田村道美
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田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 1990年代)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。戦前の無声映画時代に活躍し、当時の人気女優の入江たか子と結婚した。長女はおなじく女優の入江若葉である。
1901年8月4日、東京市京橋区新富町(現中央区新富)に生まれる。祖父の田村成義は、「田村将軍」の異名を持つ歌舞伎興行の大御所であった。
慶應義塾大学経済学部を卒業後、1931年、30歳にして京都の日活太秦撮影所に入社、同年11月13日公開の村田実監督の無声映画『白い姉 前篇』でデビューした。翌1932年、三枝源次郎監督の『海に散る花』では早くも主役の座を獲得する。
同年、当時人気絶頂、新興キネマと提携し映画製作会社「入江ぷろだくしょん」を設立したばかりの入江たか子(1911年 - 1995年)と交際、自らの人気を考え籍を入れず別居結婚とする。入江の兄で同プロダクションで監督をしていた東坊城恭長(1904年 - 1944年)はそんな田村を嫌っていた。1934年6月28日に公開された熊谷久虎監督、宇留木浩主演の無声映画『三家庭』(日活多摩川撮影所作品)を最後に俳優を引退、東京から京都に戻り、「入江ぷろ」に入社、入江のマネージャーに転向する。
1935年に「入江ぷろ」が新興キネマとの提携を解消し、京都・双ヶ丘(現右京区御室双岡町)の入江ぷろ撮影所も閉鎖された。1937年、「入江ぷろ」は東京・砧のPCL映画製作所との提携を始め、配給は東宝映画配給となり、やがて同プロダクションは解散し、入江は東京に戻り、東宝映画東京撮影所と専属契約を結ぶ。それとともに田村も同社に入社、入江出演作品を中心にしたプロデューサーに転向する。俳優時代の作品の原作者、菊池寛や吉屋信子の作品を原作にとったものを得意とし、また島津保次郎作品を多く手がけた。
1943年、入江が妊娠、休業に入るのを契機に正式に入籍した。東京市赤坂区(現港区赤坂)に家を構える。同年5月12日、長女若葉(田村若葉、のちの入江若葉)が生まれる。その翌月の6月10日に公開された渡辺邦男監督の『男』を最後に、42歳の誕生日を目前にして表舞台から姿を消す。島津監督作品のプロデューサーも南旺映画出身の藤本真澄に取って代わられる。産休に入った入江の復帰作である衣笠貞之助監督の『進め独立旗』が1943年10月21日に公開されるが、プロデューサーは佐藤武監督作品を手がけてきた平尾郁次であった。
終戦後の1945年、44歳の時に東宝演劇部付となり、同年10月の帝国劇場再開には支配人に就任するが、後に演劇部総合企画室に転じて退社。この頃、さらに一男をもうけるが1948年、入江と別居。娘の若葉は1959年以降、女優を引退した入江が東京都中央区銀座7丁目に開いた「バー・いりえ」でマダムをつとめ、赤坂の家で育てられた。
一方、田村は1954年8月に創立したゼネラル・フィルム協会事務局長・ユニオン映画支配人を務め、1960年に退社した後は永田雅一がオーナーをしていた毎日オリオンズの営業部長を務めた。その後の消息は不明であるが、平成に入って間も無く死去したという。没年不詳。
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