山口線(やまぐちせん)は、東京都東村山市の多摩湖駅と埼玉県所沢市の西武球場前駅間を結ぶ西武鉄道の案内軌条式鉄道(AGT)路線である。愛称「レオライナー」。駅ナンバリングで使われる路線記号はSY。
本項では前身であるおとぎ線についても記載する。
案内軌条式鉄道化後のもの。
- 路線距離(営業キロ):2.8 km
- 方式:側方案内軌条式、空気入りゴムタイヤ(補助輪入り)
- 駅数:3駅(起終点駅含む)、1信号場
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電気方式:直流750 V
- 最高速度:50 km/h[5]
- 構築物:車両基地1か所、トンネル5か所(交差道路部4か所・その他1か所、総延長は約350 m[4])、橋梁7か所(総延長は約395 m[4])、変電所1か所
- 信号保安設備:地上信号式、第1種電気継電連動装置(ARC付)、点制御による多情報変周式車上パターン式ATS
- 通信設備:列車無線装置、ホーム監視テレビを3駅に設置
駅付近を除き、大半の区間で村山下貯水池(多摩湖)の北岸に沿って走る。ただし、貯水池周辺は水源かん養保安林が形成されているため、列車内から湖面が見える箇所は少ない。
建設は、施設・電気・軌道・車両すべてを住友商事と西武建設の共同企業体(JV)に総額約38億円で一括発注した[4]。1 kmあたりの建設費用は約11億円である[4]。
元々は1950年(昭和25年)に開業した多摩湖ホテル前駅とユネスコ村駅を結ぶ単線「おとぎ線」を走る、「おとぎ電車」[6]または「おとぎ列車」[7]と呼ばれた遊戯施設で軌間762 mmの「軽便鉄道」だった。建設にあたって50ポンド第10種レールの中古品が使用されたが、大半は九州鉄道がドイツから輸入したウニオン社(de:Union, AG für Bergbau, Eisen- und Stahl-Industrie)製のものであった[注釈 1]。
1952年(昭和27年)に「おとぎ線」を地方鉄道法に基づく地方鉄道に転換し[注釈 2]「山口線」と改称したが、「おとぎ電車」(または「おとぎ列車」)の名はその後も用いられた。運賃は西武鉄道の他の一般鉄道路線とは別建てで大人片道200円、子供片道100円で営業時間は9時30分から17時30分まで。当初は蓄電池機関車(バッテリーロコ)牽引の列車だけだったが、1972年(昭和47年)に日本の鉄道100年を記念して蒸気機関車の運行を開始し、冬季以外は蒸気機関車牽引列車も走るようになった。蒸気機関車の交代にあわせて交代前年の1976年(昭和51年)にいったん運行を休止し、トンネルの切り通し化や架道橋の架け替えなどの改修を行って路盤強化を図った結果、蒸気機関車の重連運転も行われるようになった。
施設・車両の老朽化、ならびに多摩湖線から西武ライオンズ球場(現:ベルーナドーム)へのアクセス改善を図るため、1984年(昭和59年)5月に「おとぎ電車(おとぎ列車)」の運行を終了して大掛かりな改修工事を行い[1]、一部区間の線形改良や起終点駅の変更を実施。これにより翌年案内軌条式鉄道(AGT)として開業し[3]、西武の他路線と同一の運賃体系に統合された。なお、手続き上は従来のおとぎ電車(おとぎ列車)の路線を一旦廃線扱いとした上で、新たに案内軌条式鉄道の免許を取得している。
VVVF制御の実用化を念頭に置いた直流750 V電化の採用、キャブシグナルとATOによる自動(無人)運転ではなく通常の信号機を建植し、ATSを使用するワンマン運転の実施などイニシャル・ランニングコストの抑制に配慮した合理的なシステム構築が実現している。
日本の案内軌条式鉄道(AGT)路線で純民間企業経営のものは、2019年時点では山万ユーカリが丘線と西武山口線の2例のみである。
全列車が多摩湖駅 - 西武球場前駅間での運転である。通常ダイヤでは昼間は20分間隔、朝・夜間は30分間隔であるが、西武ドームでの野球・イベント開催時には臨時列車が運行され10分間隔となり、この時は東中峯信号場での列車交換が行われる。初電時刻は西武球場前発で6時50分台・多摩湖発は7時10分台、終電時刻は22時台で、西武鉄道の他の路線に比べ運行時間帯が短い。野球ナイター開催時の場合も終電延長はないため、この時間以降は狭山線などを利用することになる。なお、かつての朝・夜間や大晦日 - 元旦の終夜運転(2008年 - 2009年シーズン以降中止)時は40分間隔であった。すべての列車が多摩湖駅で多摩湖線の列車に、西武球場前駅で狭山線の列車と接続を考慮したダイヤとなっている。
