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火砲および自動火器を備え、無限軌道により道路以外を走行する能力と、特殊鋼板製の装甲による防護力とを備えた車両 ウィキペディアから
戦車(せんしゃ、英: tank〈タンク〉)は、装甲戦闘車両の一種。火砲および自動火器を備え、無限軌道により道路以外を走行する能力および特殊鋼板製の装甲による防護力も備えた車両[1]。第一次世界大戦で初めて登場し、第二次世界大戦における地上の戦闘で、中心的な役割を果たす兵器となった[1]。
戦車の定義には曖昧な部分もあるが、21世紀初頭現在では概ね次のように要約できる。
1の走行装置については#走行装置の節で詳説、2の防御については#装甲の節で詳説 [注 1]、3の攻撃力については#兵装の節で詳説する。
戦車の定義は時代や国によって異なる。マーク I 戦車をはじめとする初期の戦車は砲塔を備えていなかった。第二次世界大戦後に開発されたスウェーデン軍のStrv.103は旋回砲塔を持たないが、他国の主力戦車と同様の役割を担うことを想定しており、スウェーデン軍では主力戦車として扱っている。
自走砲や装甲車には無限軌道・装甲・火砲といった戦車と共通する特徴を持つものもあるが、役割が異なり、戦車とは区別される。
現代の正規戦に通用する戦車は、製造に高い技術が求められるうえに部品点数も多く[3]、「戦車は千社[4]」という日本の諧謔に象徴されるように、生産ラインの維持には層の厚い産業が必要である[5][6]。そのような事情もあって、現在自国で戦車の開発と生産ができる国家は10に満たないと言われる[7]。
戦車の名称は、兵器としての制式名称と、軍や兵士達によって付けられた愛称とに大別される。愛称については、配備国により慣例が見られる。アメリカは軍人の名前から(もともとは供与元のイギリス軍による命名則)、ドイツは動物の名前、ソ連・ロシアの対空戦車は河川名にちなんでいる。イギリスの巡航 (Cruiser) 戦車や主力戦車では「C」で始まる単語が付けられている。日本では、大日本帝国陸軍が皇紀、自衛隊では西暦からきた制式名で呼ばれ、前者の場合、カテゴリーや開発順を表す秘匿名称(例・チハ…チ=中戦車、ハ=いろは順の三番目)もつけられていた。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。
第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパではドイツの西部において大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られいわゆる西部戦線を形成した。戦争開始からそれほど間をおかずに巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線による鉄条網が施されることとなり防御側の絶対優位により、生身で進撃する歩兵の損害は激しく、戦闘は膠着することとなった。対峙する両軍は互いに激しい砲撃の応酬を行ったため、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して初期の装甲車など装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための新たな装甲車両が求められた[18]。
このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。これはアメリカのホルト社(現キャタピラー社)が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていた。このホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保した装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。
イギリスではサー・アーネスト・ダンロップ・スウィントン陸軍少佐がホルトトラクターから着想を得て機関銃搭載車として用いることを考えたが、このアイディアは実現されなかった。その一方、飛行場警備などに装甲自動車中隊を運用していたイギリス海軍航空隊のマーレー・スウェーター海軍大佐が陸上軍艦 (Landship) の提案を行った。1915年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。
陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月に「リトル・ウィリー」を試作した。リトル・ウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、のちのマーク A ホイペット中戦車の原型となった。リトル・ウィリーを反省材料とし、改良を加えられた「マザー (Mother)」(ビッグ・ウィリー)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、マーク I 戦車の元となった。
1916年9月15日、ソンムの戦いの中盤で世界初の戦車の実戦投入が行われマーク I 戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の野戦砲の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であった。しかしこのソンムの戦いでイギリス軍は49両戦車を用意し、稼働できたのは18両、そのうち実際に戦闘に参加できたのは5両だけだった。結局、膠着状態を打破することはできずに連合国(協商国)側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。
その後、1917年11月20日のカンブレーの戦いでは世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。
後に登場したフランスのルノーFT-17という軽戦車は360度旋回する砲塔を装備し砲の死角を無くした。エンジンの騒音と熱気が乗員を苦しめていたことから隔壁で戦闘室と機関室を分離し、それまでの戦車兵の役割の1つだった車内でエンジンを点検する機関手が廃止された。車体も走行装置に車体を載せる方式を改め車体側面に足回りを取り付け、小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪などによって優れた機動性を備えた。FT-17は「戦車」としての基本形を整え、初期の戦車設計の参考資料となった。
