より川越藩(松平家)領となるが[5]、間もなく上知される[15][注釈 11]。
明治期に入ると寺社領を除き新政府の直轄地となり、府藩県三治制が布かれ武蔵知県事の管轄となる[15]。寺社領は1871年(明治4年)1月5日 (旧暦)寺社領上知令で府藩県に帰属された[16]。 1880年代は農地の割合が49.5 %(田8.8 %、畑40.7 %)、宅地が8.7 %、山林が36.1 %、原野が0.8 %で[17][注釈 12]、1950年代でも山林が開墾されて農地がやや広がったが、大きな変化は特に見られなかった純農村地域であった[17]。山林はいわゆる武蔵野の平地林である。民家は疎らであった。大宮台地上に位置する地域に当たるため畑作が中心で、麦や米、大豆[5]、甘藷などを主に生産出荷していた。戦後までは養蚕も盛んであった[18]。1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米45石、大麦104石、小麦32石、大豆12、小豆6石、栗24石、甘藷10800貫であった[19]。
なお、その後の上尾町が市制施行された後に大部分が浅間台となった1980年代では、区画整理事業により曲がりくねった狭い農道は廃道されると共に碁盤の目状に道路が整備され、農地や山林が開発されて景観は一変、古くからの農家や農地は市街地の中に残るが、住宅地が激増し都市的土地利用の比重が高い住宅都市に変貌を遂げている[13][17]。
世帯数と人口は1876年(明治9年)では46世帯、211人[5]、1889年(明治22年)では265人、1970年(昭和45年)では848人[5]、1978年(昭和53年)1月1日時点では64世帯239人[8]であった。
市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りであった[11]。
大字 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
大字沖ノ上 | 全域 | 上尾市立大石小学校 | 上尾市立大石中学校 |
当地区の東部を国鉄高崎線が通っていたが、駅はない。なお、後年設置された北上尾駅はかつての大字沖ノ上字原の場所に当たる。その駅ができるまでは、同じ場所に後述の道路の踏切があった。
当時の道路は区画整理により廃道となりほとんど残されていない[注釈 24]。上尾高等学校のすぐ北側の緩い「S」の字を描く道路や、並木通りの中妻3丁目交差点付近よりすぐ南西側に並木通りに南東方向へ並行する道路は、区画整理の際に一部付け替えられていて完全に一致しないが、当時の道路の名残である。その上尾高等学校のすぐ北側の道は高崎線を踏切で渡り、地区の東端を通る中山道(現、埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線)[46]に通じていた。鴨川には現在の浅間台大公園の南角付近に子橋が架けられ小泉に通じていたが、1997年(平成9年)12月12日撤去され、下流側に場所を変えて架け替えられている[43]。
下記以外にも神楽が薬王寺または氷川神社の境内にて奉納、上演されていた[47]。沖ノ上の神楽師が結成した「共盛座」の「沖村の神楽」は近隣の村々からも大好評で各所から多数の公演依頼もあったが[48]、神楽師もいなくなり昭和40年頃より途絶えた。
寺院は新義真言宗 薬王寺(新義真言宗、日乗院末)があったが、上述の通り1872年(明治5年)11月廃寺となり、堂宇の一部は伊奈学校や古泉学校の時期を経たその後集会所(現、浅間台会館)となった[23]。なお、所在地が浅間台になった1978年(昭和53年)1月にお堂が集会所の敷地に併設するように再建され、集会所の中に安置されていた薬王寺のご本尊が独立安置された[24][50]。
神社は大字沖ノ上字宮山707(現中妻にある宮前公園の東側付近)に1714年(正徳4年)建立の薬王寺持の氷川神社(現浅間台氷川神社)が鎮座していたが、1894年(明治27年)[注釈 25]に神明社の跡地であり現在地となる沖ノ上台原446-1〜3、同447-1〜3の場所に鳥居や祭器具とともに遷座された[29]。また、地区内で現在の浅間台二丁目1-1の区画の中央でやや西寄りの場所には沖ノ上の小字浅間台(せんげんだい)の名前の由来となった浅間塚と称される富士塚(取り壊され現存しない)があり、浅間神社が鎮座していた[49][51]。ほかには庚申社、八雲社、八幡稲荷社、雷電社、稲荷社などがあり、これらは1907年(明治40年)に小泉の氷川神社に合祀[注釈 15]され、八合神社(畔吉村と藤波村を除く大石村の旧周辺八ヶ村にあった鎮守を合祀したのでこの名がある)に改称された[23][52]。
大東亜戦争の頃は陸軍桶川飛行学校(現、桶川飛行学校平和祈念館およびホンダエアポート)の関連施設である陸軍探照灯基地が沖ノ上地内(現在の浅間台地内に相当[53])に設けられていた。そこで働く軍人たちは周辺の民家に終戦の頃まで宿泊していたという[53]。
その他、晩年は埼玉県立上尾高等学校や、4階建てのBS社宅[注釈 26]などや、鴨川に架かる当時の子橋の川上側に河川施設として農業用堰が設置されていた(子橋の移築後の河川改修の際に撤去)。
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