豊臣完子

安土桃山時代から江戸時代前期の女性。九条幸家の正室。従二位 ウィキペディアから

豊臣 完子(とよとみ さだこ / とよとみ の さだこ) / 羽柴 完子(はしば さだこ、文禄元年(1592年)1月もしくは2月 - 万治元年8月18日[1]1658年9月15日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性豊臣秀勝の娘で、母は[2]九条幸家正室[3]従二位。院号は天真院。豊臣秀頼の義姉・従姉・従姪、千姫徳川家光徳川忠長徳川和子(東福門院)らの異父姉、明正天皇の伯母にあたる。

生涯

文禄元年(1592年)1月ないし2月24日に誕生(『以貴小伝』)[4]。ただし、生年に関しては異論もある(後述)。初名は不明である。

同年10月14日、文禄の役で父・秀勝が病死する[5]

文禄4年(1595年)、母・江が徳川秀忠と再々婚したことで、伯母・淀殿に引き取られる[6]。淀殿は彼女を実の子として大切に養育したというが、おそらく相続の問題で『慶長日件録』では養子ではなく猶子と記録されている(猶子は相続の権利が発生しないので普通は名前のみの養子と捉えられる)。

慶長9年(1604年)6月3日、九条忠栄(後の幸家)に嫁ぐ[6]。この婚儀の直前に完子の乳母が没していることが記録されている。婚儀に際しては淀殿が万事整え、京の人々を驚かせている。その華やかさは興正寺の夫人や娘たちが「九条家嫁娶見物」するほどであった。また義弟の秀頼名義で豪華な九条新邸を造営している。

慶長13年(1608年)12月26日、忠栄が関白に任官し、完子は北政所となる。なお、「完子」というはこのとき選定されたものと考えられる。

慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡して以降は、母の嫁ぎ先である秀忠の養女となっている。完子の母が徳川家に縁づいていたことから、忠栄は徳川の世になっても公家武家の貴重な仲介役になった。

万治元年(1658年)、67歳で死去した。

一族

備考

織田秀信との婚姻説

  • 『勢州軍記』には完子の父である秀勝の死後、織田秀信(三法師)が秀勝の娘を娶って岐阜城を継いだと書かれている。この秀勝の娘について、完子を充てる説があったが、通説では秀勝の没年に彼女が生まれていたとされているため、この説は否定的である。
  • 一方、黒田基樹は信長の嫡孫である秀信が秀勝にゆかりのある娘を娶って岐阜城を継ぎ、更に羽柴家の縁戚になることは理屈としては成立するとした上で、完子の生年に関する通説は、その前提として豊臣秀勝と江の婚姻について記した『兼見卿記』の天正13年10月20日条の記事を一部の研究者が「織田信長の子で秀吉の養子になっていた羽柴秀勝が天正13年12月に没していて、その後継者とされる豊臣秀勝が羽柴秀勝存命中に「秀勝」を名乗り出ることはない」として否定した影響が大きいものの、最終的には2人の秀勝が同時に存在していたことが確定したために『兼見卿記』の記載は間違いではなかったという結論で落ち着いており、『兼見卿記』の誤りを前提として支持されてきた完子の文禄元年誕生説も疑問が持たれるべきだとしている。その上で秀勝と江が天正13年10月に婚儀を挙げているならば、天文15年頃には既に子供が存在していても不自然ではなく、完子本人もしくは何らかの事情で後世の記録に残らなかった彼女の姉が同年頃の生まれで、父の死を契機として6歳前後で秀信に嫁ぐことになったのではないかとしている。秀信は関ヶ原の戦いの敗戦後、改易されて高野山へ送られているため、仮に完子が秀信の妻であったとしても秀信改易後に離縁されて実家(この場合は猶母である淀殿の元)に戻された上で後日改めて九条家に嫁がせたと考えれば、矛盾は生じないとしている[7]

その他

登場作品

脚注

参考文献

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