3,000輛以上生産されたFT-17は第一次世界大戦後には世界各地に輸出され、輸出先の国々で最初の戦車部隊を構成し、当時もっとも成功した戦車となった。
第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、各国は来るべき戦争での陸戦を研究し、その想定していた戦場と予算にあった戦車を開発することとなった。敗戦国ドイツも、ヴェルサイユ条約により戦車の開発は禁止されたものの、農業トラクターと称してスウェーデンで戦車の開発、研究を行い、また当時の国際社会の外れ者であるソ連と秘密軍事協力協定を結び、赤軍と一緒にヴォルガ河畔のカザンに戦車開発研究センターを設けた。
戦車が出現した第一次世界大戦中は対戦車用の火砲は存在しない為、対歩兵用の機関銃に耐えられる程度の装甲で十分であり戦車自身の武装も機関銃だった。対戦車用の火砲が登場すると戦車自身の武装も火砲へ移行し装甲もより分厚くなっていき、第二次世界大戦直前には機関銃が主武装の戦車は廃れていった。
戦間期に戦車の運用方法が各国で研究され、第二次世界大戦前には、戦車を中心とし、それを支援する歩兵・砲兵など諸兵科を統合編成した戦車連隊や機甲師団が編成され、戦車は陸戦における主力兵器としての地位を獲得した。また、各国で中戦車が大規模に配備されるようになり、中戦車の数が充実するようになると、それまで主戦力だった軽戦車は偵察戦車や水陸両用戦車といった補助的な用途で使用されるようになった。ただし軽戦車の命脈が完全に断たれたわけではなく、その後中国の15式軽戦車のように現在でも製造・運用されている軽戦車も存在する。
攻守ともに当時としては破格で8万両以上生産されたソ連のT-34は米英軍の戦車より質及び量で優越することになる。独ソ戦におけるT-34ショックは、海軍艦艇における戦艦「ドレッドノート」の出現による既存・計画艦艇の陳腐化と同様の衝撃をもって受け止められ、独ソ間でのシーソーゲームは戦車の発展及び対戦車兵器の開発を推し進めた。また、T-34は避弾経始に優れた曲面形状の鋳造砲塔と傾斜装甲を取り入れており、第2世代主力戦車(いわゆる第二次世界大戦後第2世代の戦車)まで、各国で避弾経始を意識した戦車設計が行われた。
自動車大国であったアメリカで開発されたM4中戦車は高度な自動車技術が応用されているため信頼性が高く、アメリカ軍の高い兵站能力によって5万両以上が生産された。自国産戦車が不足していたイギリスではレンドリースで受け取ったM4中戦車を主戦力として運用した。配備当初は数の優越で質の劣勢を補っていたがドイツ軍重戦車が活躍するようになるとそれに対抗できる強力な戦車が求められアメリカではM26重戦車(M3 90mmライフル砲搭載)が、イギリスでは重戦車相当のセンチュリオン重巡航戦車(オードナンス QF 17ポンド砲搭載)が開発され、更にセンチュリオンは歩兵戦車と巡航戦車を統合した。また、これらの重戦車は車体に傾斜装甲を採用したことで重量の割に高い防御力を発揮した。
戦車においては長らく圧延鋼板をリベット留めした構造が大半であったがリベットは被弾や付近での爆発による衝撃で千切れ飛び、車内の戦車兵や随伴歩兵が死傷する事故が相次いだ。また、留め具であるリベットを失った装甲板は脱落することもあった。一部の先進国では圧延鋼板を線で接合する溶接技術や鋳造鋼をボルトで接合する製法が採り入れられた。また、先進国の戦車は重装甲なため大出力なエンジンが必要だったが、航空機用エンジンが転用されることが多かった。
なお、用途に応じた戦車として指揮戦車、駆逐戦車、火炎放射戦車、対空戦車、架橋戦車、回収戦車、地雷処理戦車、空挺戦車などが存在した。これらの殆どは、既存の戦車の車体や走行装置を流用して製作された。
第1世代主力戦車は西側ではセンチュリオン、M26を発展させたM46パットンが登場した。前述したようにこれらの戦車はM4中戦車の後継であり、ソ連のT-10と同級のコンカラーとM103ファイティングモンスターといった更に高火力・重装甲の重戦車が登場し同時並行で配備されたため、これらの戦車の分類は中戦車に落ち着いた。東側では西側中戦車に対抗してT-44を攻守共に強化したT-54(D-10T 100mmライフル砲搭載)が登場し、従来通りに別の重戦車の開発・運用が続いた。
特徴として丸型の鋳造砲塔を持ち、ジャイロ式砲身安定装置により走行中の射撃も可能である。
第2世代主力戦車はイギリスで開発されたロイヤル・オードナンスL7 105mmライフル砲が西側戦車で一般化した[注 9]。東側では西側に先駆け滑腔砲(115mm滑腔砲)を搭載した。中戦車の重戦車化によって重戦車は存在意義を失い、中戦車があらゆる局面において活用される主力戦車(英: main battle tank、MBT)として生き残った(ただし、ソ連では高性能で高価なT-64及びT-80と、廉価版のT-62及びT-72という、重量による区別とは別の異種類の戦車でそれぞれ部隊編成を行う、ハイローミックスの二本立てが存在した)。また、戦車の防御力が攻撃力に対し立ち遅れていたことから「戦車不要論」が主流となり、防御力を捨て機動力で生存性を確保するレオパルト1のような戦車も登場した。
対戦車ミサイルが発達し、随伴歩兵による携帯用対戦車兵器を持つ敵歩兵部隊の掃討がより重要視されるようになり、戦車部隊と機械化歩兵部隊がともに行動する戦術が生み出された。また、自走化された対戦車砲である駆逐戦車は存在意義を失っていったが、軽戦車や歩兵戦車などが果たしていた役割を担うための車輌として、歩兵戦闘車のような主力戦車よりも軽量の戦闘車輌が多数生み出された。
特徴として砲塔内容積と避弾経始を両立するため砲塔は横に広くなり、アクティブ投光器による暗視装置により夜戦能力を得た。
M60パットン、チーフテン、T-62、T-64、AMX-30、レオパルト1、Strv.103などが相当する。
ソ連製のT-72は2A46 125mm滑腔砲の搭載、2層のガラス繊維材を装甲板で挟み込んだ複合装甲(性質の異なる装甲素材を重ね合わせた装甲で単一素材の圧延鋼板装甲より強固とされる)の採用、軽量化によって当時の戦車の中では走・攻・守いずれにおいても優れていた。一方、豊富な戦車戦経験と戦車の改造技術を持つイスラエル初の国産戦車メルカバはその独自の設計と、1982年のレバノン内戦で初期型のT-72を破ったことで注目を集めた。これら1970年以降に開発された戦車は西側では第3世代主力戦車で主流となる技術をいち早く採用していたり、第2世代主力戦車の多くが第1世代主力戦車の改良発展型であるのに対し、新規開発である点から第3世代主力戦車の方に分類されたり、技術的には第2世代と第3世代の中間的な観点から第2.5世代主力戦車と分類されることも多い。
