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日本のプロデューサー、アニメ監督 ウィキペディアから
西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、1934年〈昭和9年〉12月18日 - 2010年〈平成22年〉11月7日)は、日本のプロデューサー、アニメーション監督。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ[1])。
にしざき よしのぶ 西崎 義展 | |
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本名 | 西崎 弘文 |
生年月日 | 1934年12月18日 |
没年月日 | 2010年11月7日(75歳没) |
出生地 | 日本・東京府東京市小石川区原町 |
死没地 | 東京都小笠原村父島 |
職業 |
プロデューサー アニメ監督 |
ジャンル |
テレビアニメ アニメ映画 |
活動期間 | 1962年 - 2010年 |
主な作品 | |
『海のトリトン』 『ワンサくん』 『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』 『宇宙空母ブルーノア』 『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』 『オーディーン 光子帆船スターライト』 『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』 『超神伝説うろつき童子シリーズ』 |
アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』『オーディーン 光子帆船スターライト』『超神伝説うろつき童子シリーズ』などを企画製作した。
東京府東京市小石川区原町(現・東京都文京区白山)に西崎正・秋子のもと、姉と弟がいる3人きょうだいの長男として生まれる[2][3][4]。
父親は東京大学法学部卒で[2]、企画院[5]、日本興業銀行勤務ののち[6]、日本曹達などの重役を務め[4]、不振企業の"再建屋"として知られた実業家・西崎正[7]。妹、西崎緑の没後は4派に分裂した日本舞踊西崎流の一派に幹部として運営に加わり[8]、創作舞踊の作者として自費出版も含めて3冊の舞踊台本を発表した[9][10][11]。
父方の祖父は薬学者で東京女子薬専(現・明治薬科大学)校長を務めた西崎弘太郎[12]、母方の祖父は予備海軍少将[13]ののち日本製鋼所の役員となった水谷叔彦[14][15]、父の妹は日舞の西崎流家元の初代西崎緑[16][17]。大叔父(祖母の弟)は病理学者の木村哲二[18][19]。
豊島師範付属小学校から[7]、1947年、父の命令で開成中学校を受験したが失敗し、家出して4日後に帰宅[20]。私立武蔵高等学校に入学し、1953年卒業。
文学座の舞台『欲望という名の電車』の杉村春子の演技に震えるほど感動し[7]、1955年に文学座の研究生となり、端役で舞台を踏んだものの、2年後に自動車事故で怪我をして俳優は断念した[21]。また2度の東京大学受験に失敗して父親から一度は勘当される[17][22]。
4年間の浪人生活を経て、1957年、日本大学芸術学部演劇学科に入学[21]。1959年8月に大学を中退したとする資料もあれば[23]、1957年に日本大学を卒業したと伝える資料もある[24][25]。
1958年頃より食べることに困って、六本木のジャズ喫茶の司会をやり、ジャズ解説などで生計を立てるようになる。当時の愛称はザーキ[6][26]。その後は、マネージャーとして、ダン池田とアフロキューバン、東京マンボ、ミュージカル・アカデミーの全国巡業に帯同した[27]。
1962年、音楽制作プロデューサーとして企画制作の道に入る[24]。
1963年10月、オフィス・アカデミーを設立[28]。しかし金銭的には厳しく、創価学会系の民主音楽協会(民音)のイベントを中心に糊口を凌いだ[17][6]。ショー製作の本数は約200本[24]。民音事務局長で後に公明党の国会議員となる大久保直彦に重用されていたが、後に嫌われて遠ざけられたという[29]。
1968年に西ヨーロッパへ渡航し、フランス人プロモーターの進行助手となる。共産圏の舞踊団やバレエ団を招いて舞台制作をして、約1年半ヨーロッパ全土を巡業してまわり、最終的にはロードマネージャー兼マネージャーを務めた[27][26]。3年間のヨーロッパ生活で受けた人種差別に反発し、このことは後に製作した『宇宙戦艦ヤマト』に思いが込められているという[30]。
