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日本の俳優 (1903 - 1983) ウィキペディアから
片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年(明治36年)3月30日 - 1983年(昭和58年)3月31日)は、日本の俳優。本名︰植木 正義(うえき まさよし)。
かたおか ちえぞう 片岡 千恵蔵 | |||||||||||
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1955年撮影 | |||||||||||
本名 | 植木 正義(うえき まさよし) | ||||||||||
別名義 |
片岡 十八郎 片岡 千栄蔵 植木 進 | ||||||||||
生年月日 | 1903年3月30日 | ||||||||||
没年月日 | 1983年3月31日(80歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・群馬県新田郡藪塚本町(現在の太田市) | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都港区 | ||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||
ジャンル | 歌舞伎、映画、テレビドラマ | ||||||||||
活動期間 | 1912年 - 1983年 | ||||||||||
活動内容 |
1912年:片岡少年劇に入団 1924年:映画デビュー 1928年:片岡千恵蔵プロダクション設立 1937年:日活に入社 1942年:大映に移籍 1949年:東横映画に入社 1951年:東映に移籍 | ||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||
著名な家族 |
長男:植木基晴(元子役) 長女:植木千恵(元子役) 三男:植木義晴(日本航空会長) | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
『國士無双』 『赤西蠣太』 『鴛鴦歌合戦』 『多羅尾伴内』シリーズ 『金田一耕助』シリーズ 『いれずみ判官』シリーズ 『血槍富士』 『大菩薩峠』 『十三人の刺客』 | |||||||||||
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戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[1](これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得て、両シリーズはその後も長く続いた。当たり役に『いれずみ判官』の遠山金四郎など[2]。
長男の植木基晴(「千恵蔵二世」と呼ばれた)、娘の植木千恵は子役で、東映時代の千恵蔵と共演したが、その後引退。三男の植木義晴は日本航空の元操縦士で、同社の専務執行役員を経て、代表取締役社長に就任した[3]。四男国晴ともに一般人。
1903年(明治36年)3月30日、群馬県新田郡藪塚本町(現在の太田市)に生まれる。幼い頃に母親を亡くし、東京市の水道局に勤務していた父の住む麻布区箪笥町に移り住む[4]。やがて麻布小学校に入学するが、芝居好きの父親の影響で芝居に熱中していた。
