清瀬市
東京都の市 ウィキペディアから
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清瀬市(きよせし)は、東京都の多摩地域北部に位置する市。1970年(昭和45年)市制施行。
東京都から、埼玉県の新座市と所沢市の間に楔のように北へ突き出している。西の所沢市とは柳瀬川で、南の東久留米市とは野火止用水で境を隔てる。新座市との境に河川はない。市内には金山緑地公園など緑地が多く、緑地面積は市域の約46%を占める。
武蔵野台地の東北端手前約15キロメートル付近の平坦部に位置する。市域は、約6.5キロメートル×2キロメートルの狭長の地で、その長軸は台地の傾斜と向きを同じくし、西高東低の地形をなしている。標高は、西方の竹丘地区で65メートル、北東の下宿地区で20メートルと、6.5キロメートルの間に45メートルの標高差がある。市域北部を流れる柳瀬川によるわずかの沖積低地があるが、それ以外は洪積台地が占める。柳瀬川に沿う中里、下宿地区は、柳瀬川の低地より5 - 10メートル高く、清瀬旭が丘団地付近の台地よりも10 - 15メートル低い標高25 - 30メートルのテラス状になっており、下清戸、中清戸、上清戸地区から西武鉄道池袋線周辺の市街地へと続く広範な台地である。団地北側の崖面からみると、6メートルほど関東ローム層が堆積し、その下は武蔵野礫層が堆積している。
清瀬市域に最初の人類が現れたのは、ヴュルム氷期の約2万年前である。下宿強清水(したじゅくこわしみず)遺跡と野塩西原遺跡にその痕跡を残している。縄文時代に入ると、人口は中期を頂点にして増えたが、後期以降は皆無に等しくなった。その後平安時代中期までこの状態が続いた。人口が増える平安時代後期になっても、居住地域は柳瀬川に近い現在の野塩、中里、下宿にとどまっていた。この時代はまだ井戸を掘る技術が発達しておらず、深い井戸を掘ることが難しかったために川に近い場所に人が集まったものである。
武士が力をつけ武蔵七党が台頭してくると、村山氏の勢力下に入ったものと見られる。
足利尊氏が幕府を開くと、信濃国佐久郡大石郷を本拠地としていた大石氏が勢力を伸ばしてくることになる。大石氏は木曾義仲の末裔とされ、大石信重が1356年5月に戦功により足利氏から武蔵国の入間郡と多摩郡の13郷に領地を与えられた。信重は現在の八王子市と青梅市の中間にあたる場所に居館を定めた。
いつの頃かははっきりしないが、15世紀後半大石氏は柳瀬川の対岸、現在の所沢市に滝の城を設営した。戦国時代になり、甲斐武田氏の勢力が伸張してくると、後北条氏と組み、後北条氏の領地とした。後北条氏の勢力下に入ると、滝の城か対岸の清戸下宿(小字岡)かは明らかではないが、清戸番所が設けられた。清戸番所は現在の関東地方北部に向かう軍事的な要所をなした。滝之城は豊臣秀吉の小田原征伐の際に落城し、今は「滝之城跡」として残るのみである。
明治維新により江戸幕府が倒れると、間もなく清瀬を含む地域に武蔵県が設けられた。この県は廃藩置県で設けられることになる県と違い、天領、旧幕臣領といった幕府直轄の領地だった場所を県と呼ぶことにしたに過ぎない。その後、1869年1月から2月にかけて新たに品川県が設けられ、清瀬市域は品川県に編入されたが、名前が変わっただけで実態は変わっていない。1871年4月の廃藩置県で3府306県が設けられると、清瀬市域は東京府と入間県に分かれて編入された。しかし、同年11月に東多摩郡を除いた多摩郡が、神奈川県に編入された。
1889年4月1日、明治政府は新たに町村制を施行し、上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿村、中里村、野塩村および埼玉県新座郡野火止村の一部を合わせて北多摩郡清瀬村とした。しかし、この合併は他の多くの自治体同様すんなりと行われたわけではない。特に清戸下宿、中里、野塩の各村からの反対が多かった。これは地味や地租の問題が絡んでいたと見られている。村役場は秋津村を加えた連合戸長制時代に連合戸長役場が置かれていた中清戸に置くことになった。
一方、東京府からは三多摩編入を求める要望が強かった。元々は玉川上水の水質問題に端を発した西多摩郡と北多摩郡の編入運動だったが、東京府に組み込まれた東多摩郡同様に同じ多摩郡だったという理由で1892年に南多摩郡が加えられた。一時政争の具とされたものの、1893年4月1日に三多摩が神奈川県から東京府に移管された。
その後、昭和に入り、当時は不治の病とされていた結核患者が増え始め、江古田にあった東京市立療養所(旧:国立療養所中野病院)が病床不足となった。そこで次の公立施設として、当時、西武線の南側に広大な雑木林が残されており、また、昭和大不況の中、買収交渉がし易いということから清瀨に昭和6年(1931年)に東京府立清瀬病院が建設された[1]。同病院を皮切りに、傷痍軍人東京療養所など結核療養施設が昭和19年までに14施設まで増設され、清瀬は全国有数の結核療養地となった[2]。
その後も、昭和20年の終戦後における結核患者の急増もあり、昭和20年代にも新設や既設病院の増床が行なわれ、国税庁や国鉄、日本銀行、東京電力などの委託病棟(各種企業体から運営を委託された病棟)が設置され[3]、昭和30年代には清瀬だけで15の病院に5千人の結核患者が入院し治療を受けていた[2][4]。しかし、化学療法の進展によりは結核のまん延状況は改善。空床が目立って昭和40年代には結核病棟を縮小したり、一般病床へと変更された。そして、病棟の跡地は公園(清瀬市中央公園)や高校(東京都立清瀬高等学校)、国立看護大学校の敷地へと転用された。
