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日本の実業家 (1894-1989) ウィキペディアから
松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家、発明家、著述家。位階は正三位。
まつした こうのすけ 松下 幸之助 | |
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松下幸之助(1912年) | |
生誕 |
1894年11月27日 和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現・和歌山市禰宜) |
死没 |
1989年4月27日(94歳没) 大阪府守口市外島町(松下記念病院)[1] |
国籍 | 日本 |
職業 | 創業者松下電器産業, 実業家、発明家 |
著名な実績 | 松下電器産業の創設者 |
配偶者 | 松下むめの |
子供 |
1人 幸子(長女) |
親戚 |
松下正治(実業家、幸子の夫) 松下正幸(パナソニック副会長、孫) ヒロ松下(レーシングドライバー、孫) 関根大介(オープンドア創業者、曾孫) 井植歳男(三洋電機創業者、むめのの弟) 「#系譜」を参照 |
受賞 |
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画像外部リンク | |
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松下幸之助の署名(Wikipedia英語版) |
パナソニックホールディングスを一代で築き上げた経営者である[3]。異名は「経営の神様」。その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。
1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。
1899年頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めた。しかし父には商才がなく店を畳んだ。幸之助は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。後、奉公先を五代自転車に移した。五代自転車奉公時代にサントリーの起源である寿屋の鳥井信治郎と出会い、将来にわたって経営の師とする。この経験は後にパナレーサー社設立のきっかけになった。自転車屋奉公時代、来店客に度々タバコを買いに行かされた。その際、いちいち買いに出かけるより纏め買いして置けば、すぐタバコを出せる上、単価も安くなるため、これを利用して小銭を溜めた[4]。しかしこれが丁稚仲間から反感を買い、店主にやめるよう勧められたために纏め買いはやめる。この頃から商才を顕すと共に、独り勝ちは良くないとも気づくようになった。
大阪市に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志し、16歳で大阪電灯(現:関西電力)に入社し、7年間勤務する。当時の電球は自宅に直接電線を引く方式で、電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。1913年に18歳で関西商工学校夜間部予科に入学した。1917年、大阪電灯を依願退職した。
大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現:大阪市東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男(営業担当、後に専務取締役、戦後に三洋電機を創業して独立)、および友人2名の計5人で、同ソケットの製造販売に着手。しかし、新型ソケットの売り上げは芳しくなく、友人2名は幸之助のもとを去ったが、川北電気(現在のパナソニック エコシステムズ)から扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。その後、アタッチメントプラグ、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。
事業拡大に伴い、1918年に大阪市北区西野田大開町(現:大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所(現・パナソニックホールディングス)を創業。電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプ(1925年から「ナショナル」商標を使用開始)を考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げた。1929年の松下電器製作所への改称と同時に『綱領・信条』を設定した。
1932年を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示した。また、事業拡大のため土地が広い大阪府北河内郡門真村(現:門真市)に本社・工場を移転した。当時、門真市から枚方市にかけての地域は大阪市内から見て鬼門に当たるとして開発が遅れていたが、東北に細長く延びる日本地図を指して「日本列島はほとんどが鬼門だ」と述べて断行した。1935年には松下電器産業株式会社として法人化した。