1912年(明治45年)、9歳で十一代目片岡仁左衛門主宰の片岡少年劇に入門。片岡十八郎を芸名に、真砂座の『忠臣蔵』で初舞台を踏む[4]。やがて仕出しから座頭に進み、『菅原伝授手習鑑 車曳き』の松王丸を師匠譲りの当たり芸とした。少年劇解散後は仁左衛門の直門となって片岡千栄蔵を名乗り[4]、1923年(大正12年)2月に明治座で七代目市川中車と市川千代之助の口上で名題に昇進した[4]。屋号は「松島屋[5]」で、『伊賀越道中記』の香田大内記、『紙子仕立両面鑑』のおさん、『関白秀次』の不破伴作などを当たり役とし、師匠にも可愛がられる存在となっていた[4]。しかし、門閥制度に強い不満と不安を感じていた。
同年、懇意にしていた子爵の紹介で小笠原プロダクション製作の『三色すみれ』に植木進の名で出演、これが映画初出演作となった。このあと松居松葉から映画界入りを勧められ、松竹蒲田撮影所への入社が内定していたが、撮影所長の野村芳亭が下加茂撮影所に移ったため、沙汰止みとなり、再び師匠の下で舞台を続けていた[4]。しかし、歌舞伎界の因習を嫌悪する気持ちはいっそう強まり、市川小太夫の誘いで畑中蓼坡の新劇協会に出入りするも、新劇の舞台に立つ機会も得られず悶々としていた。
1927年(昭和2年)、連合映画芸術家協会を設立していた直木三十五の紹介で、牧野省三のマキノ・プロダクション御室撮影所に入社。嵐寛寿郎より一日早い入社だった。これ以降片岡千恵蔵を名乗り、同社出演第1作の『万花地獄』で初主演した。その後はマキノの美剣士スターとして剣戟映画に出演したが、本人は「チャンバラはあまり得意でなかった」と告白している[4]。
1928年(昭和3年)2月、『忠魂義烈 実録忠臣蔵』で監督の牧野が、以前の約束を破って浅野内匠頭役に諸口十九を起用したことで、牧野と衝突。服部一郎右衛門の役を当てられたが、これに不満を持った千恵蔵はマキノ脱退を決意した[6]。(後年、マキノ正博・池田富保監督『忠臣蔵 天の巻・地の巻』(1938年)では内匠頭を演じ評価を得ている。)
同年5月2日、マキノを退社し[7]、5月10日に片岡千恵蔵プロダクション(略称:千恵プロ)を創立。伊藤大輔の推薦で、伊丹万作と稲垣浩監督が設立に参加し、第1回作品の『天下太平記』以降多くの時代劇を連発する。翌1929年(昭和4年)1月15日、京都の嵯峨野に千恵プロ撮影所を完成。5月21日日活と提携した[8][9]。
千恵プロでは伊丹・稲垣両監督を中心に、チャンバラに頼らず、主人公の人間ドラマを主とした明朗快活な作風の時代劇が多く作られた。言葉も現代語で、斬新な手法を使い、これらの作品は髷をつけた現代劇と呼ばれて日本映画界に新風を巻き起こした。稲垣監督の『放浪三昧』『鴛鴦旅日記』『一本刀土俵入』『弥太郎笠』、伊丹監督の『仇討流転』『國士無双』『武道大鑑』『赤西蠣太』、マキノ正博監督の『白夜の饗宴』、伊藤大輔監督の『堀田隼人』、山中貞雄監督の『風流活人剱』など、数々の名作・佳作を送り出し、うち17本の作品がキネマ旬報ベストテンにランクインされた。
1937年(昭和12年)4月、『松五郎乱れ星』を最後に千恵プロを解散し、全従業員と共に日活京都撮影所に入社する。同社ではマキノ正博監督のオペレッタ映画『鴛鴦歌合戦』などの佳作に主演し、1940年(昭和15年)からは吉川英治の大作を映画化した『宮本武蔵』シリーズで武蔵を演じた。
1942年(昭和17年)、日活が戦時統合により大映となり、千恵蔵はそのまま大映所属となった。当時、大映所属の阪東妻三郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門とともに「時代劇四大スタア」と呼ばれ[5]、同社第1作の『維新の曲』やその2年後の『かくて神風は吹く』で共演した。
戦後はGHQの占領政策によりチャンバラ映画の製作が禁止されたため、現代劇に活躍の場を移す。1946年(昭和21年)、松田定次監督の『七つの顔』で七つの顔の男・藤村大造を演じ、彼の当たり役となりシリーズ化された。興業的にも大成功し、荒唐無稽なエンターテインメント作品として人気を得た。
