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造船(ぞうせん、英:boat buildingあるいはshipbuilding)とは、船を作ることである。
この記事はその主題が日本に置かれた記述になっており、世界的観点から説明されていない可能性があります。 (2020年2月) |
広義には、どのような船を作るのか決める段階から含めて造船とされ、新たな技術開発も含まれることがある。1人乗りのボートを作る事も広義には造船といえるが、オールで漕ぐような小さなボート(手漕ぎボート)では単に「船を作る」と表現することが普通であり、「造船」と言えば通常は、甲板を備えるような(あるいは船室を備えるような)ある程度以上の大きさの船を「造る」ことを指している。プレジャーボート類(レジャー用のセーリング・クルーザーやモーターボート)や漁船を作ることも造船と呼ぶ。
木造の船、FRPの船、(アルミなど)軽金属製の船、鋼鉄製の船、等はその素材によってそれぞれ作り方は異なる。
木造船の場合、基本的に木でできた構造物を作る作業であり、作業内容の多くは木工すなわち大工仕事であり、作業を行う人は船大工と呼ばれる。おおまかに言うと、(ちょうど人間の背骨と肋骨の構造に似た)キール(竜骨)、肋骨などの船の骨格を組み、そこにプランク(plank)と呼ばれる横板を貼り付ける作業(プランキング)を行うことで曲面でできた船底が出来る。上面に甲板を作る。そして様々な艤装を行う。木造船の造船の歴史は長くその起源は不明である。現在でも世界各国で行われている。
FRPは昭和40年代後半から小型船舶の原材料として主流となった[1]。小~中型船舶で行われている造船法である。おおまかに説明すると、FRP船の場合基本的には、設計図に基づいてあらかじめ船のかたちをしたメス型をつくり、そのメス型の中に布状のガラス繊維を配置し、そこにプラスチックを浸透させ固めることで複合材料の船体を作り、メス型から抜く。FRP船の場合、自動車のように、メーカーが同一のモデルで複数あるいは大量に生産し、それをカタログに掲載したり展示場で展示し、購入者は出来合いのそれを選んで購入するということも行われている。受注生産で作られる場合もある。
中型や大型の鋼鉄製の船舶は、21世紀の現在、海運会社などの船主からの注文を受けて造船会社が個別に設計し、建造することが基本となっている(つまり受注生産である)。受注から引渡しまで、最短で1年、通常は2-3年かかるため船主側の海運に対する将来需要予測だけでなく、造船会社側でも将来必要とされる機能や装備、性能を船主と共に研究して実船の建造に反映させる能力が求められるようになっている[2]。
船の大きさと価格はおおまかに言うと指数級数的な関係にある。したがって、金額ベースで造船業の統計をとると、結果として大型船の統計が目立つことになる。だが、造船の数、という点では、中~小型の船舶も重要である。本記事では、小型船から大型船まで、総合的に造船を扱う。
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(中型以上の)船は自動車等とは違い受注生産が基本であり、受注から引渡まで最低でも1年[2]、通常は2-3年を要する。各造船メーカーは標準的な設計図を持っているが、たとえ連続建造であっても全くの同一の船は事実上存在しない。以下は鋼鉄製大型船舶の工程である。
21世紀初頭の現在、鋼鉄製大型船舶の建造は海や川、湖に面した造船所において行われる。造船に必要な鋼板などの鋼材や艤装に必要なさまざまな機械装置や設備類を運び込むのに都合の良いように陸運や海運の要衝に造船所があることが多く、歴史的に製鉄所の大口顧客であったことや、元々だったなどの理由で、製鉄所が近くにあることが多い。
船を組み立てる場所は、以下のようにいくつか種類がある。いずれの場所も、大きな鋼製のブロックやエンジン等を吊り上げて設置するための大きなクレーンが備えられている。
