新湊市
日本の富山県にあった市 ウィキペディアから
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新湊市(しんみなとし)は、かつて富山県にあった市。富山湾沿岸にあり、市制施行以前は射水郡に属していた。2005年(平成17年)に射水郡4町村と合併して射水市が発足し、射水市新湊地区となった。
しんみなとし 新湊市 | |||||
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廃止日 | 2005年11月1日 | ||||
廃止理由 |
新設合併 新湊市・射水郡大島町・小杉町・大門町・下村 → 射水市 | ||||
現在の自治体 | 射水市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方(北陸地方) | ||||
都道府県 | 富山県 | ||||
市町村コード | 16203-5 | ||||
面積 | 32.43km2 | ||||
総人口 |
36,547人 (2005年国勢調査) | ||||
隣接自治体 | 富山市、高岡市、大島町、小杉町、下村 | ||||
市の木 | 松 | ||||
市の花 | 鶏頭 | ||||
市の花木 | 百日紅、金木犀、花水木 | ||||
新湊市役所 | |||||
所在地 |
〒934-8555 富山県新湊市本町二丁目10番30号 | ||||
外部リンク | 新湊市(国立国会図書館) | ||||
座標 | 北緯36度46分57秒 東経137度04分46秒 | ||||
ウィキプロジェクト |
富山県の二大都市である富山市と高岡市に挟まれた場所にあり、富山湾沿岸に位置していた。全域が旧射水郡に相当する。
2005年に射水郡4町村と合併し、射水市となった。合併で市の名称が残らないのは富山県で初の事例だった[1]。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
新湊地区は「珍姓の宝庫」として知られ、釣、網、波、魚、海老、鵜(う)、菓子、飴、酢、味噌、風呂、桶、地蔵、菊、綿、草、大工、塗師(ぬし)、桧物(ひもの)、四十物(あいもの)など希少性のある苗字が非常に多い[要出典]。
射水平野の北部に位置していた。市の北側は富山湾に面しており、市の中央部には放生津潟を掘削して建設された富山新港(伏木富山港新湊地区)が位置していた。平成の大合併以前の富山県の市では面積が最も小さく、唯一山と呼べるような地形が存在しなかった。
鎌倉時代以後、海岸部の湊町放生津(ほうじょうづ)を守る放生津城が築かれ、越中守護所が設けられた。室町時代の1493年には、明応の政変の難を避けて室町幕府10代将軍足利義材が、放生津城主神保長誠の手引きで下向し、幕府政権(越中公方)を樹立した地である。江戸時代には加賀藩領となり、北前船の出航地として栄えた。江戸後期に放生津郊外の高木地区で生まれた石黒信由は和算・測量術・天文暦学を修め、富山県・石川県の正確な地図を制作した。明治時代に久々湊地区で生まれた石黒宗麿は陶芸家として知られ、鉄釉陶器の製作の功績により1955年に人間国宝として認定された。
戦時中、伏木港の一元的な運営を目指した国策による強制合併により高岡市に合併されるが[2](新湊町は高岡市に合併の際の条件として、国鉄新湊線の東新湊駅までの延長または越中鉄道(現・万葉線)の高岡駅乗り入れの実現、伏木港から放生津潟(現・富山新港)を経て岩瀬港(現・富山港)に至る運河を作り放生津潟を工業港にする、新湊中部国民学校(後の新湊小学校)を移転改築する、新湊支所およびじんあい焼却場の新築、新湊町の計画中であった施設を全般にわたり認めることを要求していた[3])、戦後に戦時中に強制合併された市町村を元に戻した際に新湊町及び牧野村が発足する[2](但し中伏木、三ケ新、六渡寺、牧野地区の大勢は分離反対の声明を出していた[4])、新湊町は直ちに富山県内3番目の市制を施行した。一方の牧野村は発展が望めるとして、すぐ高岡市に編入している[2]。
代 | 氏名 | 就任 | 退任 |
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歴代新湊町長(1889年ー1942年) | |||
1 | 菅谷二平 | 1889年6月 | 1914年4月 |
2 | 宮林立作 | 1914年12月 | 1927年7月 |
3 | 高松覚太郎 | 1927年8月 | 1929年6月 |
4 | 金木喜作 | 1929年6月 | 1930年7月 |
5 | 卯尾田毅太郎 | 1930年8月 | 1942年9月 |
歴代新湊町長(1951年2月ー1951年3月) | |||
1 | 杉本兵太 | 1951年2月 | 1951年3月 |
歴代新湊市長 | |||
1 | 杉本兵太 | 1951年3月15日 | 1954年4月5日 |
2 | 1954年4月29日 | 1955年6月9日 | |
3 | 斉藤俊彦 | 1955年7月24日 | 1959年7月23日 |
4 | 新川栄昌 | 1959年7月24日 | 1963年7月23日 |
5 | 1963年7月24日 | 1967年7月23日 | |
6 | 内藤友明 | 1967年7月24日 | 1971年7月23日 |
7 | 1971年7月24日 | 1975年7月23日 | |
8 | 1975年7月24日 | 1979年7月23日 | |
9 | 渡辺一雄 | 1979年7月24日 | 1983年7月23日 |
10 | 1983年7月24日 | 1987年7月23日 | |
11 | 1987年7月24日 | 1991年7月23日 | |
12 | 松木康祐 | 1991年7月24日 | 1995年7月23日 |
13 | 1995年7月24日 | 1999年7月23日 | |
14 | 分家静男 | 1999年7月24日 | 2003年7月23日 |
15 | 2003年7月24日 | 2005年10月31日 |
新湊漁港を擁し、水産業が盛んである。その透明な姿から「富山湾の宝石」と称される白えび(地元では「ヒラタエビ」と呼ばれることが多かった)をはじめ、ベニズワイガニ、ホタルイカ、ブリ、バイガイ、ズワイガニなどが水揚げされる。漁場が非常に近く、一日に二度セリが行われる。児童一人にカニ一杯が提供される「ベニズワイガニ給食」や、近畿大学水産研究所富山実験場と堀岡養殖漁協が連携して養殖したトラフグを使った「トラフグ給食」など、「地産地消」の学校給食でも知られる。
1980年の第62回全国高等学校野球選手権大会に富山県立新湊高等学校が初出場したときや、1986年の第58回選抜高等学校野球大会で新湊高等学校が下馬評を覆しベスト4進出を果たした新湊旋風のときなど、高校野球の熱狂的な応援でも知られた。1980年の大会では、121台のバスが出発し[11]、自家用車も千台は行ったといわれる。4万人の市の人口のうち、約1万人が集結し、朝日新聞に「新湊が甲子園に移動してきた」という記事が載るほど大きな応援団だった。
1960年(昭和35年)の新湊市には以下の映画館が存在した[12]。
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