1947年(昭和22年)、マキノ光雄に頼まれて東横映画の作品に出演。『三本指の男』『にっぽんGメン』がそれにあたるが、前者では金田一耕助を演じ、藤村大造と並ぶ当たり役として、東横時代に4本・東映時代に3本が作られた。後者は囮捜査官の活躍を描いたギャング・アクションの第1作で、東横で計3作のシリーズが製作された。
1948年(昭和23年)10月、大映京都撮影所で大映系映画館主大会が開かれ、社長の永田雅一は挨拶で「多羅尾伴内ものなど幕間のつなぎであって、わが社は今後、もっと芸術性の高いものを製作してゆく所存である。」と言及[10]。この発言に千恵蔵が激怒し、「わしは何も好き好んで、こんな荒唐無稽の映画に出ているのではない。幸い興行的に当たっているので、大映の経営上のプラスになると思ってやっているのに社長の地位にあるものが幕間のつなぎの映画とは何事だ。もう伴内ものは絶対に撮らない。大映との契約が切れたら再契約しない。」と言明し永田と千恵蔵の関係は決裂。これを機に比佐芳武らとともに東横映画への移籍を決意した。
同年に大映を退社。翌1949年(昭和24年)に東横映画へ移籍した。
1951年(昭和26年)、東横映画は太泉映画と東京映画配給株式会社に吸収合併され、東映株式会社に商号変更。千恵蔵は東映京都撮影所で市川右太衛門とともに重役スターとして活躍を始める。当時、千恵蔵は京都の山の手(嵯峨野)に住んでいた事から「山の御大」と呼ばれた(一方の右太衛門は北大路に住んでいたので「北大路の御大」と呼ばれた)。
右太衛門とともに東映時代劇の重鎮として活躍し、東映時代だけでも130本ほどの作品に出演している。遠山金四郎を演じた『いれずみ判官』シリーズは15作(東横時代の作品を含めると計18作)製作され、戦後の十八番シリーズとなった。また、新春オールスター映画の『任侠清水港』『任侠東海道』『任侠中仙道』で清水次郎長、内田吐夢監督の『大菩薩峠』で机竜之助、忠臣蔵もので4度大石内蔵助を演じ、それぞれ当たり役としている。1953年(昭和28年)には藤村大造シリーズが『片目の魔王』で多羅尾伴内シリーズとして復活し、東映で9作・通算で13本製作された。一方、内田監督の『血槍富士』『浪花の恋の物語』などでは多年のキャリアを生かして演技にも円熟味を加えている[4]。
1960年代頃からは若手スターの中村錦之助や大川橋蔵らに主役の座を譲って、脇役を演じることが多くなったが、東映時代劇の衰退で集団抗争時代劇として製作された『十三人の刺客』では主演し、路線転向後の任侠映画でも脇役を演じ、千葉真一主演のオールスター映画『日本暗殺秘録』では井上日召を演じた。
1971年(昭和46年)に紫綬褒章、1977年(昭和52年)に勲四等旭日小綬章を受章[11]。
1972年(昭和47年)、『純子引退記念映画 関東緋桜一家』を最後に映画界から遠ざかり、テレビドラマに活躍の場を移した。『軍兵衛目安箱』(NETテレビ(現・テレビ朝日))『世なおし奉行』(同)などに主演し、加藤剛主演の『大岡越前』(TBS)では大岡忠高役で貫禄ある演技を見せ、千葉真一主演のホームドラマ『七色とんがらし』(NETテレビ(現・テレビ朝日))にも出演した。1977年(昭和52年)、京都市文化功労者。
1982年(昭和57年)、腎臓病の悪化で東京慈恵会医科大学附属病院に入院したが、翌1983年(昭和58年)3月31日、腎不全のため死去。80歳没。東映では彼の長年に渡る多大なる貢献を讃えて、4月15日に社葬を行った。墓所は右京区蓮華寺。
1927年に「奴」を踊った際に、癇癪持ちの片岡仁左衛門から罵られ、真剣の峰で顔を殴られたことがあった。これを見て和歌太夫(嵐寛寿郎)は「心が寒くなった」といい、歌舞伎の世界に見切りをつけたと語っている[12]。