市名の由来には諸説ある。
清瀬市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 清瀬市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 清瀬市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
清瀬市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
2005年に夜間人口(居住者)は73,506人であるが、市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は60,733人で昼は夜の0.826倍の人口になる。夜間に比べて昼の人口は1万3千人弱ほど減る。なお、平成22年国勢調査によれば、東京都特別区部への通勤率は33.3%である。
通勤者・通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者が22,765人、市外から市内へ入る通勤者は9,915人と通勤者では昼間市外へ出る通勤者のほうが多い。しかし学生では市内から市外に出る通学生は3,234人、市外から市内へ入る通学生は3,311人と学生では移動は均衡している[5]。なお、国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人おり、この項の昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に若干の誤差は生じる。
町名 | 町区域設定年月日 | 住居表示実施年月日 | 住居表示実施前の町名等 | 備考 |
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1965年11月1日 | 1965年11月1日 | 大字上清戸、大字野火止 | ||
上清戸二丁目 | 1965年11月1日 | 1965年11月1日 | 大字上清戸、大字中里、大字中清戸 | |
1965年11月1日 | 1965年11月1日 | 大字上清戸、大字下清戸 | ||
元町二丁目 | 1965年11月1日 | 1965年11月1日 | 大字上清戸、大字中清戸、大字下清戸 | |
1970年7月1日 | 未実施 | |||
中清戸二丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
中清戸三丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
中清戸四丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
中清戸五丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
1970年7月1日 | 未実施 | |||
下清戸二丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
下清戸三丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
下清戸四丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
下清戸五丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
1970年7月1日 | 未実施 | |||
下宿二丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
下宿三丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
1967年9月1日 | 未実施 | |||
旭が丘二丁目 | 1967年9月1日 | 1967年9月1日 | 大字清戸下宿字台田原・字岡・字屼 | |
旭が丘三丁目 | 1967年9月1日 | 未実施 | ||
旭が丘四丁目 | 1967年9月1日 | 未実施 | ||
旭が丘五丁目 | 1967年9月1日 | 1967年9月1日 | 大字清戸下宿字屼・字松原 | |
旭が丘六丁目 | 1967年9月1日 | 未実施 | ||
1970年7月1日 | 未実施 | |||
中里二丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
中里三丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
中里四丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
中里五丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
中里六丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
1970年7月1日 | 未実施 | |||
野塩二丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
