Loading AI tools
ウィキペディアから
ベルギー生まれ。父親が外交官だったため小学生になるまではロンドンで暮らす。小学生時代は父の赴任に従い国内外を転々とし、13歳で一人日本(宇和島の叔父宅[1])に残り、1922年に旧制宇和島中学校(現在の愛媛県立宇和島東高等学校)に入学[2]。1924年、母と兄弟が帰国し、青山学院中等部に編入、1925年に旧制成城中学校に転入[2]。1926年に成城高等学校に入学するが、1929年に中退した[3]。外交官を辞してブラジルでのバナナ栽培で成功した父親が東中野に自宅を建設、高校生の綱武がその設計をした[1]。
高校中退後、同級生だった大岡昇平らと同人雑誌『白痴群』に参加し、中原中也、小林秀雄らと知り合い[2]、文藝評論を行う。20代で最初の妻と結婚[1]。父親からの仕送りで裕福であったため、作家仲間を集めて自宅でしばしば古谷サロンを開いた[1]。
1936年に評論集『横光利一』を刊行し、文芸評論家としてデビュー[2]。戦争で父親からの仕送りが止まったため生活困窮し、家庭も不和となり、家財や家を売り、女性評論を手掛け始める[1]。1944年応召、翌年復員。
戦後は1950年代初期まで亀井勝一郎や堀秀彦らと並んで恋愛論の書き手として知られ、恋愛を教養主義的な色彩や人生論、青春論とあわせて論じ、若い世代に人気を博した[4]。女性論、児童文学論などで100冊に及ぶ多数の著作があり、雑誌などでも活躍したが、離婚騒動がスキャンダル的に報じられたのをきっかけに、表舞台から遠ざかった[1][5]。
1969年に仲間たちとの勉強会「むれの会」を主宰。
墓所は多磨霊園。
最初の妻・豊子との間に子もあったが1951年に離婚し、自身の秘書だった吉沢久子と再婚し、当時、女性論などで活躍していた古谷が糟糠の妻を離縁して年若い秘書と結婚したとして巷を騒がせた[6]。古谷は豊子が実家に疎開中、久子と同棲を始め、豊子が戻ってしばらく同居するも別居、古谷は協議離婚の書類を豊子に送り、判を押したら100万円、ほかに毎月3万円送ると言って離婚を迫ったが、豊子が拒否して揉めたのだった[7]。『文藝春秋』は「疎開型離婚」の典型と断じた[7]。
『婦人公論』(1955年5月号)は「未婚女性に捧げる特集」の中で、「ある女性問題評論家の生き方 ‐ 古谷綱武氏の離婚問題を巡る告白・訴え・批判」と題して30ページを費やして、元妻の豊子、後妻の久子、古谷の当事者3人の文章に加えて、大浜英子による「“妻”か“別れた妻”か」、古谷の離婚前の友人・高野三郎による前妻側に立った文章、8年前の別居に立ち合った谷川多喜子(谷川徹三の妻)による喧嘩両成敗的な文章を掲載した[5]。同年10月には『精神分析』誌に「三角関係心理の親子相伝--古谷綱武氏の離婚問題」が掲載された[8]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.