自宅は京都にあったが、晩年は東映役員を兼任しながら名古屋市中区錦三丁目に三階建てのレストランビル「千恵蔵ビル」[注釈 1]を建て、次男の孝臣に経営を任せ、二階に趣味と実益を兼ねた麻雀屋を開業し、月の半分程はここで麻雀三昧の日を送っていた。
京都の本宅に住む妻とは20年別居し、晩年の20年は名古屋に住み、身の回りの世話は料亭の元女将がしていた[13]。千恵蔵が亡くなったのは東京の病院であったが、枕頭にいたのもその女性だった[13]。千恵蔵の遺体は寝台車で運ばれ京都に向かったが、千恵蔵を許さない妻が京都の自宅での葬儀を拒否した[13]。「それでは世間体が悪いから」と当時の東映社長岡田茂が妻を必死に説得し、密葬を京都の自宅で、葬儀・告別式を東映京都撮影所葬として行なわれた[13]。
千恵蔵は若い頃から指南役の五島慶太に勧められ、名古屋、伊豆、信州に土地を買い、他にマンション経営や、ガソリンスタンド、そば屋などを所有し、資産額は数十億とも数百億ともいわれ、日本映画界きっての資産家として知られた[13]。
マキノ・プロダクションでスタアとなった千恵蔵だが、脱退を決意したのは『忠魂義烈・實録忠臣蔵』での起用に端を発していた。監督のマキノ省三は伊井蓉峰を大石役に招聘して製作。しかし「新派の大統領」と呼ばれた伊井の自惚れた振舞いに現場は猛反発。もともと千恵蔵も嵐長三郎(アラカン)も、封建的な歌舞伎の世界に嫌気がさして活動写真の世界に飛び込んだ俳優だっただけに、これには呆れ果てたという。アラカンは「千恵さんやらワテがマキノやめようと、ひそかに決心した理由の一つはこの伊井蓉峰」と語っている[12]。さらにマキノ省三監督は以前に「忠臣蔵の判官(浅野内匠頭)の役はお前にやらせる」と片岡に口約束していたのだが、言うに言われぬ事情によって諸口十九を起用したのである。これに千恵蔵が憤慨してしまい、マキノは眼違いをしているとさえ批判されもした。千恵蔵の抗議にはマキノ監督も困り果ててしまい、「仮名手本の判官は演らせると云うたが、実際の浅野内匠頭だと役どころが違ってくるから、しかたがないやないか」と苦しい答弁で千恵蔵をなだめ、代償として両国引き揚げの場に四十七士を引き留める服部小佐衛門の役を当てて、千恵蔵の面子をたてた。この役は出場は少ないが座頭格で、特別出演モノであるからマキノとしては誠心誠意千恵蔵を重用したつもりだったが、その後いくつかの経緯を経て、結局千恵蔵のマキノ脱退、独立プロ設立になろうとは、マキノは予想もしていなかったという。
そもそも千恵蔵がマキノに入ったきっかけは「直木三十三」の引き合わせによるものだが、直木はマキノに金を出させて名だけ貸す、という不誠実な映画製作を続け、「直木三十五」になって初めて自分の原作を渡すことが出来たのが千恵蔵主演の『烏組就縛始末記』だった。一方、マキノ省三監督としては、入社以来くっつき過ぎている千恵蔵と直木の二人組には最初から不愉快な気持ちを抱いており、「千恵蔵の陰に直木あり」として、千恵蔵をやや敬遠していた。マキノ雅弘は「直木は三十五になるまでマキノから銭だけ取って何もしなかった人であり、そんなタカリ専門の男からの個人的な紹介であったことが、当然ながら最初からマキノの不信感を買うことになり、千恵蔵の不幸であった」と語っている[14]。
結局マキノに入った千恵蔵も市川右太衛門も嵐寛寿郎も、早くて一年後、遅くとも二年後には独立プロを作っているが、これについて千恵蔵は次のように語っている。
千恵蔵は千恵プロ創設の際、本人によると「あつかましくも」伊藤大輔に監督を頼みに行った。当時伊藤監督はタイトルロールに名が出ると主演俳優以上に拍手が起こるほどの人気監督だった。だが伊藤監督はちょうど『大菩薩峠』撮入前で都合がつかず、代わりに紹介してくれたのが稲垣と伊丹だった。千恵蔵はプロデューサーとしても才覚を大いに発揮、数々の名作を世に送り出している。初期の千恵プロ映画に漂う漂泊の詩情は、「文字通り米一升を買う金もなく、お粥をすすって」ひたむきにカツドウ写真を撮り続けた時代劇青春の自画像であった。後年ベストテン作品をほとんど独占したといってもよい、千恵プロ時代劇の目覚ましい台頭は、このときの人間的運命によって約束されたのである。いわゆるスタープロの中で、千恵プロが最後まで堅塁を守り得たのは偶然ではなかった[15]。
