徳川家光
日本の江戸時代の武士、第3代江戸幕府征夷大将軍 ウィキペディアから
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徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長9年7月17日(1604年8月12日) |
死没 | 慶安4年4月20日(1651年6月8日)(46歳没) |
改名 | 竹千代(幼名)→家光 |
諡号 | 大猷院 |
戒名 | 大猷院殿贈正一位大相国公 |
墓所 | 日光山輪王寺 |
官位 | 正三位、従二位、権大納言、右近衛大将、右馬寮御監、正二位、内大臣、征夷大将軍、従一位、左大臣、左近衛大将、贈正一位太政大臣 |
幕府 | 江戸幕府3代征夷大将軍(在任1623年 - 1651年) |
主君 | 徳川家康→徳川秀忠→後陽成天皇→明正天皇→後光明天皇 |
氏族 | 徳川将軍家 |
父母 |
父:徳川秀忠 母:崇源院 |
兄弟 | 豊臣完子、千姫、珠姫、勝姫、長丸、初姫、家光、忠長、東福門院、保科正之、ほか |
妻 |
御台所:鷹司孝子 側室:振ほか |
子 | 千代姫、家綱、亀松、綱重、綱吉、鶴松 |
15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。
慶長9年(1604年)7月17日、徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれる。母は太閤豊臣秀吉の養女・達子(浅井長政の三女)。徳川家の世継であった父・秀忠には慶長6年(1601年)に誕生した長男・長丸がいたが、既に早世していた為、世子として扱われ、祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞らの小姓が付けられる。
慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となる。幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟・国松(後の忠長)が誕生する。竹千代と国松の間には世継ぎ争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、竹千代の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。
元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年(1617年)には西の丸へ移り、元和4年(1618年)には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康の死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。「家光」の諱は金地院崇伝が選定した。崇伝の記した『本光国師日記』には、当初は「家忠」を勘案したが、平安時代の公卿の左大臣藤原家忠の諱と同じとなることから、改めて「家光」を選定したとある。「家」は明らかに家康の「家」で、以後の徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の諱に使用する通字となった。元和8年(1622年)、鎧着初(具足始め)が行われ、具足親は加藤嘉明が務めた。
元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられる。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下[注 1]を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。
秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。家光は将軍になるや守役の青山忠俊を老中から罷免して、寛永2年(1625年)には改易に処した(忠俊の子の青山宗俊が後に旗本を経て大名に復帰)。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために再び上洛するが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣および左近衛大将に昇格した。
寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手しつつ、全国に巡見使を派遣して各地の情勢を監察させた。全国規模での巡見使の派遣は家光が初である。同年5月には外様大名を招集し、藩内の内訌などを理由に、肥後熊本藩主・加藤忠広の改易を命じている。寛永10年(1633年)福岡藩における栗山大膳事件(黒田騒動)では自ら裁定を下して藩主黒田忠之の主張を認め、寛永12年(1635年)対馬藩における柳川一件でも藩主宗義成の主張を認めた。幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。同年9月には外祖父の浅井長政に権中納言を贈官した。[1] 寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。
対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していった。親政が始まった後、長崎奉行の竹中重義に改易と切腹を命じ、新しい長崎奉行を旗本2人から任命して、同時に寛永10年(1633年)から寛永13年(1636年)にかけて、長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(鎖国令)を発布した。寛永12年(1635年)の長崎奉行への職務規定(第三次鎖国令)では、日本人の東南アジア方面との往来が禁止されることになり、宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えた。同時に、朱印船の役割は外国人(オランダ人・ポルトガル人・中国人)が代行することになり、また、寛永12年(1635年)に九州各地の中国人は長崎のみに集住させられ、ポルトガル人は寛永13年(1636年)長崎の出島に隔離された。寛永14年(1637年)に起きた島原の乱を鎮圧した後、ポルトガルとの断交を決意し、寛永16年(1639年)に、オランダ商館長のフランソワ・カロンを通して、台湾経由でも中国産の生糸を確保できることを確認、そして、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた命令(第五次鎖国令)を発布した。寛永18年(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させた(ただし、「鎖国」という概念や言葉が生まれるのは19世紀になってからである)。
これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。前述のように長崎奉行(竹中重義)に切腹を命じたのも、島原の乱の責任を問うとして大名(松倉勝家)を切腹ではなく斬首に処したのも江戸時代で唯一の処置であり、改易でも50万石以上の大名(徳川忠長・加藤忠広)を改易に処した将軍は家光が最後であった。
寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(後の4代将軍・家綱)が生まれた。寛永11年(1634年)に家光は30万の軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による院政を認めて紫衣事件以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図った。通説では、その後徳川家茂の時代までの200年以上にわたって将軍の上洛は行われなかったとされているが、実際には家光存命中に何度か上洛計画があったことが判明している[2]。
ところが幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。更に正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた。正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した[注 2]。
慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去する。享年48・満46歳没。
家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次、内田正信らが殉死している。遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。
※日付=旧暦
第108代後水尾天皇の中宮として、家光の同母妹である和子(東福門院)が入内した。家光は和子の息子(家光の甥)の高仁親王の立太子および即位を望んだが、親王はわずか3歳で夭折してしまう。そこで、和子の娘である女一宮興子内親王が第109代明正天皇として即位した。このことにより徳川家は皇室の外戚となり宮中にも強い影響力を持つようになった。
また、摂関家の九条道房に鶴姫(実際には姪)を、一条教輔に通姫を、それぞれ養女として嫁がせる等して朝廷内における権力の基盤も固めた。
秀忠の死後、前代からの年寄(老中)である土井利勝、酒井忠勝、酒井忠世が引き続き年寄となったが、家光はそれまで年寄一人ができたことも、年寄3人での合議がなければ将軍への披露を認めないことにした。そのため政務は渋滞を来たし、諸大名が幕府にちょっとした進物を出すこともままならなくなった。寛永16年(1634年)には制度を改め、年寄3人の担当を月番制とし、六人衆(若年寄の前身)をその補佐として置いた。当初はこの制度は円滑に動いていたが、後に年寄達が案件を翌月に先送りするようになり、さらに渋滞を招いた。
その後、六人衆から松平信綱や阿部忠秋らが老中となり、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみ扱う大老となった。また、目付と大目付を設置し、年寄達を通さずに直接将軍が情報を掌握できるように御側配下に機関を設けるなど[3]、幕府の諸役職は家光の時期に定まっている。
家光は若い頃は男色家だった為に女性に興味を見せなかった。その行く先を懸念した家臣たちの計らいで、美女と対面する機会を増やされたことで女性にも興味を見せ、側室のお振の方が長女千代姫を産んだのを皮切りに、幾人もの側室を寵愛した。
『当代記』には出生時に10ヶ月に満たないが安産とあり、早産だった。
家光は病気になると布団を5、6枚かぶり、厚着をして寝るという養生法を行なっていたため、かえって病気が悪化することもあった。医師たちが意見をすると激しく怒り、処罰する寸前に至ることもあった。山本博文は精神の重圧が招いた不安神経症ではないかと推測している[8]。
寛永5年(1628年)には瘧(マラリア)を発病し、その快復直後、6月に脚気を発病した。この後毎年春から秋にかけて脚気に頻繁に悩まされるようになる。死去する慶安4年(1651年)の1月には胸が圧迫されるとの症状を訴えており、脚気衝心とみられる[9]。
慶安4年(1651年)4月19日、家光は献上品の茶碗を見ていたところ、突然震えが止まらなくなり、そのまま倒れた。そして意識が戻ることがないまま、翌4月20日にそのまま薨去した。死の直前より歩行障害も生じていたと言われることから、死因は脳卒中だったと考えられている[10]。
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成人した3人の男子のうち、長男・家綱が次の4代将軍となり、三男・綱重は甲府藩主、四男・綱吉は館林藩主にそれぞれ封じられてこれを御両典(ごりょうてん)といった。御両典はともに25万石を領し、正三位参議で、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて御三家に次ぐ高い家格を持ったが、藩主は江戸定府で、綱重は桜田御殿に、綱吉は神田御殿に、また綱重の子・綱豊は御浜御殿に居住した。御両典を定府としたのは、家綱に対する控えの存在としての意味合いを含むものだったと考えられるが、実際その家綱が子をなさずに死ぬと、綱重は早世していたので、5代将軍となったのは綱吉だった。そしてその綱吉も男子なく死ぬと、6代将軍となったのは綱重の子である綱豊(徳川家宣)だった。
(*[ ]内は初名または別名。)
※寛永15年(1638年)・家光体制成立時
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