帰国後の1970年、広告代理店の東洋広報(現・東弘)の紹介を得て虫プロ商事に入社した[31]。同じ年に手塚の知人を介して個人契約をして手塚のマネージャーを務めるようになった[26][27][32][33][34][35] 。西崎の説明によれば、手塚のゼネラルマネージメントプロデューサーであり、具体的には虫プロの組織や手塚個人の作家活動に関するマネージメントとプロデューサーを行ったという[26][27]。手塚作品のテレビへのプロモートを行い[27]、虫プロではなく手塚プロダクションで制作され、1971年から朝日放送で放送された『ふしぎなメルモ』で西崎は初めてアニメの世界に関わることとなる[26]。
虫プロ商事は出版業の失敗に伴う希望退職の募集が原因で激しい労働紛争が起こり、これが原因となって社長が手塚治虫に交代しており、1971年2月頃よりに企画制作部長として就任していた西崎が多忙な手塚に代わり事実上の社長代理として経営改革を図った。しかし急進的な改革は専横状態となったこと、手塚との個人契約で西崎が個人的収入を得ていたことから、人心を掌握できず、虫プロ商事は混乱状態に陥る[32][33]。西崎の虫プロ商事経営は失敗に終わり、1972年4月に社長の手塚は債権者との話し合いで経営を債権者委員会に委ねることとした[32]。
1972年4月、手塚治虫原作のテレビアニメ『海のトリトン』でアニメを初プロデュース。同作は1971年10月に虫プロ商事でパイロット版が制作されていたが[36]、虫プロ商事にいたメンバーを中心に新たに設立されたアニメーションスタッフルームが現場となり、手塚の手を離れたところで西崎が製作を行った[37][38]。西崎はテレビ局への『海のトリトン』売り込みのために1000万円の工作費を個人で捻出していた[39]。当初はテレビ放映の決定に喜んで西崎に感謝していた手塚だったが、その後は西崎に激怒して没交渉となった[40][41]。同作監督の富野由悠季によれば、『海のトリトン』の企画を引き受けていた虫プロ商事が潰れたために(実際の倒産は1973年)、最終的に西崎が著作権を購入して「手塚先生から『トリトン』をひっぺがした」のだという[42]。
同年にかつてと同名の新会社オフィス・アカデミーを改めて設立して社長に就任し、同社を商標及びその二次使用会社とする[24][28]。同じ年に瑞鷹エンタープライズにも個人プロデューサー兼製作部長として所属[43]。1973年1月より『山ねずみロッキーチャック』を製作[24]。西崎は手塚原作の『ワンサくん』のアニメ化権も取得しており、仕事のない虫プロダクションは『ワンサくん』のアニメ版制作を希望し、西崎は虫プロの役員に招聘される[44]。同年4月より『ワンサくん』を放送するも、放送終了後の11月に虫プロが倒産。
1974年6月に虫プロの再建運動を進めていた労働組合と和解。第2スタジオの建材と西崎の虫プロへの債権を組合に譲渡するとともに200万円を組合へカンパするというのがその内容[45]。倒産前の虫プロは西崎に300万円の借金をしていた[46]。一方、この虫プロ倒産時に、退職金代わりとして何本かのアニメの権利を得たという山崎正友の証言がある[29]。
1974年10月、前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。なお、西崎とSF設定等を担当した豊田有恒、主題歌を歌唱したささきいさおの三名は武蔵高等学校の同窓であり、「宇宙戦艦ムサシ」にしておけばよかったのでは、とのジョークすら生まれたとのこと(年次は西崎、豊田、ささきの順)[47]。
1977年に『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。翌1978年には新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。財産を築いて、銀座で毎晩飲み歩き、ハーレーダビッドソンのオートバイは25台を所有。高級マンションや大型クルーザーを購入して豪遊した[6][48]。
劇場版『宇宙戦艦ヤマト』一作目が版権、劇場販売物などを加え、手取りで17億円が転がり込み[49]、二作目の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は20億円が懐に入ったといわれる[50]。1978年の「映画の日」に映団連から特別功労章の贈呈が決まり[50]、同年11月15日に帝国ホテルで西崎の謝恩パーティが開かれ、西崎は「二十五年間の夢が叶って...」と大感激であったが、会場の話題はメインテーブルに西崎自らが釣ったカジキや鯛が並び、銀座の美女たちがズラリと顔を揃えた派手さと豪華さで[50]、スピーチに立った岡田茂東映社長は、自身も銀座5丁目のカリオカビルにクラブを出していたが[51]、「近来まれな豪華なパーティで驚いております。私なんかが足を踏み入れたことのないような高級クラブの美女ばかりお見えです...」などと祝辞を述べた[50]。
1979年、徳間康快と角川春樹と組んで「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称し、大藪春彦の『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュース。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所製作で西崎義展がプロデューサーを務めると発表され、実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫[52][53]。
