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『母の初恋』(ははのはつこい)は、川端康成の短編小説。全5章から成る。母の初恋の人に引き取られた娘が、密かに彼を慕いながらも、別の男のもとへ嫁いでゆく悲恋の物語。亡き母の恋が神秘な力で娘の生をくぐって伝わってゆくという主題で、妻子持ちの男と若い娘の実らない恋が潔く描かれている[1]。ヒロインである「純潔な少女」は、川端の全作品をつらぬく主題の象徴ともなっている[1]。川端自身は第4章(母の死の章)に愛着を持ち、「そこのところの少女は可愛く、少し涙をこぼしながら書いた」としている[2]。
1940年(昭和15年)、雑誌『婦人公論』1月号に掲載された[3]。翻案作品も多く、1954年(昭和29年)9月17日に久松静児監督により映画化され、テレビドラマ化も7度行われた。
川端康成は1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、雑誌『婦人公論』に長編『牧歌』を執筆し始めたが、この作品は〈序の口までしか書けなかつた〉と川端自身がいうように長編小説とはならなかったが[4]、それから1年半ほど経た1940年(昭和15年)に川端は再び、雑誌『婦人公論』に連載の筆を取った。しかしそれは『牧歌』の続編でなく、それぞれ独立した短編であった[5]。休載の月もあったが、こうした経過で9編の短編が出来上がった[5]。
そのうちの最初の短編が『母の初恋』で、1940年(昭和15年)、雑誌『婦人公論』1月号に掲載された[3]。単行本は同年12月に新声閣より刊行の『正月三ヶ日』に収録され、翌年1941年(昭和16年)12月8日に新潮社より刊行の『愛する人達』にも収録された[3]。文庫版は新潮文庫『愛する人達』に収録されている。
『母の初恋』が執筆される8年前の1932年(昭和7年)3月初め頃、下谷区上野桜木町36番地(現・台東区上野桜木)の川端宅を伊藤初代が訪れた[6][7]。川端が顧問をしているレビュー劇場・カジノ・フォーリーの楽屋で川端の住所を訊ねてやって来た伊藤初代(当時、数え年27歳)は、その10年前に川端の前から姿を消した元婚約者で、川端の失恋相手であった[6]。川端と書斎で対面中、ずうずうしい女だとお思いになるでしょうと初代は何度も繰り返して、川端を懐かしがった[6]。初代は、再婚相手の桜井五郎の失業から生活か苦しく、亡き前夫・中林忠蔵(カフェ・アメリカの元支配人)との間の長女・珠江(当時8歳)を養女に貰ってほしいと頼んだ[7]。
この初代との10年ぶりの再会が、『母の初恋』創作の着想になっていることが一部の論者に指摘されていたが[8][9]、初代が娘を養女にしてほしいと頼んだことも、川端夫人・秀子の著書で事実だと確認されたことで、さらに川端の実体験と作品の緊密度が高まり、事実を認識した上でのフィクション化の検証研究や精緻な読み解きが課題となった[10]。初代の訪問を題材にした作品は、ほかに『姉の和解』がある[8][10]。
母親の死後、16歳の時に母の初恋の人・佐山の養女となった19歳の雪子は、佐山とその妻・時枝の取り決めた縁談に従い、婚約者・若杉との婚礼の日をひかえていた。料理好きの雪子は、時枝と全く変わらぬ味つけが出来るようになっていた。佐山は、そんな雪子の新婚旅行の宿屋を探しがてらに熱海へ行き、昔のことや雪子を引き取った経緯を回想する。