第二次世界大戦中は、下命で軍需品の生産に協力する。1943年4月に松下造船株式会社を設立し、海運会社出身の井植歳男社長の下で、終戦までに56隻の250トンクラスの中型木造船を建造した。次いで同年10月には盾津飛行場そばに松下航空機株式会社を設立し、空技廠の技術指導により強化合板構造の練習用木製急降下爆撃機「明星」を終戦までに7機試作。試験飛行に漕ぎ着けたものの、1機は間もなく空中分解し、航空機に求められる絶対的な品質と信頼性に対する認識不足から[注 1] 惨憺たる失敗に終わった。
戦後ただちにGHQによって財閥解体の一環として制限会社[注 2]に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。暖簾分けの形で井植兄弟を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁した。一方で1946年11月にはPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出すことで世評を高めた。内部留保を取り崩して人員整理を極力避けたことを感謝した労働組合もGHQに嘆願したため、間もなく制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰する[6]。
続くドッジ・ライン不況でも苦境に陥ったが、今度は一転してレッドパージを兼ねた直営工場の操業時間短縮、人員大量整理、賃金抑制を断行し、危機を乗り切った。この経営手法を当時のマスコミが揶揄して物品税の滞納王などと報道された。
1948年、趣味の株式投資の影響でナショナル証券を設立したが、この分野で大成するには至らなかった。
1954年の制度施行以降、長者番付で10回全国1位を記録(1955年 - 1959年、1961年 - 1963年、1968年、1984年)した。また全国2位を6回、3位を2回、4位を4回記録し、40年連続で全国100位以内となった。この時期の幸之助は「億万長者」であり、一生で約5,000億円の資産を築いたと推定される。
1951年、テレビ事業視察のため長期外遊し、翌1952年に蘭フィリップスと技術導入提携(後に松下電子工業として分社化、1997年4月松下電器に統合)。
1954年には戦前からの宿願だったレコード事業参入のため、当時の資本金相当額を投入して日本ビクターを子会社化したが、経営上の独立性を保証した[注 3]。
1957年には自ら巡回しての自社製品販売要請に応じた小売店を自社系列電器店網へ組み込み、日本初の系列電器店ネットワークとなる「ナショナルショップ(現:パナソニックショップ)」を誕生させた。以後、自社製品の地道な拡販交渉を続ける幸之助の姿勢に共感した系列電器店が「ナショナルショップ」網へ次々新規参入。こうした「松下幸之助に対する小売店スタッフの強い忠誠心」がナショナルショップを(ピーク時に約2万7千店を誇る)国内最大の系列電器店ネットワークへと成長させる原動力となった[注 4]。
1960年に初の和歌山市名誉市民に選定される[7]。同年、浅草寺(東京都台東区)の雷門と大提灯は、100年近く仮設状態のままになっていたところ、幸之助が私財を寄進して現在の形に再建された。提灯の「雷門」の下加輪には「松下電器産業株式会社 松下幸之助」と金文字で大きく刻んだ一際目立つプレートが貼られている。
1961年に会長に就任し、第一線を退くが、ヒット商品欠如が岩戸景気後の反動不況と相俟って赤字に転落する。
当時ソ連の副首相であったミコヤンと食事を共にした際、「自分は工場で家庭電気器具を作ることで、婦人解放をした」というと、感心したミコヤンは握手を求めたという[8]。
1964年には門真市で初の名誉市民に推挙される[9]。また、家電品の廉売を巡り、当時のダイエー社長・中内㓛と30年にわたるダイエー・松下戦争が勃発した。社内外の引き締め目的で熱海ニューフジヤホテルを借り切り、全国の販社・代理店と直談判する機会を設けたものの、新興スーパーマーケットとの競合による売行不振、熾烈な販売ノルマや販促グッズの押し付け、欠陥テレビの修理費負担などが問題化して紛糾し、丸3日間にわたって逆に吊し上げられた(全国販売会社代理店社長懇談会、いわゆる「熱海会談」)。このため「共存共栄」と自筆した色紙を配布して沈静化を図る一方、営業本部長代行を兼務し、トップセールスとしての現場復帰を余儀なくされた。
1965年の第16回NHK紅白歌合戦に審査員として出場した。
1967年7月、ダイエーなどの安売り店への出荷停止や締め付けなどに関して、公正取引委員会は松下電工を立ち入り検査し、独占禁止法第十九条に抵触する「不公正な取引方法」として排除勧告を受けた。これを拒否したため消費者から批判を浴びた。
1970年にはナショナルショップの後継者育成目的で松下電器商学院(現:松下幸之助商学院)を設立する。後に中村邦夫が立ち上げる「スーパープロショップ(現:スーパーパナソニックショップ)」の母体となった[注 5]。