第3世代主力戦車は東側は第2.5世代戦車の時点で当時の西側戦車より優れていたため大幅な性能向上は無かったが、次第に対戦車ミサイルも発射可能な2A46の搭載や箱状の爆発反応装甲の追加が行われていった[注 10]。西側ではドイツのレオパルト2が同国で開発されたラインメタル L44 120mm滑腔砲を装備し、複合装甲を導入しただけでなく複合装甲を内包した溶接砲塔を採用し、パッシブ型(投光器で光を照射するアクティブ型と違い、敵の発した光を受容する)の暗視装置を装備した。また、西側諸国のラインメタルL44 120mm滑腔砲は1980年代中頃から普及し始め、複合装甲や暗視装置は各国で独自に開発された。
ソ連戦車以外は砲塔が車体同様に溶接構造となり、T-80以外はレーザー測遠機を装備した。
冷戦終結に伴う軍事的緊張の緩和と軍事費削減によって、次世代主力戦車の登場を前に既存の戦車をもとにポスト冷戦時代の紛争の戦訓や関連技術の進展を反映させた戦車群(第3.5世代主力戦車)が開発された(M1A2エイブラムス、チャレンジャー2、レオパルト2A5、99式戦車、T-84、T-90Mなどが相当)。装甲の改良が施され、重量が概ね約3トンから10トン増加する傾向にある。
また、前述のように戦車の新規開発は難しい環境にありながらも、戦車開発技術の獲得・維持、既存戦車の改修による能力向上が困難なほど陳腐化もしくは改修はかえって費用対効果で割に合わないといった場合には新規開発が行われる(ルクレール、メルカバMk.4、10式戦車、K2およびアルタイ、T-14などが相当)。着脱が可能で破損時の交換や新型装甲への換装が容易であるモジュール装甲(外装式と内装式がある)が導入された。新規開発されていることから光学機器をはじめとする電子機器の進化が著しい。
特徴としてC4Iシステムの搭載によって戦車は他兵器や司令部と相互に情報共有を行い諸兵科を統合運用でき(ネットワーク中心の戦い)、トップアタック可能な対戦車ミサイルなどの上方からの攻撃への考慮やL55や2A46M5等、戦車砲の大口径化による威力の向上が行われた。また、ソ連崩壊後からのロシア戦車は西側第3世代主力戦車に比べて防御力が遅れがちになりTShU-1-7 シュトーラ-1等のアクティブ防護システムでの間接的な補強、西側に追随した複合装甲を内包した溶接砲塔の導入によって2000年代序盤に西側最新砲弾に耐える防御力を獲得し、レリークト・カークトゥス等の爆破反応装甲の改良、全く新しいコンセプトである無人砲塔の開発などでさらに防御力が向上した。また、エンジンの改良を行うことで重量増加に対応した。この他、イギリスでのチャレンジャー3の採用決定のように同盟国・友好国との弾薬などの互換性を高める等、補給面での利便性を向上させる改良計画も存在する。
ルクレール | チャレンジャー2 | メルカバ Mk 4 | 99A式 | |
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画像 | ||||
開発形態 | 新規 | 改修 | ||
全長 | 9.87 m | 11.55 m | 9.04 m | 11 m(推定) |
全幅 | 3.71 m | 3.53 m | 3.72 m | 3.70 m(推定) |
全高 | 2.92 m | 3.04 m | 2.66 m | 2.35 m(推定) |
重量 | 約56.5 t | 約62.5 t | 約65 t | 約55 t(推定) |
主砲 | 52口径120mm滑腔砲 | 55口径120mmライフル砲 | 44口径120mm滑腔砲 | 50口径125mm滑腔砲 |
副武装 | 12.7mm重機関銃×1 7.62mm機関銃×1 |
7.62mm機関銃×1 7.62mm機関銃×1 |
12.7mm重機関銃×1 7.62mm機銃×2 60mm迫撃砲×1 |
12.7mm重機関銃×1 7.62mm機関銃×1 |
装甲 | 複合 | 複合+爆発反応+増加 | 複合+増加 (外装式モジュール) |
複合+爆発反応 (外装式モジュール) |
エンジン | V型8気筒ディーゼル + ガスタービン |
水冷4サイクル V型12気筒ディーゼル |
液冷4サイクルV型12気筒 ターボチャージド・ディーゼル |
水冷4サイクル V型12気筒ディーゼル |
最大出力 | 1,500 hp/2,500 rpm | 1,200 hp/2,300 rpm | 1,500 hp | 1,500 hp/2,450 rpm |
最高速度 | 72 km/h | 59 km/h | 64 km/h | 80 km/h |
乗員数 | 3名 | 4名 | 3名 | |
装填方式 | 自動 | 手動 | 自動 | |
C4I | SIT | BGBMS | BMS | 搭載(名称不明) |
10式 | K2 | T-14 | M1A2 SEPV2 | レオパルト2A7 | |
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画像 | |||||
開発形態 | 新規 | 改修 | |||
全長 | 9.42 m | 10.8 m | 10.8 m | 9.83 m | 10.93 m |
全幅 | 3.24 m | 3.60 m | 3.50 m | 3.66 m | 3.74 m |
全高 | 2.30 m | 2.40 m | 3.30 m | 2.37 m | 3.03 m |
重量 | 約44 t | 約55 t | 約55 t | 約63.28 t | 約67 t |
主砲 | 44口径120mm滑腔砲 | 55口径120mm滑腔砲 | 56口径125mm滑腔砲 | 44口径120mm滑腔砲 | 55口径120mm滑腔砲 |
副武装 | 12.7mm重機関銃×1 7.62mm機関銃×1 |
12.7mm重機関銃×1 7.62mm機銃×1 |
12.7mm重機関銃×1 7.62mm機関銃×1 |
12.7mm重機関銃×1 7.62mm機関銃×1 RWS×1 |
7.62mm機関銃×2 |
装甲 | 複合+増加 (外装式モジュール) |
複合+爆発反応 (モジュール式) |