野塩三丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
野塩四丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
野塩五丁目 | 1970年7月1日 | 未実施 | ||
1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字上清戸、大字中清戸、大字下清戸 | ||
松山二丁目 | 1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字下清戸 | |
松山三丁目 | 1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字上清戸、大字中清戸、大字下清戸 | |
1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字中清戸、大字下清戸 | ||
竹丘二丁目 | 1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字中清戸、大字下清戸、大字下里 | |
竹丘三丁目 | 1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字中清戸、大字下里、大字野塩、大字上清戸 | |
1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字上清戸、大字中清戸、大字下清戸 | ||
梅園二丁目 | 1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字野火止、大字野塩 | |
梅園三丁目 | 1964年4月1日 | 1964年4月1日 | 大字野火止、大字野塩 | |
警視庁東村山警察署が市内全域を管轄
交番、駐在所
候補者名 | 当落 | 年齢 | 党派名 | 新旧別 | 得票数 |
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細谷祥子 | 当 | 63 | 都民ファーストの会 | 新 | 26,031票 |
原紀子 | 当 | 51 | 日本共産党 | 新 | 19,674票 |
山下太郎 | 落 | 44 | 無所属 | 現 | 18,205票 |
野島善司 | 落 | 68 | 自由民主党 | 現 | 16,776票 |
農地が市域の4割を占める。また、平成14年時点で、市内農地の87.0%が生産緑地に指定されている。ニンジンやホウレンソウなどの野菜栽培が中心。特に黒土が深いという利点があることから根菜類の栽培が多く、ニンジンは都内の出荷額の半分を占めている。そのため、にんじんを利用した「にんじんジャム」や「にんじん焼酎」なども市内で販売されている。また酪農も比較的盛んで、中清戸の清瀬市役所周辺に集中して立地している。
比較的最近まで小さな農協であるJA第一清瀬が広域合併せずに残っていた。2004年4月にJA第一清瀬はJA東京みらいに合併された。
昭和初期から昭和40年代まで結核患者の一大療養地だった[2]ため、公益財団法人結核予防会複十字病院、国立病院機構東京病院等、大規模病院が市南西部に集中している。また、結核療養所を初めとする高度研究機関が整備され、動植物に関する研究施設も市の南部に集まっている。そのため、清瀬市は人口1000人あたりの病床数で全国50位、東京都内3位[9]で「医療の街」となっている。
一般路線は全て西武バスの運行。
清瀬市コミュニティバス「きよバス」が2007年1月20日から運行。清瀬市が西武バス新座営業所に運行を委託。
主要な道路は市の東西、東村山市秋津町から新座市へ抜ける埼玉県道・東京都道40号さいたま東村山線(通称:志木街道)と、東久留米市から所沢市までを南北に結ぶ東京都道15号府中清瀬線(通称:小金井街道)・東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線(通称:小金井街道一部区間の名称)があり、両街道は市の中心部、元町の清瀬郵便局交差点で交わる。小金井街道は清瀬駅西側(秋津側)の踏切での渋滞が慢性化している。このため、西武総合企画の誘導員が西武バスの円滑な運行に一役かっている。
また、清瀬駅から市役所へ向かって志木街道に並行する形で市道(通称:けやき通り)が走る。加えて、東京都道248号府中小平線(通称:新小金井街道)は、小金井街道・野火止用水交差部(小金井街道「松山三丁目」交差点附近)から清瀬駅の南東側をアンダーパスで抜け、下清戸へ至る部分で延伸・整備工事が進められ、府中方面 - 小金井 - 小平 - 東久留米 - 清瀬 - 新座 - 志木 - 浦和方面へ「踏切なし」で通行できるようになった。
また、当市に国道は通っていない。
北東部の旭が丘地区に関越自動車道(※ 開通当時は東京川越道路)が僅かに走っている。旭が丘団地内を走る部分は、開通当初は切り通しだったが徐々に交通量が増大し、騒音が問題になったため住民運動などにより「旭が丘シェルター」として後にコンクリートで覆われた。現在は、シェルター上部は公園として利用されている。なお、当市内にはインターチェンジはないが、所沢インターチェンジが至近である。
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