野球開催時は下り列車において、東中峯信号場付近で西武球場前駅到着の案内放送後に、野球開催のお知らせと埼玉西武ライオンズの応援歌『吠えろライオンズ』のインストゥルメンタルが流れることがある。
案内軌条式鉄道化後
- 8500系 - 8501 - 8504・8511 - 8514・8521 - 8524
- 当初計画され、既に外部にも公表されていた7000系を発注直前で中止し、新たに設計し直して製造した車両である。
- VVVFインバータは製造当初のGTO方式からIGBT方式に換装されている。
軽便鉄道時代
蓄電池機関車
- B1形 - 1
- 1950年のおとぎ線開業時に保谷電車区(後の保谷車両管理所、現在は廃止)で製造された。5形蒸気機関車の入線に伴い1977年廃車。
- B11形 - 11 - 15
- 11は1952年中島自動車製、12 - 15は西武所沢車両工場製。出力は11kW×2機。制動機:手用(ハンドブレーキ)のみ。
- 13・15は21形客車22・25・26・27と共に路線廃止後に大井川鉄道へ譲渡されたが、営業運転に使用されることはなく[注釈 3]千頭駅構内で10年間前後も放置された後、静岡県浜松市にある宗教団体「ハレルヤコミュニティーチャーチ」に客車と共に譲渡された[17]。13はその後2023年に関水金属が引き取り、埼玉県鶴ヶ島市に建設した鶴ヶ丘新工場に併設する「KATO Railway Park」にて登場当時の姿に復元され動態保存される予定となっている[18]。
蒸気機関車
1976年まで
- 1形 - 2
- SL運転開始に合わせて、頸城鉄道2号機を借り入れたもの。新潟県から来たことから「謙信号」の愛称がつけられていた。
- 2形 - 1
- 1形2号機より少し遅れて井笠鉄道1号機を借り入れたもの。先に入線した2号機とのペアという理由で「信玄号」の愛称がつけられた(井笠鉄道は岡山県の路線であり、車両には特に武田信玄との縁はない)。
上記の1号、2号は借り物であり、老朽化してきたことから代替機を求めることになった。阿里山森林鉄路の蒸気機関車も候補にあがり、現地調査もしたが車体が大きくトンネルや橋梁の改修に多額の費用がかかるため断念し、下記の台糖公司の機関車に変更した[19]。
1977年以降、1984年5月の休止まで
- 5形 - 527・532
- 台湾の台糖公司が保有していたものを譲り受けたもの。1形・2形に比べ車体が大きいため、運行開始前の1976年12月から翌年3月までトンネル撤去など施設側の改良をおこなった。
- 532は西武山口線のSL運転休止後、元ユネスコ村駅跡地で保存されていたが、北海道の丸瀬布町(現:遠軽町)にある「丸瀬布森林公園いこいの森」に移動した。その後2023年に関水金属が引き取り「KATO Railway Park」にて静態保存される予定[18]。
- 527は西武遊園地内でレストランとして使用されていたが、レストラン廃止により2011年6月に台湾の高雄にある財団法人陳中和慈善基金会が所有する博物館に移設された。
1形・2形・5形のいずれもドイツのコッペル製。
客車
- 1形 - 1 - 19
- おとぎ線開業に合わせて製造された幌屋根の開放型客車。蓄電池機関車牽引。1963年に1・2(初代)が密閉型客車に改造され、翌1964年の21形21・22への改番と同時に18・19が1・2(2代)に改番された。また1972年に3・5(初代)が21形25・26に改造され、同時に16・17が3・5(2代)に改番された。1973年に31形入線に伴い10 - 15が、1977年に5形蒸気機関車入線に伴い1・2(2代)・4・6・8が廃車され、軽便鉄道廃止まで残ったのは3・5(2代)・7・9の4両のみ。山口線休止後1両が埼玉県新座市在住の個人に譲渡され、2016年4月現在、塗装や幌屋根を補修し、静態保存されている。2022年3月、所有する個人の親族が代表を務める株式会社ブランシカが同車を飲食スペースに改装するため、クラウドファンディングを始めた[20]。
- 21形 - 21 - 26