鋼鉄製大型船舶の建造は全てが溶接ブロック建造法といわれる方法で建造されている。これは造船所内のブロック組立工場で鋼材から切断、加工、小組立、大組立の順を経て、最終的には部分的な船体のかたまりであるブロックをあらかじめ製作し、ドック、または船台で各ブロックをつないで組み立てて行く工法である。もっとも工数がかかり、精度が求められて、各種の大型工作機械が必要な工程を屋内のブロック組立工場内で行えるため、コンピュータ制御のガスプラズマ・トーチなどを使った流れ作業による効率化と、管理された環境での再現性のある作業が産む確実性が実現出来る工法である。
大規模な流れ作業であるため、ドックでのブロックの組立作業とは別に、ブロック組立工場では次の船のブロックの製作にかかれる。ドックが1つの場合や2つ以上でも生産量を求める場合には、ドック内で完成しつつある船体を少しずつ出口方向へと押し出して行き、空いたドック内で次の船の船尾のブロックの組立をはじめるという「セミ・タンデム工法」がとられる。
ブロックの段階で配管などの艤装品類も取り付けられることが多い[2]。
造船工程 | 塗装工程 | |
---|---|---|
鋼板受領 | ||
↓ | = | ショットブラスト処理 ショッププライマー塗装 |
鋼板切断曲げ加工 | ||
↓ | ||
ブロック組立 | = | ブラスト処理 ブロック塗装 |
↓ | ||
艤装工事1 | = | 船内塗装 外板塗装 |
↓ | ||
進水 | ||
↓ | ||
艤装工事2 最終ドック | = | 船内塗装 外板仕上げ塗装 |
↓ | ||
海上公試 | ||
↓ | = | 引渡し前補修塗装 |
引渡し |
艦艇や特定用途の船または商船の一番船では船台式同様の儀式が行われるが、その他の場合は命名式のみであったり、特に何も行われない場合もある[注 2]。
建造段階から続く船級協会の検査も受けて合格を受ける[8]。公海試運転は造船会社の船長である「ドックマスター」が操船する。2-5日間かかることが多い。
完成した船は造船所の岸壁を離れ、乗組員の手で旅立って行く[注 6]。進水式などで命名されていなければ引渡し式で命名される。引渡し式が最も感慨深いという造船所関係者も多い。
(平成3年のデータ)[3]
古代エジプトの遺物によって、紀元前3000年ころにすでに、骨格にプランクを貼り付ける方法で造船が行われていたことが知られている。
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日本では630年から894年の間に、十数回ないし20回ほど(※)(※学者により説が異なる)、唐に向けて遣唐使の船団が派遣されたが、この遣唐使船は瀬戸内海の倉橋島の「長門ノ津」という場所で建造された、とされている。(この長門ノ津付近に1992年に「長門の造船歴史館」が開館した。1200年以上前に使われていた遣唐使船が実物大で復元され、水上展示されている。)
日本では古くから水上での戦いも行われており、各地に水軍もおり、軍用船もさまざまなものが造られ続けたが、室町時代後期ころからは安宅船という大型の軍用船も造られた。
織田信長は天正4年(1576年)ころ、伊勢志摩の豪族であり水軍を率いた九鬼嘉隆に命じて安宅船を鉄板で覆った鉄甲船を作らせた。(信長は石山本願寺を包囲・攻略しようと水軍を送り込んだが瀬戸内海、特に因島、能島などの村上水軍を掌握した毛利氏にはかなわず敗北を喫し(第一次木津川口の戦い)、劣勢を挽回すべく鉄甲船を造らせたのだった。)
1592年、豊臣秀吉は朝鮮出兵に際し「御座船」として九鬼嘉隆に命じて伊勢国 (現在の三重県) の大湊で大型の安宅船を建造させた。
江戸時代初期には仙台藩でガレオン船サン・ファン・バウティスタ号が建造された。これはスペインの技術、日本の職人達の技術、および日本の材料によって建造された。建造に当たっては、仙台藩とスペイン人のセバスティアン・ビスカイノの間で契約が結ばれ、政宗が造船の費用や船員の俸給を負担すること、ビスカイノが船の指揮を取ること、などが定められていた。仙台藩の「船奉行」として秋保頼重(刑部)と河東田親顕(縫殿)が造船に携わり、幕府の船奉行向井忠勝(将監)もこれに協力し、船の建材は気仙郡、磐井郡、江刺郡、本吉郡から調達された。(慶長遣欧使節に同行したシピオーネ・アマチによれば)船の建造には大工800人、鍛冶700人、雑役3000人が関わり、45日を要したという。このサン・ファン・バウティスタ号は支倉常長ら慶長遣欧使節が太平洋を横断するために使用された。