『宇宙戦艦ヤマト』の製作により、本物の戦艦大和の最期に関心を抱くようになり、西崎は『宇宙戦艦ヤマト』のヒットで得た利益から3千万円を捻出して探索計画に乗り出した。この計画には野田昌宏の番組制作会社日本テレワークも参加し、計28人の探索チームを結成。1979年4月14日から27日かけて探索船をチャーターして鹿児島県屋久島沖をソナーで捜索を実施し、深海カメラを4度降ろして撮影も行われた。ソナーには2つの影が映ったものの深海カメラでは艦影は映らず、戦艦大和と断定できないまま捜索は打ち切られた[30][54][55]。
同時期には吉田喜重監督によるメキシコとの合作の実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)のプロデューサーに就任した。出演は原田芳雄と本田博太郎、音楽は宮川泰が予定され、1980年秋公開のスケジュールでメキシコへのロケハンまで実施されたが、これも流れている[53][56][57]。
1979年に公開された実写劇映画『わが青春のイレブン』[58]、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』[59]では音楽プロデューサーを担当してその活躍はアニメのみにとどまらず、1970年代末から1980年代前半にかけて、角川春樹や山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとしてもてはやされた[60][61]。角川とともに「日本映画界の革命児」とも言われて脚光を浴びた[62]。ラジオ番組オールナイトニッポンのパーソナリティを務めたり[63]、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズが放映される際にはテレビ出演したり、レコード『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち ドラマ編』では「ヤマトより愛をこめて」の歌詞を朗読するなど、プロデューサーとして裏方を務めるだけでなく表舞台への露出も多かった。
しかし1980年になって冷凍食品を扱うシーホース社が経営危機に陥る[64]。この会社は創価学会の顧問弁護士だった山崎正友が1976年に設立したもので、山崎は聖教新聞のカレンダーの仕事を仲介してくれたり[65]、アニメ映画『宇宙戦艦ヤマト』の前売券を民音に販売委託するにあたって口利きをしてくれる[66]など関係が深かったことから西崎も出資して共同経営していた会社である[17]。シーホース社が破産の危機を迎えたことから、オフィス・アカデミーから約20億円が注ぎ込まれて振り出した手形の回収など、巨額の資金繰りに追われるようになる。その結果、1982年夏、オフィス・アカデミーと関連会社を整理し、手形の処理も行った[17]。
前述の『汚れた英雄』の映画化では、20台のオートバイと10時間以上撮影したヨーロッパロケフィルムで既に3億円を投じていたが、この影響で断念して、映画化権を角川春樹に返上した[17]。
活動の拠点もオフィス・アカデミーから、1977年12月に設立していた赤坂のウエスト・ケープ・コーポレーションへと変更として1982年に再出発した[17][67]。同年10月には岡田茂を世話人にホテルオークラで「宇宙戦艦ヤマト10周年 西崎義展君をはげます会」が開かれ、石原慎太郎、徳間康快、阿久悠、宮川泰、美輪明宏、松方弘樹など芸能人やアニメ界、マスコミ関係者なども含めて600人が参加して、再起に賭ける西崎を激励した[68]。
『宇宙戦艦ヤマト』シリーズも1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』でいったん終焉した。その後、『DESLAR'S WAR I 戦艦スターシャ』『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』へ続く「ヤマト復活3ヵ年計画」の第一弾『オーディーン 光子帆船スターライト』が1985年に劇場公開されるが[69]、 配給収入の推定は2億円[70]と大失敗となり、借金を抱える結果に終わった[71]。ウエスト・ケープ社は6億円の損害を被り、これまで『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの配給を担当して来た東映との蜜月関係がこの作品で終わることとなる[72]。
初の実写映画プロデュースとなる本田美奈子主演のバイク映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』が1987年に公開。製作総指揮を務め、劇中にはヤマト号というクルーザーが登場した[73]。予算が8千万円オーバーした上に2週間で上映打ち切りの失敗に終わり、関係が悪化した東映に代わって配給を引き受けた松竹との関係も崩れる[74]。
