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埼玉県所沢市にあった城 ウィキペディアから
滝の城(たきのじょう)は、埼玉県所沢市城にあった日本の城。同市の東端で隣接する東京都清瀬市との都県境、柳瀬川の北岸に位置し、豊かな緑に覆われた断崖の上に 曲輪や空掘り跡などが残っている。 今日では本丸跡に「城山神社」が祀られ、その南側を中心に滝の城址公園(たきのじょうしこうえん)として整備され、梅・桜の木や運動施設などが揃う公園となっている。
滝の城(滝之城, 瀧之城)は 別称「本郷城[注釈 1]」とも呼ばれ、1925年(大正14年)に埼玉県指定史跡に指定されている。
その原型は、伝承によると1180年(治承4年)頃に 源頼朝の挙兵に応じて土豪が築城したものと言われているが、記録などは残っておらず詳細は不明である。また、後述の横穴墓群の出土により、この場所は城としての成立以前の古代においても何らかの重要な拠点として使用されてきたものと推測される。
戦国時代には、関東管領上杉氏の家臣で武蔵国守護代 大石氏の滝山城(後に八王子城)の支城として対岸の清戸番所との関係もあったとされる。その後大石定久の代に後北条氏の支配下となり北条氏照の支城になった。 氏照は本拠の滝山から北関東に度々出陣しており、その直線上にあたる滝の城は軍勢集結の拠点になった。1564年(永禄7年)の北条氏による下野への遠征の際にはこの城で陣揃(じんぞろえ)が行われたことが記録されている。
その後1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、浅野長政率いる豊臣方に城北側の大手方面から急襲され八王子城と共に落城[注釈 2][注釈 3]、徳川家康の関東入国の領内整備の頃には廃城となったと推測されている。
滝の城にある七曲坂には、木肌に傷をつけると赤色の樹液が出ると伝えられる大きな黒松があり「血の出る松」と呼ばれていた[注釈 4]。1972年(昭和47年)に枯れてたため伐採され、跡地には記念に「血の出る松の跡」碑が残っている。
その構造は多郭式平山城で、面積約6万6,000m² [注釈 5]、本丸跡を中心に二の丸・三の丸などの曲輪や物見櫓、複雑に張り巡らされた空堀などの跡がよく残っており、大手は本丸の更に北方に、また北西に搦め手があったとされる。北東方向の台地続きには外郭線を有している[4]。
郭の東側、出郭と城外を画す小谷に、かつて「金津の滝」という滝があり、現在では痕跡が残るのみですが、この滝が城の名の由来とされる。
1972年(昭和47年)に滝之城跡の一部、南側の水田跡などを中心に整備され開設された総合公園。敷地の北、東端は関越自動車道に隣接し、南東側に柳瀬川が流れ、JR武蔵野線の高架線路がその南端を横断する。園内には野球場・テニスコートなどの施設があり、遊歩道が整備されている。断崖の上の本丸跡からは対岸の清瀬市付近が展望できる。
駐車場は南西・北東端に2ヶ所。
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