豊前市
福岡県の市 ウィキペディアから
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福岡県の東部、京築地域の南部に位置し、行橋市と大分県中津市のほぼ中間に位置する。県内4地域のうち北九州地域に属し[1]、都市計画の圏域では北九州都市圏に属する[2]。
市域北端は周防灘(瀬戸内海)に面しているため漁業が盛んであるほか、工場なども多く立地している。天気の良い日には海岸から対岸の山口県が見えることがある。市街地や住宅地は市域北部、日豊本線より南側に広がっている。
市域南部には求菩提山や犬ヶ岳などの山々が属する筑紫山地が連なっており、求菩提山などの山地が多く自然が豊かでこの周辺では湧き水が湧いている所も多い。特に市域南西部の畑地区にある「畑冷泉(はたのれいせん)」は、福岡県内でも有名な名水の一つで市外からも多くの人が訪れる。この他にも市内には名水が多い。
市域北部では中津市と直接接しておらず間に吉富町・上毛町を挟むが、市域南部の山地では中津市と接している。
豊前市は北九州都市圏の一部に組み込まれているが、北九州市中心部とは40kmと離れている。一方、中津市中心部まではわずか7kmと非常に近いことから中津市の経済圏・生活圏(中津都市圏)にも属する[3]。このような通勤・通学圏、医療圏、商圏等の状況から、豊前市は中津市が中心市宣言を行った九州周防灘地域定住自立圏の協定に加わっている[4](定住自立圏参照)。2005年の国勢調査では、豊前市の通勤通学者が中津市に通勤・通学する割合は10%を越えている。なお、北九州都市圏へ向かう割合は5%程度である。
※当初、合併市名を宇島市と決めていたがこれに旧八屋町の住民が激しく反発した。旧八屋町部分の分町を主張し、この影響で千束・横武両村が合併離脱を表明するという事態にまで発展した。その後、事態を収束させるため、一旦宇島市として発足した後に旧八屋町から出されていた“宇島”・“八屋”・“築上”のいずれでもない市名に改称することで合意がなされ、合併翌日の4月11日に豊前市と改称することを決定した。宇島市の名称は合併の僅か4日後に消滅した[5]。
築上郡椎田町、築城町と合併し「豊築市(ほうちくし)」となるべく合併協議を重ねていたが、2005年(平成17年)2月27日に椎田町で行われた住民投票で合併反対が多数との結果が出たため、椎田町が離脱を表明し合併協議会は解散した。
2005年末に隣接する吉富町に再度合併協議の申し入れを行い、両市町は勉強会単位での協議を行っていた。2007年2月26日、福岡県知事から、合併特例法に基づき吉富町との法定合併協議会設置を全国で初めて勧告され、4月1日に法定合併協議会が設置された。これにより、吉富町との合併協議が一層進むことが予想されていたが、町単独を望む意見のある吉富町においては「設置勧告は町民の意見を無視している」との批判が強く、2007年4月22日の吉富町長選で、豊前市との合併に慎重な今冨寿一郎が町長に当選した。同日の吉富町議会議員選挙でも豊前市との合併に慎重な候補が躍進する結果となり、2007年8月11日、吉富町は豊前市との合併協議を打ち切ることを決定した。これによって合併協議は事実上の白紙となり、豊前市は平成の大合併では合併を一切行うことなく単独市制を維持した。
旧椎田町、旧築城町の2町は合併し2006年1月10日に「築上町」が発足した。
福岡県と豊前市は隣接する吉富町、旧新吉富村、旧大平村に対して、豊前市との合併協議を行うよう再三にわたって申し入れていたが、豊前市よりも中津市に近いこの3町村は、中津市との越境合併を目指し申し入れを断り続けていた。新吉富村と大平村は2村での合併が決定し、2005年10月11日に上毛町が発足した。
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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初 | 浦野浩 | 1955年4月30日 | 1959年4月29日 | |
2 | 水野薫 | 1959年4月30日 | 1963年4月29日 | |
3-4 | 浦野浩 | 1963年4月30日 | 1971年4月29日 | |
5-6 | 水野薫 | 1971年4月30日 | 1975年10月3日 | |
7-12 | 神﨑礼一 | 1975年11月23日 | 1997年3月4日 | 辞職 |
13-16 | 釜井健介 | 1997年4月20日 | 2013年4月19日 | |
17-19 | 後藤元秀 | 2013年4月20日 | 現職 | |
※歴代市長[6]
豊前市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 豊前市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 豊前市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
豊前市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
太字の学校は標準服が指定されている。
宇島港周辺に工業地帯が形成されている。近年は中津市にダイハツ車体が進出した事により、自動車関連企業の進出が進んでいる。
宇島駅前には商店街が形成されている。この商店街は商業地として繁栄していたが、自動車等の普及によって生活圏が拡大したことで人口が流出、1990年代には国道10号沿いにロードサイド型店舗の進出が進み、さらに中津市などに大型ショッピングセンターが進出したことで商店街は衰退し、全国的に社会問題となっている中心部の空洞化が進んでいる。
最寄り空港は北九州空港(北九州市・苅田町)。ただし市内と空港を直接結ぶ公共交通機関はなく、朽網駅などで北九州空港エアポートバスに乗り継ぐ必要がある。
江戸時代後期に小倉藩により築港した。当初の築港目的は、帰属を巡り中津藩との間で係争となっていた山国川河口の小祝地区(現在は中津市内)の漁村の移転のためであったが築港後は廻船業を営む者が増え、宇島の経済発展のきっかけとなった。2020年現在では地方港湾に指定されており、港湾管理者は福岡県である。福岡県京築県土整備事務所が管理業務を行っている。
定期旅客航路は存在しないが、1971年(昭和46年)、宇部・宇島フェリーが宇部港(山口県宇部市)と結ぶフェリー航路の運航を計画していた[7]。計画では1000トンフェリー2隻を用い1日8往復を運航、陸路より所要時間を約3分の1に短縮し、豊前市の農産物を宇部市に輸送する一方、当時年間186万人が豊前市や大分県へ訪問していた山口県の観光客を誘客することも企図した[7]。宇島港側の基地は日鉄金属(後の日鉄建材豊前ニッテックス工場)横の県営岸壁とする計画で、運航会社の「宇部・宇島フェリー」も設立されていた[7]。
かつては市内に西鉄バス(西日本鉄道直営→西鉄バス京築)の路線網があり、国道10号を経由する北九州市 - 中津市間の路線や、豊前市内各地への路線、福岡市と豊前市を結ぶ高速バス路線があったが、現在は市内を通る西鉄バス路線は全て廃止されており、豊前市内と豊前市外を結ぶバス路線も上記の豊前・中津コミュニティバスのみとなっている。
★は故人
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