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明治大学文学部(めいじだいがくぶんがくぶ、英称:School of Arts and Letters)は、明治大学が設置する文学部。明治大学大学院文学研究科(めいじだいがくだいがくいんぶんがくけんきゅうか)は、明治大学が設置する大学院文学研究科。
専門学校令による明治大学では1905年(明治38年)に錦町分校で文学研究会が発足し、夏目漱石や上田敏、内海弘蔵、登張竹風、服部躬冶、桑原隲蔵らが課外講義を行った。文学部は翌年9月から正式に授業を開始したが、1908年(明治41年)に修業年限を切りあげ第1回の卒業生を出しただけで学生募集を停止してしまった。教員の数よりも学生の数が少ないのでは経営が成り立たないというのがその理由であった[1]。
学生募集を停止した後も文部省への廃止届は出されず、学則上文科は存続していた[2]。そのため文科再興を求める声は1924年(大正13年)頃からたびたび上がった。しかし当時の明大は関東大震災後の校舎再建、政治経済学部独立問題、予科移転問題などで財政的に苦しく、文科再興まではとても手が回らなかった[3]。
1931年(昭和6年)、明治大学創立50周年記念祝典を契機に文科復活運動が起こった。校友津村卓男を斡旋役に赤神良譲、畑耕一、松崎実、菅藤高徳、尾佐竹猛などが参加して文科復活懇談会が組織され、翌年2月25日の臨時商議員会および29日の特別委員会で専門部文科の復活を決議[4][5]、文芸・史学・新聞の3科をもって4月に開講を見るに至った(文科長:尾佐竹猛)[6]。
鳴り物入りで復活した文科ではあったが、しばらくは文芸科240人、史学科150人の学生定員をなかなか満たせず、他の科から「こんな欠損の文科なんかつぶしてしまえ」と批判されたこともあった[16]。しかし、昭和15年度から志願者数は増加に転じ[17]、太平洋戦争中も地歴科が学生募集を一時停止しただけで(間もなく再開)、文部省から文科の廃止を求められることもなかった[18]。
とはいえ昼間制の文芸科は学徒出陣と勤労動員のために授業はほとんどできなくなっていた。夜学の地歴科は灯火管制の下で細々と授業を続けたが、空襲警報が発令されるたびに校舎の電源が切られ、学生たちは暗闇と化した狭くて急な階段を通って屋外に避難した。1945年(昭和20年)の地歴科は集中講義方式が採用されたが、この期間中にもたびたび空襲があり、教員も学生も罹災者となっていたため、授業継続はもはや限界となっていた[19]。
1945年8月15日、太平洋戦争終結。明治大学総長鵜澤総明は翌月1日に「大詔渙発の其の日より、私共は平和国家の一員として其の第一歩を踏み出したのであります」[20]との談話を発表したが、学徒出陣の際の「彼の躁狂にして驕慢な敵米英の狭童を制圧して寸刻も油断あるべからず」[21]との鵜澤談話との落差はあまりにも大きいものがあった。
専門部文科の本格再建の歩みは1946年(昭和21年)から始まったが、職場復帰できない教員も多く、学則通りのカリキュラムを設定することは難しかった。とりわけ演劇映画科の必修科目は皆無であり、この学科は事実上消滅したものと判断されている[22]。
やがて文科長の尾佐竹猛が疎開先から復帰すると、専門部文科を旧制文学部に昇格させようという議論が始まった。このときの「尾佐竹構想」では文学科・史学科・哲学科・地理学科を設置することとされていたが、尾佐竹が急死したことや、新学制への移行が目前に迫っていたこともあって旧制度下での文学部昇格は見送られた[23]。
1947年(昭和22年)、登呂遺跡の発掘調査に後藤守一・杉原荘介と地歴科の学生が多数参加した。このことが戦後の文学部で考古学専攻が誕生する一つのきっかけとなる[24]。
現在の文学部は、第二次大戦後の1949年(昭和24年)に、専門部文科を新制大学に改組することを契機として開設され、文学科と史学科(一、二部)を置いたが[25]、「尾佐竹構想」にあった哲学科は設置されず[26]、地理学科は地理学専攻として史学科に組み込まれた[27]。
旧制の専門部文科は全在籍者の卒業をもって廃止されることとなったが、希望者については試験(外国語)のうえで新制文学部に移行することも認められた。のちの考古学者大塚初重も旧制からの移行組である[28]。
1950年(昭和25年)に史学科を史学地理学科と改称し[29]、考古学専攻を設置した。同年11月17日の明治大学創立70周年記念式典に昭和天皇が臨幸し、記念館3階の貴賓室で後藤守一の説明を受けながら登呂遺跡の模型や出土品の展示を見学した[30][31]。
学部発足時は現在のアカデミーコモンの場所にあった木造モルタル2階建ての校舎を使用した。旧軍の兵舎を移築したものらしく雨天時は雨漏りがひどく、床板は妙にきしむ、暖房設備もない劣悪な環境の下で学生たちは勉学に励んだ。1957年(昭和32年)に現在の紫紺館の場所にあった小川町校舎に移転したが、大通りに面して自動車の騒音がやかましく、内部構造も教室向きではなかったため、なんとなく落ち着かない校舎だったという。
その後鉄筋コンクリート5階建ての6号館(旧山脇服飾美術学院跡地)、7号館(旧文学部校舎跡地)、5号館(旧短大校舎跡地)が相次いで建てられ、現在のリバティタワーができるまで一部の3・4年生と二部の全学年は主にこれらの校舎を使用した[32][33]。
大学院の研究室は1954年(昭和29年)に竣工した大学院校舎の4階に置かれたが、程なくして8階に移転した。この校舎の南端には鐘楼が設けられ、毎日正午と午後5時に明治大学校歌のメロディを奏でたが、わずか1、2年ほどで演奏をやめてしまった。近隣の某大学から「白雲なびく駿河台」は騒音だとの苦情が寄せられたためともいわれているが、真偽は定かではない[34]。設計ミスや建設費高騰の問題から評議員と理事会の対立、果ては専教連闘争にまで発展するなど[35]、多くのエピソードを生んだ大学院校舎も5・6・7号館とともに解体されて現存しない。
戦後の文学部でも著名な文学者や小説家を教授陣に迎え入れる伝統は受け継がれた。のちの作詞家阿久悠(1955年入学)は明治大学への志望動機として久松潜一や土屋文明、舟橋聖一、中村真一郎、中村光夫、平野謙などの教授陣の顔ぶれに魅かれたからだと語っている[36]。
2002年に心理社会学科、2004年に文学科に文芸メディア専攻を設置。さらに2018年、心理社会学科に哲学専攻を設置して現在に至る。
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修士課程・博士前期課程
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博士後期課程
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