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日本の東京都中央区にある持株会社 ウィキペディアから
セイコーグループ株式会社(英: SEIKO GROUP CORPORATION[2])は、東京都中央区に本社を置くセイコーグループの中心会社である。ブランド名はSEIKOの他複数を保有しており、高級腕時計であるグランドセイコーや高級・宝飾腕時計としてクレドール、セカンドラインとしてデフュージョンブランドALBAをはじめ、ALBAの上級ファッションブランドウォッチであるWIRED、ライセンスウォッチブランドアニエスベーなどを展開している。
セイコーハウス銀座(旧・銀座和光、服部時計店。セイコーグループの登記上の本店) | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
機関設計 | 監査役会設置会社[1] |
市場情報 | |
略称 | セイコーG |
本社所在地 |
日本 〒104-8110 東京都中央区銀座一丁目26番1号 |
本店所在地 |
〒104-8129 東京都中央区銀座四丁目5番11号 (登記上の本店・セイコーハウス銀座内) |
設立 | 1917年10月29日(1881年創業) |
業種 | 精密機器 |
法人番号 | 9010001034797 |
代表者 |
服部真二(代表取締役会長兼グループCEO) 高橋修司(代表取締役社長) |
資本金 |
100億円 (2021年3月31日現在) |
発行済株式総数 |
4140万4261株 (2021年3月31日現在) |
売上高 |
連結:2026億71百万円 単独:113億1百万円 (2021年3月期) |
営業利益 |
連結:21億94百万円 (2021年3月期) |
経常利益 |
連結:6億33百万円 (2021年3月期) |
純利益 |
連結:34億75百万円 (2021年3月期) |
純資産 |
連結:1130億82百万円 (2021年3月31日現在) |
総資産 |
連結:3196億71百万円 (2021年3月31日現在) |
従業員数 |
連結:12,092名 単体:356名 (2021年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
会計監査人 | 有限責任あずさ監査法人 |
主要株主 |
三光起業株式会社 11.4% 服部悦子 8.7% 服部真二 5.5% 第一生命保険 4.3% 服部秀生 3.9% 服部洪尚 1.7% MSCO CUSTOMER SECURITIES 1.6% CHASE MANHATTAN BANK GTS CLIENTS ACCOUNT ESCROW 1.3% (2016年3月31日現在) |
主要部門 | ウオッチ事業、電子デバイス事業、システムソリューション事業 |
主要子会社 | 事業子会社(SHDグループ) を参照 |
関係する人物 | 服部金太郎(創業者) |
外部リンク |
www |
日本初の腕時計、世界初のクオーツウオッチを製品化し、現在も時計関連で著名な企業である。オリンピックなどの世界大会などで公式スポンサー、オフィシャルタイマーとしてたびたび参加している。
また、日本初の民間放送である中部日本放送(現・CBCラジオ)、同じく日本初の民放テレビ局である日本テレビ放送網において、開局日に流された初のCM(中部日本放送は1951年(昭和26年)9月1日午前7時、日本テレビは1953年(昭和28年)8月28日正午の時報)を出稿したことでも知られている。
戦前・戦後から後楽園球場(1937年(昭和12年) - 1987年(昭和62年))、東京ドーム(1988年(昭和63年) - )、明治神宮野球場(1980年(昭和55年) - )と球場のスポンサーになったのを日切りに、スポーツ競技場のタイマーも製作している。
創業以来継続的に、スポーツイベントに計時支援を行っている。世界的に計時支援は、共同出資の別会社に自社ブランドの看板をもたせて支援させる方式(スイス時計メーカー出資のスイスタイミング社など)が普及しているが、セイコーはグループ内の部署に支援させることで技術開発も行うスタイルを維持している。
ちなみに、同社グループの広告・カタログに掲載される時計が示す時刻は、アナログ式が10時8分42秒、デジタル式が10時8分59秒を基準としている。
セイコーグループ(旧・服部時計店~服部セイコー~セイコー~セイコーHD)は、セイコーインスツル(以下SII)、セイコーエプソン(以下エプソン)とともにセイコーグループ中核3社といわれていた。中核3社とその子会社が、腕時計事業を中心に協力関係にあり、セイコーグループを構成する。SIIとエプソンは、服部時計店の製造部門であった精工舎を源流とする。両社は服部家が大株主になっていたが、セイコー本体との直接の資本関係は薄く子会社ではなかった。いわゆる「兄弟企業」であった。
セイコーグループは、服部時計店の時代から、腕時計の開発・設計・製造をSII(旧 セイコー電子工業(第二精工舎))とエプソン(旧 諏訪精工舎)に委託しており、店(販売営業部門)と工場(製造開発部門)という関係だった。
セイコーグループは、2001年(平成13年)から持株会社制に移行しており、各事業は事業子会社が行っている。