江戸時代に幕府は、日本人が船で諸外国へ出かけて交流することを原則禁じた。海外から船が特定の場所にやってくることは認めていたが、日本人が諸外国へ行くことは禁じたのである。とはいえ古代以来、そして江戸時代でも、日本の運送の主力は水運であったわけであり、水運は絶えず行われ、水運のための船の建造も絶えず行われていた。また漁を行うために漁船も造られつづけていた。
たとえば北前船の基地のひとつが佐渡島の宿根木であり、ここに造船にたずさわる優秀な船大工や鍛冶屋が集まる集落(町)ができていて、さかんに北前船の建造や修繕が行われていた。
江戸幕府は、日本人が諸外国へと航海を行うことを禁止するために、海外への渡航を試みた人を処罰し、また外洋を航行するのに有利なある種の船の建造に制限を設けた。 日本人が諸外国へと航海することを防ぐために江戸幕府が採用した施策というのは、竜骨を備えた大型の船を建造することの禁止である。 竜骨とは船体の側面の部材のことである。沿岸を航行する程度ならば、竜骨無しの船でも一応安全に航行できるが、外洋では波や風が強く荒れがちで、しっかりした竜骨が無いと構造的にも脆弱であり、帆走する上でも竜骨が無いことは大きな困難が伴う。帆走する上で竜骨は側方への横滑りを防ぎ抗力を発生させ、帆で風を受けた力と抗力で合力を生み前進方向への推力へ効率的に変換する上で必須である。
ジョン万次郎(1827-1898)は土佐の貧しい漁師だったが、漁の最中に遭難しアメリカの船舶に救助され、アメリカでさまざまな教育を受けさせてもらう幸運に恵まれたのだが、受けた教育のなかには英語・数学などといった一般的な科目以外に、米国の一流の航海術や造船技術なども含まれていた。1851年に琉球に帰国し嘉永6年(1853年)に土佐へ戻り「漂客談奇」を記し、土佐藩主 山内容堂や、家臣たち、幕末の志士たちも万次郎の知識を知ろうと訪問が絶えず、高知城下の藩校「教授館」の教授になる。後藤象二郎、岩崎弥太郎なども万次郎の直接指導を受けたといわれている。万次郎は幕府に招聘され江戸へ行き、幕府直参となり江川英龍の元で翻訳や通訳などの仕事をするだけでなく、造船の指揮もとった。
尊皇攘夷を唱える水戸藩が海防を強く主張、水戸藩主徳川斉昭は腹心の安島帯刀に「日本初の西洋式の軍艦」とも言われる旭日丸を建造させ1855年に進水、幕府に献上した。しかし、この旭日丸は進水する時に座礁するなど、当時の日本の船舶建造技術はまだ不十分であった。江戸幕府のほうは、小栗忠順の進言により横須賀に製鉄所および造船所となる予定のもの(後に横須賀造船所となるもの)の建設に着手したが、その完成を見ないままに幕府は瓦解し、明治政府がそれを受け継いだ。
明治政府は富国強兵政策、脱亜入欧政策などをとり、小さな国土の島国で地下資源の乏しい日本が貿易による経済とエネルギー供給を支えたのは海運業であり造船であった。当時、政商として栄えた三井財閥や三菱財閥などの大企業が、国策事業として支援を受けながら海運と造船業界を成長させた。
当時は西欧列強による植民地拡大政策の脅威と帝国主義の時代であったため、国防上、海軍の役割は一層重要となった。造船業界は海運業だけでなく軍艦建造でも大きな需要を得た。その後、日本はさらに軍備増強の道を歩み、太平洋戦争に至るまでそうした時代が続いた。太平洋戦争で日本は保有船舶の大半を喪失したが、戦後、傾斜生産政策や朝鮮戦争での特需によって早期に造船業は海運業とともに回復するとともに成長路線に戻り、戦後日本の経済成長を支えた。
日本の高度経済成長時代には「造船業は日本のお家芸」とまで言われたが、オイルショック以降は伸び悩み、その間に中韓の2か国が力をつけてきた。2015年の世界シェアは中国が40%、日本が30%、韓国が20%程度と東アジア3か国で90%を占めているため、「三国志」と形容されている[11]。