- 蓄電池機関車牽引の密閉型客車。一部に1形からの改造車を含む。21・22は前記の通り1963年に1形1・2 (初代)を雨天・冬期対策として密閉型に改造したもの。23・24は1964年に新造されたもの。25・26はSL運転対策として1972年に1形3・5 (初代)から改造されたものだが、31形の増備によりSL列車からは外されている。山口線休止後、一部がB11形と共に大井川鉄道へ譲渡された後、浜松市のハレルヤコミュニティチャーチに譲渡され、1両は埼玉県新座市の個人に1形1両と共に譲渡されたが、後に解体された。ハレルヤコミュニティチャーチに譲渡されたうちの22はB13とともに関水金属が引き取り、登場時の1形2号車へ復元の上で「KATO Railway Park」にて動態保存される予定[18]。
- 31形 - 31 - 38
- SL運転開始に合わせて井笠鉄道から譲り受けたオープンデッキの木造客車で、当然蒸気機関車牽引であった。31 - 34はモニター(ダブルルーフ)屋根で、元はホハ2・5・6・10。35 - 38は丸屋根で、35・36は元は両備鉄道(後のJR西日本福塩線の一部)→神高鉄道(後の井笠鉄道神辺線)ナ19・20を継承したホハ18・19、37・38は元ホハ13・14で、いずれも井笠鉄道時代は車端部に扉が付けられていたが、西武鉄道入線時にオープンデッキに改造された。
- 山口線休止後、31-34はユネスコ村駅跡地に展示されたが、後に西武園ゆうえんち内に移設され、レストランポッポの食堂車として使用された。2011年6月には西武園ゆうえんちの再開発に伴い、羅須地人鉄道協会成田ゆめ牧場に31・33の2両が、けいてつ協会 風だより・風の高原鉄道に32・34の2両が譲渡された。また34は2023年に関水金属に引き取られ「KATO Railway Park」にて復元修復作業の上、動態保存される予定となっている[18]。
- 35-38は山口線休止後、31-34と共にユネスコ村駅跡地に展示されたが、1990年(平成2年)11月以降のユネスコ村再開発に伴い1993年(平成5年)10月に丸瀬布森林公園いこいの森へ譲渡。その後38は車体が解体され、台枠と台車が静態保存。35は西武鉄道時代の塗装のままで静態保存。36・37は井笠鉄道時代の塗色に復元され、雨宮21号蒸気機関車に牽引され動態保存されている。
注釈
交通博物館に収蔵されたウニオン社のレールは当線の発生品
そもそも大井川鉄道に1968年廃止の千頭森林鉄道を別とすれば762 mm軌間の区間はない。
出典
“西武山口線の営業休止を軽微承認 運輸審議会”. 交通新聞 (交通協力会): p. 1. (1984年4月25日)
曽根悟(監修) 著、朝日新聞出版分冊百科編集部 編『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄』 30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道、朝日新聞出版〈週刊朝日百科〉、2011年10月16日、28頁。
“西武山口線25日開業”. 交通新聞 (交通協力会): p. 2. (1985年4月11日)
日本鉄道技術協会『JREA』1985年7月号「西武鉄道山口線新交通システム」pp.20 - 23。
『徹底カラー図解 西武鉄道のしくみ』 - マイナビ出版編集部
“写真で見る西武ヒストリー(前編)”. 西武ホールディングス. 2024年1月26日閲覧。 “多摩湖ホテル前〜ユネスコ村間を結ぶ「おとぎ列車」の運転も始まり、” ただし、画像中の表記および画像キャプションは「おとぎ電車」
「都市私鉄年表 -路線,駅,車庫関係-」『私鉄車両編成表 -都市私鉄編- '80年版』ジェー・アール・アール、1980年4月1日、106頁。
西武鉄道山口線さよなら運転 - 鉄道ファン1984年8月号68-69頁
“在籍車両”. KATO-SmallEngland. 2024年6月9日閲覧。
益井茂夫「村山山口貯水池をめぐる鉄道」『多摩のあゆみ』No87、1997年、66-70頁
- 大嶋四郎 西武鉄道株式会社建設部土木第二課長「西武鉄道山口線新交通システム」『JREA』1985年7月号、日本鉄道技術協会、1985年。
- 西野保行「レール余話・その二 六十年間の輸入時代」『鉄道史見てある記』吉井書店、1984年、80-89頁。NDLJP:12065084/43。
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