磯部町恵利原

三重県志摩市の地名 ウィキペディアから

磯部町恵利原

磯部町恵利原(いそべちょうえりはら)は、三重県志摩市地名

概要 磯部町恵利原, 国 ...
磯部町恵利原
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おうむ岩から見た恵利原(2012年)
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磯部町恵利原の位置
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磯部町恵利原
磯部町恵利原の位置
北緯34度23分0.9秒 東経136度48分1.2秒
日本
都道府県 三重県
市町村 志摩市
町名制定 2004年(平成16年)10月1日
面積
  合計 11.202553404 km2
標高
7 m
人口
2019年(令和元年)7月31日現在)[WEB 2]
  合計 703人
  密度 63人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
517-0209[WEB 3]
市外局番 0599(阿児MA[WEB 4]
ナンバープレート 三重
※座標・標高は恵利原区事務所付近。
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恵利原(1975年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
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川辺(住所上「磯部町恵利原」となる地域)

天保5年(1834年)刊行の『志摩国一の宮磯部まいり』に「恵利原は思ひの外の大郷にて」と書かれたように、かつては磯部九郷[注 1]最大の集落[1]名所旧跡も多い[2]

地理

志摩市北西部に位置し、北と西は伊勢市と接している。地質学的には、和合山の南を仏像構造線が通っていると考えられる[3]。また、逢坂峠付近の古生層中には厚い石灰岩が分布し、方々に石灰岩の露頭が見られる[4]。南東部の平地を除いて三方をに囲まれている[5]。中心集落は地区の南東部、川辺と呼ばれる地域と、そこから約1kmほど離れたところ、和合山麓の2か所ある[5]

北は伊勢市宇治館町、東は志摩市磯部町五知磯部町沓掛磯部町上之郷磯部町下之郷、南は志摩市磯部町迫間磯部町築地、西は伊勢市宇治今在家町と接する。

川辺

川辺(かわなべ)は、志摩市磯部町の地名。住所上は磯部町恵利原(南部)・磯部町迫間(東部)・磯部町下之郷(西部)に属する。住所上の大字を単位とする自治会とは別の自治会を有し、志摩市の行政上1つの地区として扱われることがある[注 2]が、独立した大字としては認められていない[注 3]明治時代から開拓が行われた地域で、鉄道駅銀行商店官公署など[注 4]が集まる磯部町の中心街を形成する。

歴史

要約
視点

近世まで

佐美長神社や磯部神社の境内からは、土師器須恵器縄文土器弥生土器が発見されている[5][1]。また、三重県立志摩高等学校ではグラウンド拡張工事の際に完全形の土器が見つかった[6]。この土器は南隣の磯部町立磯部中学校に寄贈されたが、後に行方不明となった[6]

鎌倉時代には「江利原」(下之郷南氏所蔵文書、正和4年9月〔ユリウス暦1315年9月〕付)、「依梨原」(『神武記』古写本ほか2文書)と表記されていたが、安土桃山時代文禄4年9月(グレゴリオ暦1595年9月)付の文書(上之郷中氏所蔵)から「恵利原」の表記が出現した[7]

江戸時代には恵利原村として志摩国答志郡磯部組に属し、鳥羽藩の配下にあった。初期の村高は765石だったが、後に766石に増加した[7]。恵利原村から伊勢国宇治(現在の伊勢市の一部)へ至る道は逢坂越えと呼ばれ、難所とされた[7]。また4つの茶屋が立ち並び、『伊勢参宮名所図会』に掲載されたものもある[1]。この道は現在の三重県道32号伊勢磯部線(伊勢道路)の元となった。河川ではアユフナが獲れ、必要に応じて上納された[1]。江戸時代末期には黒船来航を受け、現在の天理教磯部分教会所在地に陣屋を構えた[8]

近代以降

3度の大合併を経験し、現在まで大字として存続している。宮地沖と呼ばれる恵利原南東部の水田地帯では、磯部川が蛇行していたが、1912年(大正元年)の耕地整理に伴い、ほぼ一直線に改修された[9]

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志摩高校

第二次世界大戦頃まで恵利原は磯部で最も人口の多い大字であったが、戦後は磯部町の中心街が南下した影響で、迫間や穴川に追い抜かれた。1948年(昭和23年)には学制改革による新学制の下、磯部村立の三重県志摩高等学校磯部校舎(現・三重県立志摩高等学校)[10]と磯部中学校(現・志摩市立磯部中学校)が開校する。1965年(昭和40年)に伊勢有料道路が開通し、鳥羽市を経由せずに伊勢市へ自動車で行けるようになり、1968年(昭和43年)には三重県営の志摩水道が完成した[7]。平成の大合併の結果、志摩水道の給水自治体が志摩市のみとなったため、志摩水道(南勢志摩水道用水供給事業志摩系)は2011年(平成23年)4月1日より、三重県企業庁から志摩市へ譲渡された[WEB 5]