複合+爆発反応+ケージ (外装式モジュール) |
複合+増加 | |
エンジン | 水冷4サイクル V型8気筒ディーゼル |
液冷4サイクルV型12気筒 ターボチャージド・ディーゼル |
空冷ディーゼル | ガスタービン | 液冷4サイクルV型12気筒 ターボチャージド・ディーゼル |
最大出力 | 1,200 ps/2,300 rpm | 1,500 hp/2,700 rpm | 1,500 hp/2,000 rpm | 1,500 hp/3,000 rpm | 1,500 ps/2,600 rpm |
最高速度 | 70 km/h | 70 km/h | 80–90 km/h | 67.6 km/h | 68 km/h |
乗員数 | 3名 | 4名 | |||
装填方式 | 自動 | 手動 | |||
C4I | ReCS・10NW | B2CS | YeSU TZ | FBCB2 | IFIS |
20世紀の内にも登場するはずであった「第4世代主力戦車」は未だ模索の段階であり、世界的な定義は決定していない。背景には東西冷戦の終結によって、正規戦が起こる蓋然性が低下し、戦車の性能向上がそれほど重要視されなくなった。同時に、戦車開発史上もっとも一般的な手法であった、「サイズを拡大することで主砲の大口径化と防御力向上を達成する」ということが困難になったからである。なぜならば、物理的条件から70tを超えるような戦車は輸送や装甲の追加が困難で、走行可能な地形にも制限がかかるなど、主力戦車としての運用に支障が出るのである。
この問題を解決するために、サイズ拡大によらない性能向上が模索されている。その一つに有人車両からコントロールする無人のロボット僚車や戦車機能を数両で分担するなど斬新なアイデアも提案されている。サイズの縮小によって軽量化を達成した戦車は東側戦車、ルクレール、10式、K2が該当し、現代の西側戦車の60トン後半の重量に対し、これらの戦車は60トン未満の重量となっている。米国のM1A3計画のように軽量化に追従するものも存在する。
2010年度に装備化された10式戦車では、可視系の視察照準にハイビジョンカメラを用いたモニター照準方式を世界で初めて戦車に採用[19]、複数の目標を同時に捕捉識別する高度な指揮・射撃統制装置に加え、リアルタイムで情報を共有できる高度なC4Iシステムなどを装備しており、例えば小隊が複数の目標を同時に射撃するときシステムが最適な目標の割り振りを自動的に行って同時に発砲したり、小隊長が小隊内の他の戦車の射撃統制装置をオーバーライドして照準させることも可能である。また、1990年度に制式化された90式戦車では実現困難だった水準の小型軽量化を実現し戦略機動性が向上、戦術機動性も油圧機械式無段階自動変速操向機 (HMT) の採用により向上した。
戦車以外の中軽量級の戦闘車両の開発では、プラットフォームの共通化によって開発、生産、運用といった面での経費節減と運用効率向上を図ることがあったが、ロシアではアルマータと呼ばれる装軌車両用の共通車体プラットフォームを基に次期主力戦車T-14の開発が進められている[注 11]。T-14は10式戦車と同じく車長と砲手の視察照準にはモニター照準方式が採用されていると考えられ、長山号やアメリカ軍のArmed Robotic Vehicle(ARV)[20] 等とは異なり有人戦車だが乗員を必要としない遠隔操作モードが試験段階にある。一方、ドイツではウクライナ問題の影響から戦車の配備数を増やし近代化改修を進める動きがあり、T-14の配備がドイツとフランスの次期主力戦車計画にどのような影響を与えるか今後の動向が注目される(ドイツとフランスでそれぞれ配備中の主力戦車レオパルト2およびルクレールの後継機開発計画であるEMBTでは、新規開発の130mm滑腔砲搭載により攻撃力の向上を図り、68トン積載可能なレオパルト2A7からのシャーシ及びエンジンに、自動装填装置を備え乗員2名のルクレールの砲塔を併せることで、軽量化に伴う機動力の向上が見込めるとされる)。 各国の技術開発・研究などから、戦車は将来的に以下のような発展をみせると予想されている。
戦車が登場した第一次世界大戦当時の日本は、1915年(大正4年)時点で国内自動車保有台数がわずか897台というありさまであったが、他の列強諸国同様に新兵器である戦車に早くから注目しており、ソンムの戦いの翌年である1917年(大正6年)には陸軍が調達に動き出している。1918年(大正7年)10月17日、欧州に滞在していた水谷吉蔵輜重兵大尉によって同盟国イギリスから購入されたMk.IV 雌型 戦車1輌が、教官役のイギリス人将兵5名とともに神戸港に入港した[7]。
翌1919年(大正8年)に新兵器の発達に対処するために、陸軍科学研究所が創設され、以降1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて日本陸軍はルノー FT-17 軽戦車とマーク A ホイペット中戦車を試験的に購入して、研究している。当初は「戦車」と言う言葉が無く、「タンク」や「装甲車」と呼んでいたが、1922年(大正11年)頃に「戦う自動車から戦車と名付けては」と決まったようである。1923年 - 1924年(大正12 - 13年)頃には戦車無用論も議論されたが、1925年(大正14年)の宇垣軍縮による人員削減の代わりに、2個戦車隊が創設された。当時(大正後期)の日本経済の不況や工業力では戦車の国産化は困難と考えられたうえ、イギリスも自軍向けの生産を優先させていたため[7]、陸軍ではそれらの代替としてルノーFTの大量調達が計画されていたが、陸軍技術本部所属で後に「日本戦車の父」とも呼ばれた原乙未生大尉(後に中将)が国産化を強く主張、輸入計画は中止され国産戦車開発が開始されることとなった。
戦車開発は唯一軍用自動車を製作していた大阪砲兵工廠で行われることとなり[7]、原を中心とする開発スタッフにより、独自のシーソーばね式サスペンションやディーゼルエンジン採用など独創性・先見性に富んだ技術開発が行われた。それらは民間にもフィードバックされて日本の自動車製造などの工業力発展にも寄与している。設計着手よりわずか1年9ヶ月という短期間で1927年2月には試製1号戦車をほぼ完成させ、試験でも陸軍の要求を満たす良好な結果が得られたことから、本格的な戦車の開発が認められた[7]。