創業当初は、服部一族による家業経営が行われてきた[7]。セイコー創業者は服部時計店を興した服部金太郎であり、時計製造の精工舎も起業した。長男の玄三が二代目社長で、懐中時計や腕時計を製造する別会社の第二精工舎を発足。二男の正次が三代目社長を務め、四代目社長に玄三の長男の謙太郎、五代目社長に二男の礼次郎が就いた。
六代目社長は吉村司郎であり、服部一族以外の人が社長に就いた。七代目は関本昌弘、八代目は井上仲七、九代目は村野晃一である。
2006年(平成18年)、電子部品会社・セイコーインスツルの会長兼社長代行を務めていた服部純市(謙太郎の長男)が取締役会の緊急動議で解任された。
2010年(平成22年)までに、労働組合の調査などで、名誉会長である礼次郎と取締役の鵜浦典子(2002年(平成14年)より和光取締役、2007年(平成19年)よりセイコー取締役)が和光本館周辺に新たに店を出す「和光スクエア構想」を単独で進めるために、多額の不動産を取得していたことが発覚する。これを背任として、労組は経営陣に対する株主代表訴訟の手続きに入った。経営側も実態を調査し、社外取締役・原田明夫(元検事総長)が「刑事事件、民事事件の事件になりかねない」と判断、2010年(平成22年)4月30日の取締役会で緊急動議を発動。その場で礼次郎、鵜浦を和光の役職から解任すると同時に、「両氏の専横を止められなかった」として村野晃一をセイコーホールディングス会長兼社長の役職から解任。後任に謙太郎の次男で礼次郎の養子である副社長の服部真二が昇格、村野の解任と自身の新社長就任を自ら発表した。これらについて産経新聞は、「オーナー一族による会社の私物化が、上場企業としての企業統治(ガバナンス)をマヒさせた」[8]と報じた。労働組合「セイコーグループユニオン」に対してパワーハラスメントや左遷人事の訴えがあり、組合長の中村昇造は「退職や鬱病になった被害者は報告されただけで50人を超える」としている[8]。
代 | 氏名 | 在任期間 | 出身校 | その他 |
---|---|---|---|---|
初 | 服部金太郎 | 1881年 - 1934年 | 青雲堂 | 創業者。貴族院勅選議員 |
2 | 服部玄三 | 1934年 - 1946年 | 東京高等商業学校(現・一橋大学) | 創業者金太郎の長男 |
3 | 服部正次 | 1946年 - 1974年 | 慶應義塾大学経済学部 | 創業者金太郎の次男。経団連理事・藍綬褒章受章 |
4 | 服部謙太郎 | 1974年 | 慶應義塾大学経済学部 | 2代目社長玄三の長男 経済史学者、1950〜1951年慶應義塾大学経済学部副手、1951〜1953年同助教授 社長退任後は取締役会長(1987年 死去まで) |
5 | 服部禮次郎 | 1974年 - 1987年 | 慶應義塾大学経済学部 | 2代目社長玄三の次男。社長退任後、第9代目まで会長。10代目から名誉会長(2013年 死去まで) |
6 | 吉村司郎 | 1987年 - 1991年 | 慶應義塾大学経済学部 | - |
7 | 関本昌弘 | 1991年 - 1999年 | 慶應義塾大学法学部 | - |
8 | 井上仲七 | 1999年 - 2001年 | 慶應義塾大学経済学部 | - |
9 | 村野晃一 | 2001年 - 2010年 | 慶應義塾大学経済学部 | 詩人村野四郎の長男。 |
10 | 服部真二 | 2010年 - 2012年 | 慶應義塾大学経済学部 | 4代目社長謙太郎の次男。5代目社長禮次郎の養子。2012年10月1日から代表取締役会長兼グループCEO。藍綬褒章受章 |
11 | 中村吉伸 | 2012年 - 2021年 | 慶應義塾大学工学部 | - |
12 | 高橋修司 | 2021年 - | 早稲田大学理工学部 | - |
→アシックスとともに、プロスペックス・スーパーランナーズと同じセイコーウオッチへと統括される)
グランドセイコー、クレドール、ワイアード、アルバ、ソーマを除く製品の文字盤にはSEIKOのロゴが入る。
日本最初のラジオCM(時報)は、当時の精工舎の午前7時の時報であった[注 1]。1951年(昭和26年)9月1日に本放送開始直後のCBCラジオで放送された。
その内容は、精工舎からCBCに提供された時計の予報音楽(「チンカラコンカラ」というようなリズミカルな音)に続いて通知音が鳴り、「精工舎の時計が、ただ今、7時をお知らせしました」というものだった[10][11]。
日本最初のテレビCMも、当時の精工舎の時報であり、1953年(昭和28年)8月28日に本放送開始当日の日本テレビで放映された。当時の放送関係者の証言によると放送機材の操作に慣れていなかったため、フイルムが裏返しだったので音がまったく出ず、音なしの状態で30秒間放送された(いわゆる放送事故)。当時のフィルムの場合、映像の横に音を再生するためのサウンドトラックがあり、フィルムが逆向きになると音が再生されなかった。なお、時報音はフィルムと関係なく挿入されたため正確に出た。
この放送事故については、「3秒で放送中止となった」ということが定説とされていたが、これは間違いである[12]。
ちなみに、同日の午後7時の時報は無事に放映され、これが現存する日本最古のテレビCMである。翌日の正午、テレビCM第1号になるはずだった正午の時報も無事に放映された。
など
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