1931年、稲垣は『瞼の母』の映画化に動いたが、会社に反対され、宣伝部の玉木潤一郎の発案で、千恵蔵の名を騙って原作者長谷川伸に電報を打つことにした。二人は首を覚悟で「マブタヤリタシ、オユルシコウ、カタオカチエゾウ」と電報を打ったところ、長谷川から「マブタ、オーケー」と千恵蔵のもとに返事が送られてきた。これに千恵蔵がカンカンに怒って、日活が否決した企画なのに原作者からOKではプロダクションのあるじとして双方に顔向けならぬ、その始末をどうつけるのかと二人を呼び出した。これに稲垣が、自分が辞めれば千恵蔵にも誰にも迷惑はかかるまいと「責任をとってやめます」と切り出したので千恵蔵は考え直し、日活に『瞼の母』映画化の交渉をしたところ、稲垣の正月物の『一心太助』のヒットもあって、企画が通ることとなった。こうして『番場の忠太郎・瞼の母』が千恵プロと日活の契約更新最初の作品として製作されることとなった。
初の人情時代劇ということでオールスター共演となり、原作者の長谷川伸も撮影見学に訪れ、千恵蔵とすっかり仲良くなった。映画は大ヒットし、以後長谷川の知遇を得た千恵蔵は数多くの人情物の股旅映画を作ることとなった[8]。
千恵プロ創立のころ、「先生」と呼ばれることを嫌った。一門の弟子たちは別として、稲垣監督らは「千恵さん」、「千恵プロ」と呼んだ。稲垣は「これは若く書生っぽらしい千恵さんには、それがよく似合った」という。お天気屋だった阪東妻三郎をなだめるため、安田憲邦監督があるとき「ハイ御大のアップ頂戴ッ」とやって、一同和やかな雰囲気になったという逸話があるが、この話が出た後、伊丹万作監督が「では御大のアップを頂戴するかのう」と言ったところ、千恵蔵が「オイオイ、御大だけはやめてくれヨ」と返し、「では、ホンタイならよかろう」ということで、それ以来千恵蔵のことを「ホンタイ」と呼ぶようになった。「御大」と呼びだしたのは、日活と交流するようになってからである。稲垣は「若く書生っぽらしい千恵さんには不似合いだっただけに、なにか新鮮さがあってよかった。いまは、太閤が秀吉、判官が義経にとどめをさしたように、御大は千恵蔵の代名詞となった」と語っている。
千恵蔵を「園長」と呼ぶ、1958年発足の「嵯峨野学園」という集まりがあった。これは千恵プロ時代の仲間たちの同窓会で、会員のうち、千恵プロ解散以前に他社へ転じた稲垣と伊丹万作は「落第生」ということになっている[16]。
「時代劇の貴公子」と呼ばれた千恵蔵は、当時の時代劇スタアの中で一番のインテリであり、「私は剣戟が好きでなかった」と言ってのけた、ただ一人の時代劇スタアだった。マキノ脱退後の千恵蔵の立ち回りはコミカルでユーモラスであり、諧謔的で、裾をはだけた「フンドシ大サービス」の大立ち回りが大いに受け、千恵プロの作品はキネマ旬報をはじめ、数々のベストテンを受賞した。
本人があまりチャンバラをやりたがらなかったというだけあって、マキノ雅弘によれば、マキノ時代の千恵蔵の立ち回りは「正直言ってあまりうまくなかった」という。稲垣浩が千恵プロに入るときに、マキノで千恵蔵映画を担当した小石栄一監督は、稲垣に「千恵プロへ行くんだって? あれ(千恵蔵)、立ち回り下手やでえ」と声をかけたという。このため、稲垣監督も「チャンバラのないシャシンを一生懸命考えた」と語っていて、千恵蔵の抒情的な時代劇は、マキノ雅弘監督に言わせれば「稲垣監督がうまく見せたおかげ」だという。そんな千恵蔵だったが、マキノ雅弘監督が日活から千恵プロに応援に行くころには立ち回りがうまくなっていたという[15]。
