館林徳川家
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館林徳川家(たてばやしとくがわけ)は、江戸時代前期に存在した大名家。館林宰相家、館林家とも。上野国館林藩主家(館林城主)。石高は25万石。江戸幕府3代将軍・徳川家光の四男・徳川綱吉を初代とする親藩で、綱吉の子・徳松までの2代続いた。官位が右馬頭(徳松は夭折のため無官)であったことから、左馬頭に任じた甲府徳川家と並び御両典(「典」は典厩、すなわち左馬頭の唐名)として、御三家に次ぐ高い家格をもっていた。
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略歴
寛文元年(1661年)8月に綱吉が上野館林藩主となり、25万石を賜ったのに始まる。1680年5月、綱吉は嗣子のない兄の4代将軍・家綱の養嗣子となって江戸城二の丸に入ったため、藩主には子・徳松が就いた。同月家綱が死去して綱吉が将軍となり、綱吉の将軍就任に反対した大老・酒井忠清が失脚し、徳松は綱吉の世子と定められて江戸城西の丸に入ったため(のち夭折)、館林藩領は幕府直轄領に編入され、館林徳川家は2代で廃絶した。
歴代当主
館林徳川家の家臣団
寛文3年(1663年)- 4年頃の主な家臣は以下の通り[2]。
- 年寄衆(家老)
- 室賀正俊(下総守) - 6000石。
- 曽我包助(伊賀守) - 5000石。
- 本庄道芳(宮内少輔) - 4000石。綱吉生母・桂昌院の異母兄
- 黒田用綱(信濃守) - 3000石。
- 杉浦政清(大隅守) - 3000石。
- 奏者衆
- 牧野成貞(兵部) - 2500石。
- 館林城代
- 大久保忠辰(荒之助) - 3000石。
- その他
脚注
関連項目
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