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伝承上の上古日本の人物・神 ウィキペディアから
大国主(オオクニヌシ、歴史的仮名遣:オホクニヌシ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。
大国主神 | |
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大国主神像(出雲大社) | |
十七世神 第六代 | |
先代 | 天之冬衣神 |
次代 | 鳥鳴海神 |
神祇 | 国津神 |
全名 | 大国主神 |
別名 | 大穴牟遅神、於保奈牟知、大穴道、大汝、オオアナムチ、国作大己貴命、八千矛神、葦原醜男、大物主神、宇都志国玉神、大国魂神、伊和大神、所造天下大神、地津主大己貴神、国作大己貴神、幽世大神、幽冥主宰大神、杵築大神、八嶋土奴美神、清之湯山主三名狹漏彥八嶋篠、清之湯山主三名狹漏彥八嶋野 等 |
別称 | 大国主大神 |
神階 | 正一位 |
神格 | 国造りの神、農耕神、薬神、禁厭の神 |
父 | |
母 | |
配偶者 | |
子 | |
宮 | 宇迦山の宮、天日隅宮(出雲大社)等 |
神社 | 出雲大社 等 |
記紀等 | 古事記、日本書紀、風土記 等 |
関連氏族 | 三輪氏、鴨氏、宗像氏、諏訪氏(洲羽国造)、守矢氏、木蘇国造、億岐氏(意岐国造)、長国造、都佐国造、波多氏(波多国造) |
『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正文によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。
須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。だが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際にかつて須佐之男命から賜って建立した「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を修復してほしいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が同意したことにより、このときの名を杵築大神(きづきのおおかみ)ともいう。
大国主神を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、沼河比売への妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』と『日本書紀』に記載されている(但し、『日本書紀』では「大国主神」という神名ではない)。『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある。また山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東など広範囲における地方伝承にも度々登場する。
このうち、大穴牟遅神について、記紀神話で少名毘古那神と連携して国土経営を行って著しい功績を残し、2神は多くの伝承に連称して現れる[2]。 白鳥庫吉は「オオナ」は「スクナ」(少兄、宿禰)に対する「大兄」と解釈している[2]。 また「ナ」の文献上の表記例では、和名類聚抄では大穴はオホナと発音が振られ、古事記では「大穴牟遅」、日本書紀の万葉仮名では「オホアナムチ」、万葉集では「大穴道」などと表記されるため「洞窟」を指す言葉だと推定されている[3]。 また「ムチ」は「貴い神」を表す尊称で、神名に「ムチ」が附く神は大己貴のほかには大日孁貴(オオヒルメムチ、天照大御神の別名)、道主貴(ミチヌシノムチ、宗像三女神の別名)、布波能母遅久奴須奴神、八島牟遅能神など、わずかしか見られない[2]。
大国主は様々な女神との間に多くの子供をもうけており、記紀・『先代旧事本紀』・『出雲国風土記』に記載されている他、各地の神社社伝にも名がある。子供の数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれている。
『古事記』上つ巻、及び『日本書紀』神代紀(下)に拠れば、スクナビコナらと共に「大国主神が行った国作りとは、人々に農業や医術を教え、生活や社会を作ること」であったとされる[10]。荒ぶる八十神を平定して日本の国土経営の礎を築いた。また出雲大神には祟り神としての側面があり、転じて「病を封じる神(医療神)」になったという[10][11]。古事記には、出雲大神の祟りで口がきけなかった本牟智和気命(垂仁天皇第一皇子)が、出雲大神に参拝することで口が利けるようになったとの逸話がある[12]。
医療神としての信仰の事例を近世挙げると、1883年(明治16年)10月に明治天皇皇后(昭憲皇太后)[13]もしくは大正天皇の生母柳原愛子が病弱だった明宮(のち大正天皇)の健康を祈り[14]、出雲大社より大国主の分霊をとりよせ、明宮が生活していた中山忠能邸の神殿に祀っている[15][16]。
大正天皇は皇太子時代の1907年(明治40年)5月27日[17]、軍令部長東郷平八郎大将と共に[18][19]、出雲大社を参拝した[20][21]。先述の「記紀にて人々に医術を教えた事による医療神信仰」に加えて、大正天皇は己卯の年の生まれ(平易に言えば干支は卯年の生まれ)であるので、(大国主の兄弟神たち・八十神に嘘の治療法を教えられて浜辺で泣いていた兎を正しい治療法・蒲の穂の花粉で癒やしたという因幡の白兎の)[10]逸話等から験を担いだものとされる。
大国主神を祀る神社は非常に多く、全国の一宮を中心に無数に存在するため、ここでは主な神社を列挙する。
ほか、全国の出雲神社で祀られている。また北海道神宮(北海道札幌市)をはじめ北海道内のいくつかの神社では、「開拓三神」として大国魂神・少彦名神と共に祀られている。
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