その後、八九式中戦車、九五式軽戦車 、九七式中戦車などの車輌が生産された。しかし、第二次世界大戦においては、日本は限りあるリソースを航空機や艦艇に割かざるを得ず、しかも、その間の欧州戦線での開発競争によって日本の戦車技術は陳腐化した[7]。(日本陸軍の兵器弾薬機材は対ソ連を想定して開発整備が行われてきたもので、島嶼戦や南方の気候を想定していなかった。しかしその見直しの時間もなくアメリカとの開戦に至ってしまった[24]といわれる) 一方で、本土決戦用に温存されていた車輌とともに、原中将はじめ開発・運用要員の多くが幸いにも終戦まで生き延びていたことが、戦後の戦車開発に寄与することとなる。
戦後日本は非武装化されたが、共産主義勢力の台頭と朝鮮戦争の勃発により日本に自衛力の必要性が認められて警察予備隊(後の自衛隊)が組織され、アメリカより「特車」としてM4中戦車などが供給された。また朝鮮戦争中に破損した車輌の改修整備を請け負ったことなどで、新戦車開発・運用のためのノウハウが蓄積されていった。とはいえこれらアメリカ戦車がまもなく旧式化することは明らかであり、規格が日本人の体型にも合わないことも踏まえて、日本の国情に合わせた国産戦車の開発を目指すこととなった[7][25]。
アメリカの支援などによって開発費の目処もつき、戦後初の国産戦車となった61式戦車が1961年(昭和36年)4月に制式採用された。この戦車は旧陸軍の設計思想を受け継いだこともあり、開発した時点では既に米ソや西ドイツの水準からは見ると陳腐なことは否めず、習作的意味合いが強いものであったが、続く74式戦車で世界水準にキャッチアップし、更にその後継の90式戦車で世界水準を一部上回ったといえる[7][25]。
2000年代に開発された10式戦車は、全国的な配備を考慮して90式戦車よりも小型軽量化しつつ同等以上の性能を有しているとされ、特に射撃機能やネットワーク機能などベトロニクスの進歩による戦闘能力の向上が著しい。10式戦車は耐用期限到達に伴い減耗する74式戦車の代替更新として2010年度から調達が開始された。一方、2013年に25大綱と26中期防が閣議決定されたことで、今後、本州配備の戦車は廃止され、戦車は北海道と九州にのみ集約配備、本州には戦車とは異なる新たなタイプの車両の16式機動戦闘車のみが配備される。装輪戦車である16式機動戦闘車は、10式戦車と比して火力と防護力だけでなく戦術機動性(不整地突破能力)の面において劣るものの、逆に戦略機動性(舗装路での高速走行や輸送機・輸送艦での運搬による、長距離の移動能力[26])は優れており、74式戦車と同等の火力を戦場に素早く展開できる即応力を備えている[27]。本州配備の74式戦車が担っていた役割の一つ、普通科部隊への射撃支援については、16式機動戦闘車が引き継ぐことになる。
防衛省では有人戦闘車両の無人砲塔化と、有人戦闘車両と無人戦闘車両の連携に関するベトロニクスシステムの技術研究が行われている。この研究は2020年度まで行われる。
砲戦距離は地形条件により変化するが、1967年のゴラン高原での戦車戦では900 m から1,100 m の射程で戦闘が行われており、ヨーロッパでは2,000 m 程度で生起する想定がされている。一般に、1,000から3,000 m の距離で敵戦車と対峙した場合、3発以内で命中させないと相手に撃破されると言われている[32]。
重量と防御力を最適化するため、戦車の装甲厚は敵と向き合う砲塔前面や車体前面が最も厚く、一方で上面や底面が薄く造られている。現在の主力戦車の正面装甲は、対抗する主力戦車が搭載する火砲に対し1,000 m で攻撃を受けても耐えることが求められているとされるが、実際には常に競争を続ける盾と矛の関係であり、防護性能より火力性能が上回ることが多い[33]。最近は対戦車ミサイルや航空機からの攻撃が多く、砲塔上面の装甲の脆弱性が問題になる例が増えている。一方で、道路に仕掛けられているIEDや地雷#対戦車地雷等に対して、V型装甲など戦車下面の防御も重要視されている。
また、旧来からあるRPG-7等の比較的破壊力の低い非誘導ミサイルによって、履帯・転輪等が破壊され、行動不能となった戦車が放棄されることも多い。戦況が有利に展開して回収できなければ、敵軍に鹵獲されて簡単な修理で敵の戦力となる可能性や、通信や兵器の秘密が明らかになる可能性がある。放棄時には通信装置や照準装置等の破壊が推奨されているが、行動不能となった戦車は敵軍の攻撃に対してより脆弱となるため、実際には乗組員が何も破壊できずに速やかに退避することが多い。
戦車を含め殆どの兵器は開発・製造に高度な専門技術と産業基盤が要求される工業製品である。そのため殆どの国は戦車を輸入に頼っており、ロシア、ドイツ、アメリカ等の戦車を開発できる国は戦車の輸出によって経済的利益や量産効果による調達価格の低減と共に、軍事・政治的影響力の確保を図ろうとする。中国はロシア設計を改変した車輌を輸出している[注 16][注 17]。
先進国では最新鋭の第3.5世代戦車が主流だが、途上国に限らずロシアやイスラエル等であっても旧式戦車に近代化改修を施して配備されていることがある。近代化改修では車体はそのままに主砲の滑空砲への改良、より高性能なレーザー式照準装置や通信装置、外部に爆発反応装甲の追加、より高馬力なエンジンへの換装などの手法が用いられ、外見が大きく変化することもある。旧式化した戦車を自走砲や回収戦車、架橋車両などに改装する例がある他、砲塔のみを他の車両やトーチカに転用される場合もある。
冷戦期には、世界中の国々が陸上戦闘での主戦力となる戦車を多く保有していたが、冷戦終結後は脅威の減少[注 18]に伴う軍事費の削減によって、多くの国では戦車保有数が減少し100輌単位での保有となったが、米中露をはじめとする超大国では1,000輌単位の保有となっている。中でもロシアは依然として1万両を超える戦車を持つとされているが、実際には稼働可能な戦車は数千両に限られ、またT-62やT72の近代化改修車もかなりを占めると言われる。
戦車兵の軍服は狭い車内で活動するため、他の兵科より裾を短くするなど引っかからないように工夫されており、素材に難燃性が求められる。第二次世界大戦後になるとつなぎタイプの軍服を採用する軍隊が多数を占めるようになる。履物については他部隊より軽量化されたものが多い。
戦車内部は狭く頭をぶつける恐れが高いので、頭部を守るためのクッションパッドもしくは樹脂製の外殻で構成されたヘルメットが用いられる。また、車内はエンジン音や履帯の走行音などで騒がしいため、遮音材と通話のためのヘッドセットがヘルメットに組み込まれることが多く、ヘルメットも縁が切り落とされている専用設計のものが一般的である。その場合、それぞれの席にはインターホンのジャックがある。近年では生存性を高めるためボディーアーマーを着用することもある。ハッチを開けて走行すると土砂や砂塵が巻き上がり、また射撃時には車内にガスが発生するため、マスクと防塵眼鏡が多用される。
