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大阪府藤井寺市道明寺にある神社 ウィキペディアから
道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺にある神社。旧社格は郷社。境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られているとともに大阪みどりの百選に選定されている[1]。
埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓とこの地を与えられた。そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社を建立した。仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。伝承では推古天皇2年(594年)に聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して土師寺としたという。この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏、秋篠氏が分流していく。
平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この寺を訪れている[2]。この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。昌泰4年(901年)、道真は大宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しんだ[2]。道真遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている[2]。
天暦元年(947年)には道真自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺を道明寺(現在は真言宗御室派の尼寺)と改称(道真の号である「道明」に由来)し、同時に土師神社内に天満宮も創建された。神仏習合が進み時代が下ると道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようになっていき、土師神社も天満宮が中心となっていった。
天正3年(1575年)、織田信長と三好康長が戦った高屋城の戦いで社殿、五重塔などを焼失したが、同年中に信長から寄進を受ける。天正11年(1583年)次いで文禄3年(1594年)には豊臣秀吉から、後には江戸幕府からも寄進されている。社領は174石である。
正徳6年(1716年)には石川が氾濫したため、道明寺が天満宮境内に移転し、道明寺本堂が天満宮本殿のすぐ西隣に建てられるなど両者はやがて一体化していった。
1872年(明治5年)神仏分離を行うこととなり、道明寺の五坊のうち二之室が神職家となって6月に天満宮は土師神社に改称した。また、郷社に列せられている。翌1873年(明治6年)9月に道明寺は分離し、東高野街道を隔てた西隣の地に移転した。1877年(明治10年)の明治天皇行幸の際に当社は行在所となった。
1952年(昭和27年)に土師神社から道明寺天満宮と改称する。現在も学問の神として地元の人々に親しまれている。当社の南には五重塔跡の礎石が残る。
神仏分離のあった1872年(明治5年)、天満宮の主体となった二之室の当時の住持は公家坊城俊明の八女で坊城俊政の妹・愛媛(得度して春寿尼)であったが、還俗して南坊城梓と称し、公家高倉永祜(梓の義兄)の次男良興が次期神主として南坊城家を継いで平民となり、以後南坊城家が代々宮司を務めた[3]。良興は大阪の私塾「泊園書院」に学び、伯爵壬生基修の娘麻子を妻として、道明寺天満宮の発展に寄与した[4][5]。
以上、唐時代または平安時代初期。『週刊朝日百科 日本の国宝』の解説は、硯は唐の製品、櫛は唐製の可能性が高く、帯と鏡は唐製品を模した日本製とする[9]。
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