昭和初期に自動車を持っていた時代劇スタアはアラカンと千恵蔵、大河内傳次郎ぐらいのもので、撮影所も静かだった。ある日、稲垣監督の家に、千恵蔵がズブ濡れ姿で飛び込んできた。別に顔色もかわってはいなかったが、姿が異様なので稲垣が驚いて、どうしたのだと訊くと、稲垣の家のそばの宇多野の「弁慶の足形池」に、キャデラックごと落ちたのだという。
千恵蔵は買ったばかりのキャデラックで、池の周りの舗装道路を無免許で初運転していたところ、桜並木につい見とれてカーブを曲がれず池の中に進んでしまったのである。怪我がなかったときくと稲垣はすぐに高級車のことが心配になったが、この車はずいぶん長く池の中に放置され、引き揚げたときには使いものにはならず、そのかわり稲垣はこの辺でロケをするたびに「ここが千恵蔵遭難の池だ」と噂をした。
映画界がトーキー時代に入ると、セリフの発声に大スタアたちも四苦八苦するようになった。千恵蔵は自分の声に合わせた録音機を製作させたり、「ウラ声」の低音をつかうように稲垣らがすすめたりして、独特の「千恵蔵の声」をつくりだしたという[16]。
1931年、『元禄十三年』(稲垣浩監督)で、時代劇初出演の入江たか子を相手役にし、当時二十代の千恵蔵は「おたかの八重歯、鼻にかかった声、共演どころか女房にしたいくらいだ」と入江にすっかり惚れ込んでしまった。「モダンガール」という流行語ができたころで、入江はその代表と呼ばれたほど洋装が似合ったが、日本髷の振袖は一段と美しく、千恵蔵は好きなマージャンも忘れるほど入江を思い詰めた。
監督の稲垣浩もこうなっては「映画の演出のほかに両人のことも演出してやらねばならなくなった」というわけで、なにかと入江と千恵蔵が話せる機会をつくったが、撮影が終わりに近づくと千恵蔵の寂しそうな様子が目に見えたという。撮影の最後は広沢池の弁天島に両人を残した大ロングということになり、稲垣はキャメラマンと望遠レンズで二人の様子を見ていたが、手を握るでなし抱き合うでもなし、お互いに肩をたたいたり笑ったり、そのうちに千恵蔵が「カメラはどこやァ・・・」と怒鳴りだしたという。
この映画は新宿帝都座開館記念の記念封切りとなり、両人は京都から舞台挨拶に東上した。人気スタアだけに恋を語る暇もなかったらしく、映画ではチャンバラの王者も日夜恋になやむのを見て稲垣は千恵蔵を急病に仕立てて入江を見舞わせる手まで打ったが、結局何事もなかったといい、翌年入江は田村道美と結婚してしまった。稲垣は「恋は、ままならぬものである」と述懐している。千恵蔵自身は昭和19年に結婚したが、戦時の最中ということで大きな話題にもならなかった[17]。
任侠もの、武士もの、町人もの、あるいは心理的、風刺的、活動的と、オーソドックスで芸域の広い千恵蔵は、出演映画の種類が多く、ちょっぴりガニ股に愛嬌があり、長い間人気の王座にあった。中でも浪人や股旅が得意で、飄々とした役柄は何ともいえぬ親しさがあった。変わり身の面白さで見せる遠山金四郎ものは千恵蔵適役の一つで、形を変えて幾度映画化されても、大向こうの喝采があった[18]。戦前からの千恵蔵の代表的時代劇「遠山金四郎」シリーズでの、金四郎の名ゼリフについて、千恵蔵は次のように語っている。
また、戦後の千恵蔵の「多羅尾伴内」と「金田一耕助」の人気現代劇シリーズについて、千恵蔵本人は次のように語っている。
東映の取締役(本名の植木正義名義)を務めたほか、小牧ドライブイン株式会社の社長も務めていた[19]。
太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
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