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山縣 直代(山県-、やまがた なおよ、1915年2月22日 - 没年不詳[1])は、日本の女優である。本名は山縣 玉代(やまがた たまよ)である[1]。
1915年(大正4年)2月22日、茨城県水戸市泉町に「山縣玉代」として生まれる[1]。
日本統治時代の台湾の台中市にあった旧制・台中州立台中高等女学校(現在の中華民国国立台中女子高級中学、國立臺中女子高級中學)を中途退学した[1]。満15歳となる1930年(昭和5年)、京都の田中十三らの日本キネマに入社し、岡田三郎監督の『昨日の薔薇』に出演して、映画界にデビューした[1]。東京に移り、同年11月、松竹蒲田撮影所に入社[1]、翌1931年(昭和6年)、清水宏監督の『餓鬼大将』と『銀河』に出演、高田稔と共演した[1]。同年、京都に戻り、日活太秦撮影所現代劇部に入社[1]、阿部豊監督の『ゴールイン』等に出演する[2]が、翌1932年(昭和7年)、入江たか子の入江ぷろだくしょんが製作した、入江と中野英治主演、溝口健二監督の『満蒙建国の黎明』に出演し[2]、以降、新興キネマに移籍した[1]。1934年(昭和9年)、曾根純三監督の『不良少年の父』でヒロイン・お鈴を演じた[1]。
1935年(昭和10年)、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のマキノトーキー製作所設立に参加[1]、同年、根岸東一郎監督の『無鉄砲選手』に出演した[2]。翌1936年(昭和11年)1月、陣容を発表した際に「技芸部女優」として名を連ねている[3]。同年、東京のP.C.L.映画製作所に移籍し[1]、矢倉茂雄監督の『処女花園』に出演した後[2]、成瀬巳喜男監督の『君と行く路』や、エノケンこと榎本健一主演物に出演した[1]。同社は、1937年(昭和12年)9月10日に他社と合併して東宝映画となったので、P.C.L.は東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)となり、山縣は引き続き東宝映画に所属した[1]。1938年(昭和13年)、岡田敬監督の『青空二人組』を最後に[2]退社し、引退した[1]。
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