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日本の神奈川県座間市の地名 ウィキペディアから
座間市の北部に位置し、一丁目北部に1927年4月1日、小田急小田原線が開通、運行しているが最寄り駅はなく、小田急相模原駅と相武台前駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩20分未満。
広野(ひろの)と呼ばれたこの地域は[6]、1950年代まで、座間・座間入谷の人々の所有地で耕作地であり、皆一同毎日鍬を担ぎ弁当持参わらじ履きで、府中みち[7]、江戸街道[8]、鶴間街道[9]を歩いて通い、桑・麦・陸稲の耕作をした[10]。現・座間市相武台二丁目との境界に目久尻川が流れ谷崖が多く森林であったため、耕作は、元の大字座間入谷飛び地だった現・イオンモール一帯から大字座間字元広野の相模野小学校周辺にかけての区域、元広野窪は谷崖森林が多く座間街道沿いの平坦な限られたところで行われていた。
1927年に小田原急行鉄道小田原線開通し、元広野窪北部を電車が走るようになり座間駅(現・相武台前駅)が最寄り駅となった[11]。
1937年9月30日、市ヶ谷より現在のキャンプ座間のところに陸軍士官学校が移転してきた。同12月20日挙行の卒業式昭和天皇行幸につき、府中みちが改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成。同年同日、人口約7千人の座間村は単独で町制施行し高座郡座間町となった。1941年4月29日、この時人口7千6百人の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口4万人を超える高座郡相模原町が誕生したが、1948年9月1日に、旧座間町域(現在の座間市域・この時人口約1万1千人)が相模原町から分離独立した[12]。
太平洋戦争が終わり、1945年9月2日、米軍により陸軍士官学校が接収されキャンプ座間となった。キャンプ座間~横浜間の米軍車両往来の為、早速、相武台前駅踏切前を起点とし、江戸街道~小池窪~鶴間街道(座間温泉)~下鶴間のルートで車両の通行を開始し、既存の町道を県道座間下鶴間線としたが、当初から米軍トラックなど大型車の通行に支障をきたし、バイパスの必要性が検討され、1947年から現在の座間街道であるところの幅二間(2けん・3.63メートル)の農道を整備拡張し[13]、1954年10月26日、新たに神奈川県道座間大和線として全面開通し幹線道路となった(従来のルートは同10月15日に廃止、神奈川県から座間町へ移管、暫く旧道と通称された)[14][15]。当初は「相武台新道」「行政道路」が通称であったが日産自動車座間工場ができてからは「座間日産通り」と呼んでいて、知らぬ間に「座間県道」やがて「座間街道」と呼ぶようになった。座間街道は相武台団地入口の信号で行幸道路までで突き当り。その先の村富線は相武台団地竣工時までなかった。
この広野台地区は座間市内で人が住み着いたのが最も遅かった。
1955年に座間町営水道が完成すると翌1956年、広野台で最初の住居であるキャンプ座間在勤米軍職員専用アパートメント「座間コート(Zama Court)」[16][17]が竣工し、キャンプ座間在勤米軍職員が入居し始めた。相武台団地入口信号の所には小佐野賢治創業の国際興業が経営する米軍大型バスの洗車場ができ、1960年代後半に入るとボウリングブーム到来とともに、多目的遊技場も兼ねた相武台ボールダイヤモンドレーン(※通称 相武台ボウル)、日産自動車座間工場正門のすぐ隣に座間ボウル、2ヶ所のボウリング場が1970年に営業開始した[18]。しかし、第一次オイルショック、レジャーの多様化が進み、ボウリングブームは数年で終焉した。相武台ボウルはベトナム戦争終戦とともににその役目を終え、1975年9月21日にスーパー忠実屋相武台店〜1980年12月ディスカウントストア・サンエム1号店の相武台店、その後パチンコ店になり漏電による火災で全焼し、ダイエー相武台店になった。
座間街道沿いは相変わらず畑一面・谷崖森林のままであったが、1960年12月20日に宅地開発事業[19]が始まり漸次宅地化、1962年に座間第三小学校が開校、1964年12月には、日産自動車座間工場が一部竣工・稼働を始めると、町役場はこの地の各小字を一括りに「元広野」[20]、行政上の扱いは相武台地区とした。同年7月27日宅地化完了[21]、早速、元広野の第三小学校付近に十数戸住み着いた。しかし小田急線相武台前駅や小田急相模原駅から遠いこともあり、そのため数年間は戸数が微増散見する程度であったが[22]、1968年・1969年に戸数が急増し[23]、新住民達がこの地を、座間街道を境界に隣接する相模台に倣い「広野台」と通称した[24][25]。その後も継続して戸数・人口が増加し、概ね市街地化した1974年11月1日、当該地域の各大字小字を統合し、正式に行政上の町名として広野台1・2丁目を新設し、1999年9月13日には住居表示を実施した。
旧地籍は、現一丁目が大字座間字元広野の鶴間街道以北・字元広野窪全域・相武台・相模台の各一部、現二丁目が大字座間字元広野の鶴間街道以南・大字座間入谷飛び地の向長窪の西半分・東長久保・長久保・長久保中通である[26]。
町内を流れる目久尻川源流は、大字栗原字小池谷の白髪弁財天が通説となっているがそうではなく、行幸道路に面する旧大字座間字上小池と元広野窪の境、現・広野台一丁目1番にあるロイヤルホストの公道を抜けた相模原市南区相武台三丁目と相武台団地の一番低い窪地にある遊水地付近が元々の源流である。源流から、その近くの行幸道路のドコモショップ・ロイヤルホスト周辺[27]、行幸道路を挟んで、反対側の住宅地になっている窪地付近はホタルが自生繁殖するほど清水が多量に湧き、美しい湿地であったが、戦時中に臨時東京第三陸軍病院の病院地下から元広野窪の小田急線線路下まで地下下水道として整備され[28]、病院の汚染水を排水する所謂「ドブ川」になり、源流から清水が湧き流れる美しい川はなくなってしまった。現況の目久尻川は公共下水道の整備により汚染水や生活排水を放出しておらず、溜まった雨水を放流している。
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[47]。
丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
広野台一丁目 | 33番~35番 | 座間市立相武台東小学校 | 座間市立座間中学校 |
1~32番 36~50番 | 座間市立相模野小学校 | 座間市立相模中学校 | |
広野台二丁目 | 全域 |
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は、以下の通りである[48]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
広野台一丁目 | 78事業所 | 897人 |
広野台二丁目 | 220事業所 | 8,859人 |
計 | 298事業所 | 9,756人 |
経済センサスによる事業所数の推移。
経済センサスによる従業員数の推移。
廃止路線
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