乗員の位置としては車長席の前方に砲手席、主砲を挟んだ反対側に装填手席がある。自動装填装置を搭載する車両では、主砲を挟んで車長席と砲手席が設けられる。操縦手席は乗り降りの際に主砲が邪魔にならないように車体前方の左ないし右に位置するが、操縦手席が中央に設けられている場合は主砲の位置と仰角によっては脱出が困難のため砲塔のハッチから脱出する。車両によっては底面に脱出口があるものや、イスラエルのメルカバのように車体後面に脱出口を持つものもある。
乗員の自衛用の小火器は、狭い車内での取り回しを考慮して主にカービンタイプのアサルトライフルや短機関銃が用いられ、拳銃はヒップホルスターはハッチ類に引っかかる恐れがあるためショルダーホルスターが好まれる。戦車は内部は装備の近代化や高度化で少々大型化してもすぐに装備で狭くなる傾向があるため、世界的には比較的小柄な乗員を採用することが多いといわれている。
戦車はキャタピラ、または無限軌道と呼ばれる走行装置によって、車体を支え走行する。
多くの場合無限軌道は、鋼製の各履板(りばん)がピンで接続されたもので輪を構成していて、履帯(りたい)、キャタピラ、無限軌道と呼ばれる。履帯と起動輪、誘導輪、転輪、上部転輪などをもつ車輛を装軌車両と呼ぶ。これに対しタイヤの駆動で走行する車両を装輪車両と呼ぶ。エンジンの出力は変速機、操向変速機、最終減速機を経て起動輪を駆動する。起動輪には歯輪があり、履板のピンブロックと噛み合って履帯を起動する。履帯では方向の変更は起動輪の左右回転数の差で行われる。
履帯はタイヤに比べて接地面積が広く荷重が分散され、装輪車両では走行不可能な泥濘などの不整地に対する「不整地走破能力」が優れる。また、接地面積の広さから地面との摩擦が大きいため「登坂能力」にも優れる。履帯は地形に追従して転輪を支え、穴や溝に差し掛かってもフタのような役を果たして転輪を落としこまない。この働きによって、装軌車両は装輪車両では越えられない幅の壕を越えられ、「越壕能力」に優れる。段や堤も装輪車両より高いものを越えられ、「越堤能力」に優れる。また鉄条網が引かれた阻止線もそのまま轢き倒して走行できる。川底の状態の良い河川ならば渡渉が可能である。
変速機はエンジンから出力された高回転の動力を順次低回転に調速し、低速ながら数十トンの質量を動かすトルクを作り出す。動力は操向変速機へ送られ左右の履帯へ分配される。操向変速機によって履帯は動力を増減し、または停止させられる。これによって装軌車両は向きを変えたり、緩く円を描くような旋回、または急旋回を行える。ブレーキは操向変速機に組み込まれており、走行中の減速に使用される油圧式で多板のディスクブレーキと停車中のパーキング・ブレーキがある。一部の戦車ではディスク・ブレーキに加えてオイル式のリターダを備える。
上記のように履帯は多くの長所を備えるが、短所も多い。履帯による走行はエネルギーロスが大きく、速度や燃費が犠牲になっている。装輪式のようにパンクはしないが、片方の履板1枚のキャタピラピンが切れたり、履帯が車輪から外れれば、その場で旋回以外の動きができなくなる。履帯は騒音と振動も大きく、騒音は戦場での行動が容易に発見されることを意味し、振動は車載する装置の故障の原因となり乗員を疲労させる。路面の状況によっては大きく砂塵を巻き上げて自ら位置を露呈してしまう。またキャタピラと転輪類の重量が車重の多くを占め、大きなものでは履帯1枚が数十kgになる場合もあり、履帯も数トンの重さとなる。装軌部分は車輛の側面の多くを占め、体積としても装輪車両より占有率が高い。
戦車の行動に適した場所としては開けた土地が挙げられる。これは戦車が攻撃に投入される兵科であり、速度と突進力を生かした機動がその戦術的な価値を高めるからである。電撃戦における機甲部隊は、迂回し、突破し、後方へ回り込んで敵の司令部、策原地などの急所をたたくことが用法の主たるものである。防御戦闘、市街地の防衛などは戦車の任務として本来不適である。戦車は開闊地(かいかつち・Open terrain)や多少凹凸のある波状地 (Rolling terrain) において本来の機動力を発揮できる。反対に密林地帯や森林地帯のような錯雑地 (Closed terrain)、都市部、急峻な山岳地帯、あるいは沼沢地のような車両の進入を拒む場所は、戦車の機動が阻害されるので不適な場所とされる。泥濘も履帯に絡みつき、転輪や起動輪を詰まらせて走行不能にすることがあり、不適である[34]。またアメリカのシェリダンのように軽量な戦車が水中に入るとそれなりに浮力がかかり、その分無限軌道と水底との間の摩擦力が減ることから、走行は陸上よりも難しくなる。
河川を橋によって渡ろうとすれば、十分な強度が橋梁になければいけない。また、移動経路が制限されることや戦時には意図的に破壊されることがあるために、橋への依存は作戦上好ましいとみなされない。川底のぬかるみがひどかったり極めて急流であったりすれば、水中渡河という手段も困難だと考えられる。戦車を含む車両全般の渡河を行うための車両に、戦車相当の車台上に折り畳んだ橋体を搭載する架橋戦車というものが存在する。比較的幅の狭い川では、川辺から簡易な橋を素早く展開・設置することのできる架橋戦車が使われる。数両の架橋戦車同士を連結させることで橋脚を設けられる架橋戦車も存在しており、比較的幅の広い川に対して使用される。ほかには、川面に数艇以上並べて利用されるポンツーンやポンツーン橋と呼ばれる応急・簡易に戦車等の渡河を可能とする小型艇がある。かなり幅が広い川では、ポンツーンを橋ではなく艀として使用することもあり、このポンツーン専用の運搬車両もある。
戦車を相手に戦うことを「対戦車戦」、戦車を攻撃するための手段を「対戦車兵器」とそれぞれ呼ぶ。
戦車は開口部が極端に少ないため、視界は狭く死角が多い、また外部音が遮蔽され乗員は周囲の音を感知することが困難であるという弱点・欠点がある。反対に、戦車は車体や走行音が大きく、エンジンなど熱源を積んでいるため、暗視装置など技術機材の有無を問わず敵からは察知されやすい。ハッチ、外部を観察するための光学装置、履帯や転輪も破壊しやすく、戦車の弱点である。
戦車と戦う側からすると、敵戦車の弱点を見極めてそこを攻める必要が出てくる。歩兵は物陰に隠れたり地形に潜んで、戦車を奇襲的に攻撃することができる。攻撃機や武装ヘリコプターといった航空機は戦車からは察知されにくく、戦車砲を指向させにくい角度の上空から一方的に戦車を攻撃することができる。
