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サラブレッド系種(サラブレッドけいしゅ)とは、血統書紛失などで血統が不確かでサラブレッドの条件である三大始祖に遡れない馬。あるいはサラブレッドとアングロアラブ(アラ・サラ雑種)の掛け合わせでアラブ血量が25%未満の馬である。
単にサラブレッド系、サラ系などとも呼ぶ。
なお、JRAは競馬番組一般事項において、サラブレッドとサラブレッド系種を総称してサラブレッド系と称している。こちらもサラ系と略す場合がある。このため、サラブレッド系種をサラブレッド系、サラ系と呼ぶ場合は注意が必要な場合がある。
サラブレッドという語が登場するのは早くても18世紀の終わりか、19世紀になってからとされている。それ以前は、ランニングホースと呼ばれていた。しかし人間の都合で作られたサラブレッドは、イギリスではこの馬の血統を記録したジェネラルスタッドブックが刊行され、やがて同書がサラブレッドの血統の権威となった。同書では1836年の版で初めて「サラブレッド」という語が登場する。
日本への洋種馬の本格的な導入は、記録が不明確ではあるものの、幕末から明治初期の19世紀半ばから始まっており、この時代に持ち込まれた馬の中にはサラブレッドであると記録されているものもある。日露戦争(1904-1905年)を経て明治末期には日本国内でも本格的な馬産・競馬が行われるようになったが、早いものでは19世紀末から20世紀の初頭に日本に持ち込まれたり、日本国内で生産されたサラブレッドもいた。 しかし豪サラと呼ばれたオーストラリアから輸入した馬の中には血統書がなかったり、紛失した馬がいた。
当時「サラブレッド」は単に「競走で速い馬」を意味しており、サラブレッドとサラブレッドを交配して得たウマはサラブレッドとみなされた。日本国内では1922年に馬籍法が整備されたが、単に品種を登録すればサラブレッドと認められるものであり、祖先の血統の証明までは必要とされていなかった。
しかし、1901年に刊行されたジェネラルスタッドブックで初めてサラブレッドの定義が示され、1913年にはジャージー規則が完成した。これによると、すべての祖先馬が過去に刊行されたジェネラルスタッドブックに遡ることができなければ、サラブレッドとは認められないことになった。それにより過去にサラブレッドとされた馬も、その血統が書面で証明されなければ、サラブレッドではないものとされるようになった。こうした馬や、これらを祖先にもつ馬も日本国内では「サラブレッド(純粋種)ではない」とされ、血統不明の「サラ系」と呼称するようになった。
ジャージー規則によって、アメリカやフランスでも同様の問題が起きた。アメリカやフランス国内では「サラブレッド」とされる馬が、イギリスでは「サラブレッド系」とされた。ジャージー規則は1949年に廃止され、1969年にはさらに緩和されて、必ずしもジェネラルスタッドブックにたどり着かずともサラブレッドと認められる要件が整備された。
また以前はサラブレッドとの交配でアラブ血量が25%を下回ったアングロアラブ馬は「準サラブレッド(準サラとも)」と呼ばれていたが、1974年(昭和49年)6月1日の登録規程の改正により、準サラはサラ系に含まれると見なされ、準サラという品種は廃止された[1]。
なお、日本の在来馬に4代続けてサラブレッド、アラブ馬、アングロアラブ、アラブ系種、サラブレッド系種を配合した仔はサラブレッド系種と認められる(アラブ血量が25%未満の場合)。サラブレッド系種は8代続けてサラブレッドと配合された仔で国際血統書委員会よりサラブレッドと同等の能力を有すると認められた場合は純粋なサラブレッドの扱いとして認められる[1]。しかし国際血統書委員会の審査を受けなければサラブレッドとは認められないため、実際には8代以上続けてサラブレッドを配合されているにもかかわらず審査を受けていないために「サラ系」の称号が消えていないままの馬も見られる(以前は日本の軽種馬協会が独自に「8代続けてサラブレッドと配合されたサラ系の仔はサラブレッドと認める」という基準を示していたが、現在は国際血統書委員会を通さないと認められなくなった。)。この場合、7代続けてサラブレットと配合され、次サラブレットと交配させて生まれた仔がサラブレットと認められるサラ系繁殖牝馬のことを「ヴィークル・メア」と呼ぶ。
例として、血統書が紛失していたためサラ系とされたミラの子孫のナリタマイスターのファミリーラインを挙げる。 第三ミラから8代続けてサラブレッドが交配され、ナリタマイスターはサラブレッド、その母ヤグラステラはヴィークル・メアと認められた。
また、先祖が全て国際血統書委員会に登録されている馬でも、8代以内に血統不明の馬がいる馬はサラ系とみなす。19世紀中頃以降発祥の比較的歴史の浅い母系(コロニアルナンバーなど)の血を引く馬に見られ、1979年の菊花賞馬ハシハーミットの母系は祖母の代まではサラ系とみなされていた。
「サラ系」の馬は、明治から昭和中期の頃はレースで強さを見せればさほど問題にはならなかった。これは、競馬開催の目的が、軍馬の改良を主に置いており、血統よりも強く、能力の高い馬こそが重要であり、馬匹改良に役立つと考えられていたからであるが、戦後を迎え、純粋に競馬を目的とした馬産に移行するにともない、サラブレッドにとって「強さより血統」の重要性が認識され、一方サラ系の馬は嫌われた。
牝馬はある程度の競走能力が認められ、仔出しが良ければ、牧場・生産者にとって大切な存在になったが、牡馬の場合は能力以前に種牡馬になると種付けをして生まれた仔が全てサラ系になってしまうため嫌われた。昭和以降ではサラ系で種牡馬として一応成功といえるの実績を残した馬はキタノダイオーなどごく一部で、キタノオー、ヒカルイマイといったダービーや天皇賞などに勝ったウマですら嫌われ、種牡馬としては全くと言っていいほどチャンスを与えられなかった。
結果として、サラ系の馬は消えていった。1970年代までは中央競馬でも条件戦では1レースに1頭くらいはサラ系の馬は見つけられたし、1980年代前半まではグランパズドリームなどクラシック路線に進むサラ系馬も少なくなかったのだが、1980年代以降はほとんど見られなくなっている。しかし実力主義の地方競馬ではサラ系馬も多く見られた。1990年代以降は1920年あたりまでに輸入されたサラ系牝馬から8代前後続けてサラブレッドを交配された時期に来ており、サラブレッドとして認められた牝系が増え始めている。2009年度に登録されているサラ系の繁殖牝馬は僅か6頭に過ぎない。21世紀を迎えた現在でも生き残っているサラ系馬は多くがミラとバウアーストツクの子孫である。
なお、JRAはヒカルイマイやランドプリンスの登場をきっかけに、ミラなどの「豪サラ」と通称されるサラ系の血統を調査するべくオーストラリアに職員を派遣したことがある。しかし、調査時点でも既に70年以上前の古い馬であるために調査も限界があり、結局つきとめられなかった。
また最近、アングロアラブ馬産の壊滅により用途が無くなったアングロアラブ牝馬を活かす、または牧場にとって由緒の深いアラブ系の血統を残すための手段として、アラブ血量が比較的薄い(30%以下)アングロアラブ牝馬にサラブレッド種牡馬を配合して産まれたサラ系馬(準サラ)が再び出現している。
この馬の場合、母のアラブ血量は26.91%とかなり薄く、サラブレッドを配合された本馬はアラブ血量13.46%のサラ系馬になる。血統の86%以上はサラブレッドだけに、ほぼサラブレッドと変わりない能力も期待しうる。
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