1994年(平成6年)の世界祝祭博覧会(まつり博みえ'94)を期に伝統恵利原早餅つき保存会が結成された[WEB 6]

沿革

地名の由来

『磯部郷土史』では、以下の説が唱えられている。

  • えり」(魞、魚へんに入)という漁具を使って川魚を獲っていたことから[11]
  • を納める道具である「」(えびら)にちなむ[12]
  • 衣服原料を織り成す所という意味の「衣輪原」・「衿原」に由来する[13]

世帯数と人口

2019年(令和元年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]

さらに見る 行政区, 世帯数 ...
行政区世帯数人口
恵利原 262世帯 589人
恵ケ丘 40世帯 114人
(磯部町恵利原)計 302世帯 703人
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人口の変遷

1746年以降の人口の推移。2005年以後は国勢調査による推移。

1746年延享3年) 531人[7]
1880年(明治13年) 703人[1]
1889年(明治22年) 1,149人[14]
1950年(昭和35年) 888人[15]
1980年(昭和55年) 1,237人[5]
2005年(平成17年) 722人[WEB 7]
2010年(平成22年) 666人[WEB 8]
2015年(平成27年) 626人[WEB 9]

世帯数の変遷

1746年以降の世帯数の推移。2005年以後は国勢調査による推移。

1746年延享3年) 133戸[7]
1880年(明治13年) 120戸[1]
1889年(明治22年) 180戸[14]
1950年(昭和35年) 182世帯[15]
1980年(昭和55年) 343世帯[5]
2005年(平成17年) 228世帯[WEB 7]
2010年(平成22年) 222世帯[WEB 8]
2015年(平成27年) 232世帯[WEB 9]

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 10]

さらに見る 番・番地等, 小学校 ...
番・番地等小学校中学校
全域志摩市立磯部小学校志摩市立磯部中学校
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磯部小・磯部中ともに恵利原の南部に位置する。

恵利原早餅つき

恵利原早餅つき(えりはらはやもちつき)は、三重県志摩市磯部町恵利原に伝わる独自のつきの方法。恵利原早餅つき保存会が技術の保持・継承を行う。

「早餅つき」の名の通り、通常の餅つきの3倍という高速で餅をついていき、餅米1t(餅つき約300回分)を2日でついたという記録がある[WEB 11]天保年間(1830年1843年)に伊雑宮御田植祭にくるんで餅を振る舞ったが、数をこなすために高速でつくようになったとされる[WEB 6]。囃子唄を歌いながら2人で1本の杵をとり、餅をつく[WEB 12]

観光

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おうむ岩

志摩スペイン村ができるまでは、磯部地域の観光の中心であった。

天の岩戸恵利原の水穴
名水百選に選ばれているの湧出地。全国各地に伝わる岩戸伝説(天照大御神が隠れ、世界が常闇となった)の舞台の1つ[16]。付近にはオオシマザクラの古木があり、が満開の季節には、江戸時代に存在した「家建の茶屋」が再現されたり、恵利原区自治会による「桜祭」が開かれる[WEB 13][WEB 14]
おうむ岩(おうむ石)
和合山にある幅127m、高さ31mのチャートの一枚[3]。岩による音の反響や岩上の展望台からの田園風景を楽しめる[16]

交通

鉄道
恵利原地区内は、鉄道は通っていない。最寄り駅は隣接地区にある近鉄志摩線上之郷駅または志摩磯部駅。最寄りの特急停車駅は志摩磯部駅となる。
バス
三重交通志摩営業所管内(中心となるバス停は「川辺」・「恵利原」)
磯部地域予約運行型バスハッスル号コミュニティバス)恵利原(畑田前)バス停
  • やまルート 上五知農家組合前
  • やまルート 桧山集落センター
  • うみルート 鵜方駅
  • うみルート 磯部支所
道路
道路施設
  • アメニティ道路磯部ステーション - 伊勢道路の休憩場所として置かれている施設。駐車場を中心にトイレ自動販売機・案内地図等がある小公園となっている。

施設

  • 三重県立志摩高等学校
  • 志摩市立磯部中学校
  • 志摩市立磯部小学校
  • 磯部浄水場
  • 神路ダム
  • 恵利原ダム
  • 恵利原センター

史跡

出身者

その他

磯部の御神田伊雑宮御田植祭)の奉仕区の1つである。

日本郵便

脚注

参考文献

外部リンク

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