戦車が登場した当初に行われた対戦車攻撃としては、地雷を用いて戦車の履帯や底面を破壊する、歩兵が肉迫して手榴弾や爆薬を投げ込む、野砲が直接照準で射撃するといった方法があった。第二次世界大戦初期までは、歩兵用の対戦車兵器のひとつとして対戦車ライフルが用いられていた。人力で運搬・射撃する都合上、威力を向上させようとすると重量・反動が増大して運用が難しくなり、戦車の装甲が強化されるに従い、対戦車兵器としては衰退した。
第二次世界大戦後期にはバズーカやパンツァーファウストなどの個人が携行することが可能な対戦車ロケットや無反動砲が普及したことにより、射程では劣るが貫通力では対等になった。これらの兵器は成形炸薬によるモンロー効果を用いた成形炸薬弾(HEAT弾)を使用し、人間が受け止められる反動以上の対戦車戦闘力を歩兵にもたらした。また、ソ連で開発されたRPG-7は簡単な構造で、途上国でも簡単にコピー生産できるため、世界のテロリストやゲリラなどの弱小勢力でも正規軍の戦車に対抗できるようになり、低強度紛争(Low Intensity Conflict:LIC)といった非対称戦が多発する要因ともなった。
1970年代には、誘導装置を備えた対戦車ミサイルにより、それまでの「戦車の歩兵に対する圧倒的な優位」の状態が一気に崩れ、立場が逆転してしまった。歩兵は、比較的安価で入手しやすく、取り扱いが軽便な携帯用対戦車兵器により、高価な敵戦車[35]を撃破することができるようになった[36]。
イスラエルとアラブ諸国が争った数次の中東戦争ではしばしば大規模な戦車戦が繰り広げられた。第一次中東戦争は歩兵支援にとどまったが、特に1973年10月に勃発した第四次中東戦争ではアラブ側・イスラエル側併せて延べ7,000輌(イスラエル約2,000輌、エジプト2,200輌、シリア1,820輌、その他アラブ諸国約890輌[37])の戦車が投入され、シナイ半島、ゴラン高原において複数の西側製戦車(センチュリオン「ショット」、M48パットン/M60パットン「マガフ」など)とソ連製戦車 (T-54/55、T-62、なおイスラエル軍も「Tiran-4/5/6」として使用)が正規戦を行った。8日に発生したエジプト軍第二歩兵師団とイスラエル軍第190機甲旅団の戦闘では、エジプト軍がRPG-7やAT-3「サガー」を大量に装備して迎え撃った。随伴歩兵を伴っていなかったイスラエル軍戦車はこうした対戦車攻撃を満足に防げず、約120輌の戦車うち100輌近くが約4分間で撃破された。シナイ方面で行われた10月14日の戦車戦はクルスク大戦車戦以来最大の規模[38]となり、また対戦車ミサイルが大規模に投入され戦車にとって大きな脅威となったことから、以後の戦車開発に戦訓を与え、以降の戦車は更に重武装、重装甲であることが求められるようになった。
当時はT-72をはじめとして東側戦車は複合装甲を備えていたため携帯式対戦車兵器の威力に対抗できたが、西側戦車はただの鋼板による防御力しか持たなかったため戦車を持たずとも対戦車ミサイルのみで対処できるということが世界中に理解された。当時盛んだった戦車不要論をある意味で証明することになった。また、爆発反応装甲はイスラエルで実用化されたが、体積および質量当たりの防御力の高さはむしろ東側戦車で評価されていった。それでもなお、戦車の側面・後面や走行装置等の弱点を狙ったり、タンデム弾頭や地面設置型のミサイルを使用するなど、状況は限られるものの撃破自体は不可能ではない。対戦車ヘリコプターの出現や対戦車ミサイルが猛威をふるったことにより「戦車不要論」も唱えられたが湾岸戦争・イラク戦争は戦車が活躍し下火となった。
現代の戦車は敵の対戦車兵器に備えて常に周囲を警戒する必要に迫られ、第一次世界大戦で戦車が登場した当初の「味方歩兵を護るために戦車が先行し、彼等のための壁になる」という図式が成り立たなくなり、「戦車を敵歩兵から護るために、歩兵を先行・随行させる」という状況に陥ってしまった。戦車を運用する側は戦車を単独で進めるのではなく、視界の広い歩兵を随伴させ、歩兵の警戒と小火器による牽制・制圧で敵方の対戦車戦闘を困難にさせなければならなくなった。それに対して対戦車攻撃を仕掛ける側にとっては、まず敵戦車に随伴する歩兵を無力化、あるいは両者を分断してから戦車を攻撃する必要性が生まれ、彼我の駆け引き・せめぎあいが行われるようになった。現代の地上戦において戦車の出番は最終段階となる[39]。
戦車は大きく重いことから交通路には制限があり、防御側はこれを利用して対戦車壕や対戦車用バリケード、対戦車地雷等の障害物によって自由な移動を阻害する。戦車は車体の大きさから停止して動けない状態では容易に狙い撃ちされるため、走行不能な状態に陥った戦車の自衛戦闘には限界があり、味方の救出が間に合わなければ乗員は脱出を強いられることになる。
最新の戦車はモニターやセンサー類を充実することで不利を補おうとしているが、それでもなお充分とは言えず、随伴歩兵との連携を必要としつづけている。歩兵が戦車の外に直接同乗するタンクデサントは歩兵の視野の広さと戦車の機動力を得られる反面、むき出しの歩兵は敵からの攻撃に対して無防備であり、常に推奨される戦法とは言えない。ロシアでは味方戦車を敵歩兵から守ることに特化した戦闘車輛であるBMP-Tシリーズが開発された。
2000年代になると携行型の対戦車ミサイルは、歩兵1名での運用、2kmを超える長射程化、ファイア・アンド・フォーゲットによる反撃の回避、正面装甲より弱い上部装甲を狙うトップアタックなど高機能化したが、電子機器の低価格化により価格上昇は少なく、多くの軍で標準的な装備となった。また無人航空機や徘徊型兵器も実戦配備されるようになった。対戦車ミサイルへの対策として、被弾を前提とした改修が行われている[40]。
進化した対戦車兵器への対策により戦車の開発費・価格は上昇し、先進国でも大きな負担となっている。2022年ロシアのウクライナ侵攻ではロシア軍の戦車が低コスト化した対戦車兵器で大損害を受けたことから、コスト面での優位性が低下しつつある[36][41]。一方で地上部隊の駆逐など火力を必要とする作戦など特性にあった状況で利用されている[42][43]。高価な戦車の損害を抑えるため、前線から下がらせて主砲による砲撃を担当するという自走榴弾砲的な運用も行われている[42]。