6年前、佐山が昔の恋人・民子と12、3年ぶりで再会した時、民子は32、3歳だったが、年よりも老け、疲れ果てた姿だった。映画のシナリオ作家となっていた佐山を民子は懐かしがっていた。佐山は、躊躇しながら訪問してきた民子を書斎に通し、事情を聞いた。民子が最初に結婚した男は結核で死亡し、娘を連れ今の夫・根岸と再婚し5年になるが、離婚したいということだった。民子は13歳の娘と一緒に喫茶店をやるためのお金を貸してほしいと切り出したが、佐山にはそれほどの金の余裕はなく、2人の間には体の関係もなかったから尚更無心は成立しなかった。民子は自分が幸福を逃したのは、佐山に背いた罰が当たったのだと言った。その後、佐山の留守中に民子は娘を連れて再訪したきり顔を見せなかったが、その半年後に佐山は銀座で偶然、民子と出くわした。ぜひ娘・雪子を見てほしいと言う民子に従い、母子2人暮らしの麻布十番の裏町の新居に佐山は寄った。水兵服を着た雪子が粗末な机で勉強していた。民子は、初恋の人・佐山のことを娘に全部聞かせているのだと言い、病気の自分に万一のことがあったら、娘を見てやってほしいと頼んだ。
佐山は学生時代、劇研究会を作っていて、民子は女優代りの手伝いに来た娘だった。大学卒業と同時に撮影所に就職した佐山は、婚約者・民子を女優として開花させてから、結婚しようと珠のように大事にしていたが、傍から、屑のような映画新聞記者に民子の体を奪われてしまい、彼女の肉体の盲目の流れを見送るしかなかった。のちに佐山は、民子がその男と結婚してしまったのは、自分が民子の体を奪わなかったからだという原因に突きあたった。男の下宿に居る民子を探し訪ねた時にも、暴力で連れて帰ればよかったのだと、佐山はのちに女を知ってから悔やまれたものだった。
しかし結果的にはもう何の傷もない佐山の一方で、民子は佐山を始終思い出し、心で詫びて、娘にまで彼のことを話していたのだった。果たして愛を裏切ったのは、どちらであろうかと佐山は考えた。民子に打算があるにしても、今となっては、愛を貫いたのは民子の方であって、佐山は若い幼い愛が滅びていなかったことを不思議に思い、民子の一生を狂わせ不幸に追い立てた初めの原因が自分にあるのだと佐山は思うのだった。その翌年の4月、佐山は民子が死んだという電報を雪子から受け取った。悲しみの中でも無意識に他の客よりも自分に甲斐甲斐しく働く雪子に、佐山はいじらしさを感じた。葬儀からしばらくして雪子は引っ越して行方不明となってしまったが、ある日、佐山の妻・時枝が、百貨店の食堂の給仕をしている雪子に会った。以前から民子と雪子に同情していた時枝の勧めもあり、佐山は不憫な雪子を引き取り、養女にすることにした。
雪子が嫁ぐ日の朝、「どうしても辛いことがあったら、帰ってらっしゃいね」と時枝が言うと、雪子は涙にむせんで部屋へ走り出してしまった。時枝は、披露宴の帰りの車中で夫に、「あなた、雪ちゃんが好きだったんでしょう?」と尋ねると、佐山は「好きだった」と静かに答えた。時枝は雪子がいない淋しさも思い、嫁入りを急がせたことを反省した。新婚旅行から帰った雪子と若杉の新居を訪ねた佐山は、そこに雪子の継父・根岸が父親ぶって、自分に無断で嫁いだ雪子を怒鳴っているのを見た。一行が、とあるビルの地下室で話の決着をつけている途中、雪子が座を離れたまま行方不明になった。心配した佐山は雪子の親友に電話をかけると、結婚直前に雪子が彼女に出した手紙の内容を教えられた。雪子には好きな人がいて、手紙には、「初恋は結婚によっても、何によっても滅びないことを、お母さんが教えてくれたから、私は言われるままにお嫁入りする」ということが書いてあった。
次の日、佐山が撮影所に行くと、雪子が朝早くから佐山を待っていた。佐山は送る車の中で、婚礼の日の朝に、「辛いことがあったら帰っておいで」と時枝が言った言葉に触れると、雪子は、「あの時、私、奥さんは幸福な方だと思いましたわ」と言った。それはただ一度の雪子の愛の告白であり、佐山へのただ一度の抗議だった。佐山は、若杉のところへ雪子を送り届けようと車を走らせているのかどうか、自身にもわからなかった。佐山の心には、民子から雪子へと貫いて来た「愛の稲妻」がきらめくだけだった。
愛する人達 | ||
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著者 | 川端康成 | |
イラスト | 装幀:芹沢銈介 | |
発行日 | 1941年12月8日 | |
発行元 | 新潮社 | |
ジャンル | 短編小説集 | |
国 | 日本 | |
言語 | 日本語 | |
