Loading AI tools
日本の江戸時代の大名。甲斐甲府藩主。徳川家光の三男。正三位参議、贈正一位太政大臣征夷大将軍 ウィキペディアから
徳川 綱重(とくがわ つなしげ、正保元年〈1644年〉5月24日 - 延宝6年〈1678年〉9月14日)は、江戸時代前期の大名。甲斐国甲府藩主[1]。江戸幕府第6代将軍・徳川家宣の父、第3代将軍・徳川家光の三男[注釈 2]、第4代将軍・徳川家綱の弟、第5代将軍・徳川綱吉の兄[1]。母は側室の夏(順性院)、養母は伯母の天樹院(千姫)、乳母は松坂局。
母・夏が綱重を身ごもった際、家光は厄年にあたっており、災厄を避けるために姉の天樹院を養母とした。
家光が亡くなる直前の1651年(慶安4年)4月、甲府藩15万石に封じられ、江戸・桜田の屋敷に住んだ[1]。所領は甲斐国・武蔵国・信濃国・駿河国・近江国に散在した。その後、参議に補任がなされ、その唐名から甲府宰相の異名で呼ばれる。
1654年(承応3年)、別邸・甲府浜屋敷(後の浜離宮)が建築される[2]。
1661年(寛文元年)、10万石加増され、計25万石を領した[1]。1662年(寛文2年)、長男・虎松(のち綱豊、家宣)が誕生した。
1678年(延宝6年)、兄・家綱に先立って35歳で死去した。
墓所は東京都港区増上寺。法名は、清揚院殿圓譽天安永和大居士。
弟・綱吉が後に第5代将軍となったが、子がなかったため、綱重の長男・綱豊が綱吉の養子となり、家宣と改名して第6代将軍となった。
関孝和を抱えるなど学問に理解があり、甲府に湯島聖堂と同様の聖堂を作ろうとした。綱重自身が甲斐へ赴いたことはないが、綱重期には在国の家臣団が主導し、釜無川の治水における徳島堰の開削などが行われた。
『武家勧懲記』によれば「綱重卿ハ自然ト権威備リ、剛勇有テ物毎好悪ノ意地ナク、行跡悠然トシテ、聡明叡智ノ御器量タリ」と評されている。
※日付は旧暦
※参考資料=系図纂要、大日本史料総合データベース
徳川綱重 贈征夷大将軍の辞令(宣旨) 章弘宿禰記
故權中納言源朝臣綱重 權右少辨藤原朝臣永資傳宣 權中納言藤原朝臣共方宣 奉 勅宜被贈征夷大將軍者 寳永七年八月廿三日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘 奉
(訓読文)
故権中納言源朝臣綱重 権右少弁藤原朝臣永資(日野永資、正五位下)伝へ宣(の)る 権中納言藤原朝臣共方(梅小路共方、従二位)宣(の)る 勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、宜しく征夷大将軍を贈らるるべし者(てへり) 宝永7年(1710年)8月23日 修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、正五位上)奉(うけたまは)る
1959年に移転改築された際、6月から9月に遺体の調査が行われたが、四肢骨から推定した身長は160.1センチメートルであった。この調査については、鈴木尚の『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』を参照。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.