火砲やロケットランチャーといった対戦車兵器を使えない場合、太い木や鉄の棒などを履帯に投げ込んだり、あるいはバリケードを用いて敵戦車を足止めした上で、灯油やガソリンなどの可燃物を戦車の上面に大量に浴びせかけたり、地面など周囲にも可燃物を配置しておいて着火し、火攻めにするという攻撃方法が用いられる場合がある。かつては同じ目的で火炎放射器や火炎瓶、焼夷剤投射器(例:ドイツ連邦軍のHandflammpatrone)を使う事例もあった。開口部や吸気口から燃える可燃物が車内に入り込むことで、戦闘室やエンジンが焼損にいたる。また装甲板で覆われて開口部が少ない戦車は温度上昇を防ぐことができず、炎にさらされ続けると全体がまるで大型のオーブンのようになり、機器が故障したり弾薬が誘爆しなくとも、内部の乗員は脱出を余儀なくされる。現代の戦車はアンテナやカメラなど重要だが脆弱な箇所が多く、作戦を続行するためには消火が必要となり人手が割かれる。
ありあわせの爆発物で作られた即席爆発装置は、戦車の下部装甲や走行装置を破壊したり、車体を横転させる威力を持ちうるため、紛争地域に投入された戦車にとり大きな脅威となっている。
陸戦を主目的とする戦車にとって上空を高速で移動する航空機への対応は難しく、第二次世界大戦の中期から対地攻撃機が対戦車攻撃にも導入され多くの成果を挙げた。特にダイブブレーキを備えた急降下爆撃機は狙いを定めやすく、戦車側は直撃を受けないようにジグザグに動く、急停止・急発進するなど回避行動を取っていたが効果が薄かった。対策として大規模な戦車部隊には対空戦車が随伴することもあった。敵からの空襲を受ける可能性がある場合は、高射部隊の援護が必要不可欠である。
戦車の上部装甲は正面装甲に比べると薄く作られるため、正面装甲であれば充分に耐えられる20mm~30mm級の機関砲によっても貫通される可能性がある。ソ連では第二次世界大戦の中期から23mm機関砲を搭載したシュトゥルモヴィークIl-2を東部戦線に投入し、ドイツ軍の戦車部隊に対して大きな戦果を挙げた。ドイツでも大戦後期からJu 87GやHs 129のような爆撃機・攻撃機に機関砲や対戦車砲を装備して対戦車攻撃機として投入し、ソ連軍の戦車を多数撃破している。現代の攻撃機はアメリカ空軍のA-10のように機関砲、爆弾、ロケット、ミサイルで武装しており、戦車や装甲車への攻撃を主任務としている。
低速ながらも空中を比較的自由に動き回り、一定の空域に留まり続けることができる攻撃ヘリコプターは固定翼機以上の脅威であり、戦車砲の射程外から機関砲や空対地ミサイルなどで一方的に戦車を撃破することが可能である。戦車側は敵ヘリコプターの射程に入った場合、煙幕を張って視界を遮りつつ遮蔽物の影に隠れる以外には手がなかったため、戦車を運用する側は、歩兵の持つ地対空ミサイルや対空攻撃の可能な銃砲、また専門の防空車輌や高射部隊との協調によって敵ヘリコプターの接近を阻止する必要がある。近年の自動目標追尾装置を持つような戦車に対してヘリが射程内を低速飛行する場合にはかえって撃墜される可能性がある。ヘリは機動性と射程距離で勝り、装甲貫徹力は同等で、防御力と運用コストで劣る。また、撃墜に至らなくても飛行装置が破壊されるだけで無力化される。このためヘリは被弾する危険性が高い作戦には適しておらず、戦車は高い防御力を活かした行動が可能で任務による棲み分けが行われている。
近年は攻撃能力を有する無人航空機や徘徊型兵器が新たな脅威になっている[41]。 2022年ロシアのウクライナ侵攻や2023年パレスチナ・イスラエル戦争にて、増え続けるドローンからのRPG弾の投下や自爆攻撃によるトップアタックに対してか戦車の上にスラット装甲のような金属状の「金網・傘」を付けるようになったのが、軍事ウォッチャーの間で報告されている[44][45]。英語では通称「Cope cage(対処籠)」だがこれは当初は揶揄した呼び名だった。これを更に発展させた「亀戦車」も2024年に観察された。
現代の地上戦ではミサイルにより防空レーダーや飛行場を破壊して航空戦力を減らし、榴弾砲による砲撃で敵の砲兵部隊を攻撃して地上戦力を減らした後、装甲部隊と歩兵部隊により敵陣地へ侵攻するのが基本であり、制空権の確保は戦闘車両を大規模展開させるうえでの前提条件である[39]。
市街戦は視界の狭さと通行の制限という二つの弱点から戦車にとっては不利な環境で、とくに曲がり角や建物の上層などの高所から、弱点である後面や上面に攻撃を受ける危険性がある。防御側は侵攻する戦車をあえて市街地へ侵入させ、歩兵の対戦車兵器で破壊するという戦術もある[39]。それでも歩兵の盾や強力な火力援護手段として戦車が必要されていることに違いは無く、非対称戦争対策として市街地向けの改修が行われている。設計段階から市街戦を考慮した戦車も登場し、また建造物破壊に対応できる砲弾も実用化されている。市街戦では主役である歩兵を援護する近接支援火力として戦車が投入され、搭載できる砲弾に限りがあるため対歩兵には同軸機銃や対空機銃が用いられ、対空機銃は建物の上階など砲が届かない相手に対応するために重要である。
前面以外は装甲が比較的薄い傾向にあり弱点になっていることが多い。ソ連戦車、99式戦車、メルカバ、K2のように戦車の弱点である上面に増加装甲を加え、トップアタック式ミサイルに対抗したものがある。ロシア戦車、メルカバ、K2のように戦車の弱点である側面の装甲を強化し、側方からの攻撃に対抗したものがある。
イラク戦争後、米英を主体とした駐留軍の車両も対HEAT装甲である鳥籠状の構造物で車体を覆っているが、これは前述のように独軍が採用した防御方法であったもので、その後に同じ着想のものが世界中で採用された[21]。これがRPGの弾頭を数十%の確率で不発、または著しく効果を削ぐと云われている。イスラエルのメルカバは砲塔後部下部に対HEAT弾用のチェーンカーテンを取り付けており、ロシアではスラットアーマーを車体後方や上面に装備している[40]。
各国において、戦争に関する博物館が存在する。中でも、戦車を中心にした博物館がいくつか存在する。連合軍の博物館は自国の戦車はもとより、鹵獲した枢軸国の戦車の展示においても充実しており、戦車の変遷を理解する上においては重要な資料を提供している。
自衛隊の車両を運転する内部資格「MOS」(Military Occupational Speciality、特技区分)の他、公道を走るには大型特殊自動車免許や大型特殊免許(カタピラ限定)の運転免許が必要となる[46][47][48]。
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