形態 | 上製本 | |
公式サイト | ||
コード | NCID BN07369558 | |
ウィキポータル 文学 | ||
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『母の初恋』と同時期に、雑誌『婦人公論』に連載された短編は他に8編あるが、これらは〈愛する人達〉という題名で単行本となった。いずれも円熟期の川端の名編とされ、「愛情」を描いている点でその諸作品は一貫したものを持ちながら、取材、想念、手法の上にも様々な変化を見せている[5][11]。
『母の初恋』以外の作品は、以下のようなあらすじである。なお、〈愛する人達〉という名称の作品はないが、『ほくろの手紙』の作品内に、〈わたくしは愛する人達を思ふために…〉という文章が出てくる。
『母の初恋』や、同時期に書かれた『夜のさいころ』『ゆくひと』『年の暮』などの短編群は、本格的な論究をされることはほとんどないが、いずれも川端自身が深く愛している幸福な作品とされ、それらに登場するヒロインたちは、みな「純潔な少女」という共通点がある[1]。
三島由紀夫は『母の初恋』について、川端自身が第4章(母の死の章)に愛着があると述べていることを受け[2]、その章で「少女の可憐さ」がよく表現されている一節の、〈雪子はまた溝の縁を歩くのである。「真中を歩けよ。」と、佐山が言ふと、雪子はびつくりして、ぴつたり寄り添つて来た〉を「大事な数行」として挙げ、それを「中世の象徴図めいた神秘な構図」と呼んで以下のように解説している[1]。
また、「母の思ひが神秘な力で娘の生(いのち)をくぐつて伝はつてゆく」という『母の初恋』の主題は、『夜のさいころ』にも関わりがあり、そこでは「純粋な無為の形にまで高められ」て、「さいころの目を思ふがままに出してみせた母の手業は、やがて娘の手で五つのさいころが一ばかり出る〈美しい花火〉のやうな奇蹟を成就させるよすがとなる」と三島は説明し[1]、その前段で川端が〈みち子の全身には、なにか神聖なよろこびがあふれてゐた〉と書いていることを鑑みながら、この「奇蹟」の語られ方の「簡素な正確さ」は、古い宗教的な説話が持つような迫力を伴いつつ、「受胎告知の静けさに近づいてゐる」と解説している[1]。
『ゆくひと』について三島は、「きはめてささやかな、小さな水晶の耳飾りのやうな小品」だとし、「浅間の噴火が、無機質の生命(と謂はうか)の遣瀬ない怒りをたえず投げかけて、齢やうやく思春期に入つた少年の苦しみと呼び交はしてゐる」と評している[1]。そして、この小説を読んで、「自分の肩に、誰しもこの少年の年頃に夢みたであらう一人の年上の娘の掌の柔らかさと温かさを感じ、更にをののく自分の少年期の肩のかよわさをありありと思ひ起こさない人」は、川端文学の十分な読者とは言えず、ましてや最後の行の「純潔な怒り」は分からないだろうと解説している[1]。また、『年の暮』については、川端の芸術論が見られるエッセイ風な小説で、その「語られる方法」にも耳を澄ます必要があるとし[1]、それは川端の「こころ」が、「言葉の字面からよりも、言葉を組み立ててゐる糸の張りや、その糸が弾かれて立てる音からひびいて来る場合がままあるからである」と説明している[1]。
そして、『母の初恋』の雪子をはじめ、『夜のさいころ』のみち子や『ゆくひと』の弘子らが、「純潔な少女」であることを三島は指摘しつつ、その少女が川端の「全作品をつらぬく主題の象徴」であり、川端作品の大事な主題の「嘗て内面が窺ひ知られたことのない生の或る現はれ」であり、それは川端が軽々に「心理の沼」へ足を踏み入れることのない「一つの純潔な決心の象徴のやうなもの」でもあると解説している[1]。そして川端が『文学的自叙伝』の中で、〈好奇の触覚を繊弱な物見車に乗せて人生も文学も素通りして来た。素通りのありがたさ〉と語っている部分に「薫り高い操持」の秘かな決心を三島は看取して、以下のように語っている[1]。
