Loading AI tools
日本の俳優 ウィキペディアから
昭和20年代にデビューした女優としては久我美子と並ぶ名家出身で[5][注釈 2]、祖父は理研グループ総帥で子爵であった大河内正敏[4]、父は正敏の次男で画家であった大河内信敬[4][6]。夫は今治松平家末裔でテレビプロデューサーの久松定隆。
高校卒業後、OLをしていたが[要出典]、1953年に東宝ニューフェイスの6期生として東宝に入社[出典 4]。同期には宝田明、佐原健二、藤木悠、岡田眞澄がいる[1][9]。入社した年の『女心はひと筋に』で映画初出演を果たす[出典 5]。
1954年の出演5作目『ゴジラ』ではヒロイン・山根恵美子役に抜擢される[出典 6]。その後も青春映画を中心に[8]、数多くの映画に出演し、1957年には年間で10作を数えた。
演技を勉強し直すため、1958年に東宝を退社し、俳優座養成所に8期生として入所する[出典 7]。同期には山﨑努、水野久美[1]、嵐圭史、山本耕一、小笠原良知、松本典子がいた。翌年、俳優座へ正式に入団した[4]。その後は活動の軸足を舞台やテレビドラマへと移す[出典 8]。
TBSテレビのホームドラマで活躍し、石井ふく子と橋田壽賀子の作品には常連出演していた。特に晩年の代表作である『渡る世間は鬼ばかり』では高橋文子(中田喜子)の義母・高橋年子役を演じ、連続ドラマのレギュラー出演作としての最後の出演となった第3シリーズでは、アルツハイマー病に蝕まれていく苦しい役柄が反響を呼んだ。
1995年には、平成ゴジラシリーズ最終作の映画『ゴジラvsデストロイア』で41年ぶりに山根恵美子役を演じた[出典 9]。
『土曜ワイド劇場』などの2時間単発ドラマにも出演した。1997年7月21日に放送されたTBS放送の月曜ドラマスペシャル『演歌・唱太郎の人情事件日誌3・伊香保殺人事件』がテレビドラマの最後の出演となった。最後の出演映画はその2日前の7月19日に公開された『良寛』であった。
同年の冬、俳優座の舞台『ゆの暖簾』の東北地方を中心にした巡業中に体調不良を訴え、年が明けた1998年1月に大腸がんと診断された。がんの進行が早く、発見時には手の施しようがなかったという。前年12月15日に山形県鶴岡市で出演した舞台が最後の仕事となった。
1998年11月5日の9時45分、大腸がんのため入院先の東京都渋谷区広尾の日本赤十字社医療センター病院で死去。66歳没[11]。 亡くなる直前の10月29日、病床でレデンプトール会のクレメンス・近藤雅廣神父[注釈 3]より洗礼を受け[12][13]、「マリア」の洗礼名が与えられた[13]。葬儀は聖イグナチオ教会で行われ[13]河内の実娘が喪主を務めた。墓所は東京都台東区谷中の谷中霊園。
カトリック善き牧者の会制作のカトリック布教番組『心のともしび』『太陽のほほえみ』の朗読を永年務めた。その功績により番組が5000回に達した時にヨハネ・パウロ2世から「聖十字架章」を親授、朗読が1万回を迎えるのを記念して「感謝の集い」が1996年9月6日に東京都内のホテルで開かれ、教皇代理のカルー大司教から「聖シルベストロ教皇騎士団勲章」が贈られている[13]。
ほか多数
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.