経営破綻したレンタルビデオ店童夢の事業を1987年から引き継いだが不振によって1990年には資金難に陥る。1991年にジャパン・オーディオビジュアルネットワークが倒産。1996年に資金調達のため『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む西崎が有する著作権を担保にバンダイビジュアル(現:バンダイナムコアーツ)と3億円の金銭貸借契約を結び、東北新社へ著作権を譲渡する契約を結んだ[28]。
1997年2月には大口債権者の三井ファイナンスサービス(現:三井住友ファイナンス&リース)が東京地裁に対してウエスト・ケープ・コーポレーションと西崎個人に破産を申立て、破産した。
1997年末と1999年にはそれぞれ覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕された[6]。
保釈中の1999年に下肢麻痺となり、車椅子を使うようになる[28]。
服役中、自身が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原作者と主張する漫画家の松本零士と『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者は誰かをめぐって裁判となり、2002年3月に勝訴[75]。翌年7月に控訴審で裁判外の和解が成立[76]。
一連の事件では、2003年2月に懲役5年6か月の判決が確定[77]。2003年7月から八王子医療刑務所で1年3ヶ月服役した後、2004年10月に黒羽刑務所へ移送され[78]、2006年12月に黒羽刑務所を出所した[79]。
2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を製作・監督[22][6]。この作品の製作指揮のため、刑務所で面会できるように2002年頃に平野彰司と養子縁組を結んだ[80]。
2010年11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落、午後2時58分に医師により死亡が確認された[81][82]。75歳没。
2010年12月10日午後2時より、東京青山斎場にて「お別れ会」が開催され、歌手のささきいさおら約400人が参列した[83]。
没後に公開された『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』では、両作の原作である『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者である西崎が「原作者」としてクレジットされている。今後の新作も原作者とされている。
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
1997年12月2日、東京都渋谷区の宮下公園前の路上で運転していた乗用車から、覚醒剤50グラム、ヘロイン6グラム、大麻8グラムが発見され、覚醒剤取締法などの違反容疑で警視庁渋谷署に逮捕された[94]。
覚せい剤取締法等違反で起訴されて、1998年6月に一審で懲役2年8月の実刑判決を受ける[95]。西崎側は判決を不服として控訴。
1999年2月1日、警視庁銃器対策課と静岡県警により、銃砲刀剣類所持等取締法、火薬類取締法、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕される。容疑は、自宅のワゴン車に擲弾発射器付き自動小銃、小銃用実弾を約1800発、擲弾を約30発、覚せい剤20グラムを所持していたというもの[96][97]。続けて5月12日には自動小銃の密輸容疑で再逮捕[98][99]。
西崎が所有するイギリス船籍の外洋クルーザーオーシャンナイン号へこれらを隠していたが、清水港のドックに入れる際に隠すため、自宅に移し替えていたとみられる。健康上の理由での保釈中の犯行だった。取り調べに対して、海賊対策のために10年前に香港で購入したと供述したが、警察は武器の密輸と転売で利益を得ようとしたのではないかとみていた[100]。この事件の公判でフィリピン海域に出没する海賊対策のためと、同船で尖閣諸島へ上陸した石原慎太郎を警護する必要から、フィリピン沿岸警備隊の司令官から購入したと主張する[101]。
1999年6月9日、覚せい剤取締法等違反事件は最高裁で上告棄却、懲役2年8月が確定[102]。
2000年10月25日、銃砲刀剣類所持等取締法・覚せい剤取締法・火薬類取締法・関税法違反事件の一審で懲役5年6月の実刑判決を受ける[103]。西崎は不服として控訴。西崎は不服として上告。2003年2月20日、上告棄却。懲役5年6月が確定し、収監[77]。
2007年12月19日、刑期を終えて出所[87]。
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