低迷していた日本の造船業も2000年前後からの世界貿易増加に伴う船舶不足により息を吹き返し、高付加価値の船舶を中心に受注が増えている。ただし、同時期に始まった鋼材の高騰により高騰以前の受注案件が軒並み利益を確保できない状況であること、典型的な労働集約型産業であるため、2007年問題といった優秀な職工の大量退職への対応も迫られるなど、各社とも苦しい経営を強いられている。また、2000年代後半のリーマン・ショック等を契機とする世界的な景気減退と急激な円高ドル安の進行は、さらに日本の造船業界の競争力を低下させ、2014年には受注残すら無くなるのではないかとする2014年問題も懸念されることとなった。日本の造船業界では合併などで生き残りを図るようになった他、2012年末に成立した第2次安倍内閣がアベノミクスを提唱すると円相場が100円台へ急落し、2013年後半には各社が徐々に競争力を取り戻し、新規受注に成功するなどの動きが見られるようになった。韓国の造船業は2010年代以降、構造不況に陥っているため[12]、相対的に日本の造船業の復権が進んでいる。
1972年、近代的な造船会社として現代重工業が設立されると、以後、ハンファオーシャンやサムスン重工業など財閥系の造船会社が次々と設立された。1990年代後半になると受注量で日本に匹敵し始め、2000年代に入ると同じく新興勢力として台頭した中華人民共和国の企業との間で競合状態となった[13]。2000年代後半にリーマン・ショックなどをきっかけに始まった景気減速の波は、受注から完成までに時間がかかる造船業界特有のタイムラグをもって2010年代初頭に顕在化した。STX造船海洋などの造船会社が法定管理に追いやられたほか、2015年には現代重工業、サムスン重工業、大宇造船海洋の韓国造船大手3社が過去最大の赤字に陥った[14]。
2018年現在、韓進重工業、STX造船海洋、城東造船海洋、大韓造船、SPP造船、大鮮造船、韓国ヤナセ、ヨンス、マステック、サムガンS&Cといった中堅造船業は依然として不振に陥っているが、現代重工業、大宇造船海洋、サムスン重工業の上位3メーカーの受注量は回復の兆しがみられている[15]。
2019年、現代重工業は大宇造船海洋との経営統合を発表。同年5月31日に臨時株主総会を開催して承認を得た。ただし内部の問題として統合後の余剰人員の削減が避けられないとして労働組合が強く反発しているほか、外部の問題として日本や中国、欧州で独占禁止法を所掌する当局の許可を得る必要があり、長い時間がかかる見込み[16]。しかし、欧州連合の当局が許可を出さなかったことで現代重工業による買収は頓挫。2022年9月、大宇造船とハンファグループが条件付き投資合意書を締結したと発表された[17]。
造船が盛んに行われている地域は
などがある。
使用されない船を除籍して廃船とすることは「解撤」と呼ばれる[5]。
造船の反対に、船体が木造から鉄や鋼などへ変化したことにともなって船舶解体の工程が大がかりになっている。日本では大型船の解体は専門業者が行っている。平成以降造船所での解体実績はない。60m以上の鋼船を解体できる業者は国内に6社ある。熊本県八代市・新鋼商事、北九州市若松区・久屋産業、香川県多度津町・宮地サルベージなど。
造船の世界では2年好況が続くと船が余り始め、その後7-8年不況が続くというサイクルを繰り返している。2003年から始まった好況は5年ほど続いたが、2008年からの世界的な不況によって造船の市況も一気に崩れた。
造船会社では新規造船の受注がない間、社員や設備を遊ばせることを避けて、独自に船を作る事がある。こうして作られた船は「ストックボート」と呼ばれ、船主となる販売先が募られる。ストックボートの造船後に船価が上がれば造船所の利益となるが、船価が下がれば損失となる恐れがある[9]。
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