同年、日本万国博覧会(大阪万博)に松下電器館を出展する。「5000年後に開封する」として話題になったタイムカプセルには、全国の小中学生の手紙や当時の物品を納めて、博覧会終了後に大阪城公園に埋蔵された[注 6]。酷暑にもかかわらず、入場2時間待ちで並ぶ一般客の行列に日陰がないことに気付き、「松下館」と大書した紙製の帽子を配布するよう担当者に指示した。これが会場外でも宣伝になって、松下館はさらに人気を呼んだ。またタイムカプセルのミニチュアをカラーテレビの景品として頒布し、販売強化に繋げた。
1973年、80歳を機に現役を引退し、相談役に退いた。1974年には奈良県明日香村の名誉村民となる[10][11]。1974年から1983年まで中野種一朗の後任として伊勢神宮崇敬会第3代会長を務め、後に松下正幸も第8代会長を務めた[12]。1979年、私財70億円を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しようとした。
1989年4月27日午前10時6分に気管支肺炎のため、守口市の松下記念病院において死去。享年96(満94歳没)[1]。法名は光雲院釋眞幸。死亡時遺産総額は約2450億円で、日本で最高とされている。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
松下房右衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
保田興一郎 | とく枝 | 松下政楠 | 平田東助 | 前田利昭 | 三井高棟 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中尾哲二郎 | やす江 | 井植薫 | 井植祐郎 | 井植歳男 | 松下むめの | 松下幸之助 | 平田昇 | 平田松堂 | 静子 | 中御門経恭 | 慶子 | 三井高公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
井植敏 | 幸子 | 松下正治 | 丹羽正治 | 敬子 | 平田克己 | 宣子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
井植敏雅 | ヒロ松下(弘幸) | 松下正幸 | 敦子 | 関根恒雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関根大介 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義弟の井植歳男は創業期からのパートナーだったが、GHQの公職追放処分への対抗目的で、暖簾分けされ三洋電機を創業し、独立した。歳男の弟の祐郎と薫もこの時、共に三洋電機へ移り、3兄弟で社長・会長を歴任した。なお、しばらくは三洋電機でもナショナルブランドを併用していた[29]。歳男の妹・やす江の夫・中尾哲二郎も一時独立するが、後に松下電器産業へ復帰して副社長・技術最高顧問を務めた。
長女・幸子の婿養子に旧華族(伯爵)で日本画家である平田松堂の次男正治を迎えた。正治の祖父東助は旧米沢藩士で桂太郎内閣(第1次、第2次)では内務大臣を務めた人物である。また、正治の母方の家系・前田家は上野七日市藩藩主の家系。正治の兄弟・平田克己の妻・宣子は三井惣領家に連なる。
系図外だが、三井高棟の孫・博子はトヨタ自動車の元社長・豊田章一郎の妻であるため、豊田家とも遠縁の関係にある。また、幾人かの婚外子を残し[30]、全員が相続人になっている。
椿大神社の「松下幸之助社」では祭神として祀られる[32]。また、門真市には「パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館」がある。
中華人民共和国首都の北京市に2018年6月開設された「松下記念館」は、企業としての松下電器産業(パナソニック)のPRだけでなく、幸之助の中国との関わりも紹介している[33]。幸之助は、中国を改革開放へ転じさせた鄧小平が日本訪問することになったことを知ると松下電器工場への訪問を日程に組み込むよう各方面に働きかけ、実現している[34]。当時の財界人にはときには戦前の満州を含む中国で様々な特権を享受した個人的な体験等まであって政権与党としての自民党に遠慮しつつも市場としての中国に価値を見て中国との関係改善を望む者も伏流としてかなり存在していた。鄧小平の松下電器工場訪問は巷間の一部で伝えられるような中国側の希望によるものではなく、実際にはあくまで松下側の運動によるものであった。しかし、幸之助の場合は、訪日時(1978年)に会った後、翌年・翌翌年と招きを受けて訪中し鄧小平と会談、日本企業としては早い時期に中国で現地生産することを決断しており、中国を市場価値の点ばかりで見ていたわけではないことが分かる[35]。
詳しくは 松下幸之助.com を参照
発行部数は、特記なきものはPHP研究所の発表による全てのバージョンの累計部数。出版社と発行年月は、最初に出版された際のものを記載。一部の書籍は後に他社から出版されている。
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