人は内面に入るとき、いかに多くのものを失つたかに気づかない。その失はれたものを、川端さんはしばしば「こころ」といふ優しい言葉でとらへて来てをられる。それをとらへる力は、啻(ただ)に感覚といふやうなものではない。日頃は死んでゐるやうに見えるわれわれのいはば絶対的な生が、少女や花や小鳥のやうな「生それ自身」――いはば絶対的な生――に行き合ふときに、覚えずにはゐられない瞬間のまぶしさ、これにつづく何事をも願はない清冽なためらひ、さういふものから生れ出てくる力かと思はれる。時として私たちはさういふ絶対的な生をも、相対的な生の物差で割り切ることを理性と考へ、自分が揺ぐまいとする努力のすべてを失ふ。しかし川端さんの文学の態度は、たえず無偏なものをうけ入れる仕度をしてゐる。いはば虚しさの裡にあふれた待つことの充溢であり、虚空にふりそそぐ美酒を待ち設けてさし出された盃であり、神々の饗宴にそなへた純白な卓布のやうでもある。それはまた今のやうな雑然たる時代との対照に於て、リルケが羅馬の或る庭園で見たあのふしぎなアネモネの花を思はせるものがある。 — 三島由紀夫「『夜のさいころ』などについて」[1]
高見順は、『母の初恋』に感動し、雪子が溝の縁を歩く姿が「永く心に残ったものだ」と述べ[5]、『夜のさいころ』も心にしみ、「さいころを降る踊子が忘れられないものに成りそうだ」としながら、そこには、『伊豆の踊子』とは違ったニュアンスがあり、川端の浅草の踊子物の中で、特に気に入ったものの一つとなったと評している[5]。また『年の暮』については、気持ちを楽にした仕事とは違う「にがい」「からい」小説だと評し、主人公・泉太が娘の声を聞き、〈ああ〉と思い、その思いを〈説明しにくかつた〉と言う個所が、川端の小説を読んで「ああ」と感じ、その思いを解説しにくいことと共通し、また、泉太が娘の声を久しぶりに聞き、〈ぱつと花が開いたかのやうに〉感じて驚く個所は、川端の小説から与えられる「喜ばしい驚き」と同じような感覚だと解説しながら[5]、泉太の中には、川端の「一種の自己批評のようなもの」あり、小説自体の中に解説が含まれているとも言えると高見は指摘している[5]。
森本穫は、伊藤初代との再会という川端の実体験が作品成立の経緯となっている点から鑑みて、初代の突然の婚約破棄で、「不可解なままに愛を喪った」川端だったが、「その真剣な思慕は、ちゃんと初代に通じていた」とし[12]、「康成の愛は初代によって思い出され、次第に大切な思い出となって、苦境にある初代の心の支えとなった」と考察しながら[12]、初々しさや美しさが失われた初代との再会に「美神」の像は崩壊し、川端の内部から「伊藤初代」は去ってしまったが、その娘から愛されたいという願望が、『母の初恋』を生んだとして、以下のように解説している[12]。
そして森本は、川端が『母の初恋』を具体化していた時期は、従兄・黒田秀孝の三女の政子を養女として引き取ることを考えていた時期で、それが作品に影響しているとして、「政子を養女として引き取ることによって、康成は、かつての伊藤初代に代わる、新しい〈美神〉を獲得したのではないか」とし[13]、川端が先験的に愛情を傾ける少女に共通する要素として、「いずれも市民社会での定着した生活的基盤を持っていなかったこと」、「寄る辺の少ない身の上であったこと」を挙げている田中保隆の論を敷衍しながら[14]、政子をモデルにした『故園』の少女・民子(5歳で実の父と別れ、母子家庭で育った病弱な少女)が、「(川端と)血縁の少女だが、伊藤初代や踊子と共通する〈寄る辺の少ない身の上〉の少女」であり、川端が『伊豆の踊子』の薫から寄せられた無償の愛、無心な好意の共通性が、『故園』の「民子」にもあることを指摘し、その名前の点からも、「『母の初恋』は、まるで『故園』の少女との邂逅を予期したかのような作品」だと論考している[13]。
『母の初恋』(東宝) 1954年(昭和29年)9月17日封切。
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