後鳥羽天皇
日本の第82代天皇 ウィキペディアから
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後鳥羽天皇(ごとばてんのう、旧字体:後鳥羽󠄀天皇、1180年8月6日〈治承4年7月14日[1]〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉[2][3])は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。諱は尊成(たかひら・たかなり)。
後鳥羽天皇 | |
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即位礼 | 1184年9月4日(元暦元年7月28日) |
大嘗祭 | 1184年12月22日(元暦元年11月18日) |
元号 |
寿永 元暦 文治 建久 |
時代 | 鎌倉時代 |
摂政 |
近衛基通→松殿師家→近衛基通 →九条兼実 |
関白 | 九条兼実→近衛基通 |
先代 | 安徳天皇 |
次代 | 土御門天皇 |
誕生 |
1180年8月6日(治承4年7月14日)午時 五条町亭 |
崩御 |
1239年3月28日(延応元年2月22日) 隠岐 |
大喪儀 | 1239年6月19日(延応元年5月16日) |
陵所 | 大原陵、隠岐海士町陵(火葬塚) |
漢風諡号 |
顕徳院 1239年5月(延応元年)諡号勅定 |
追号 |
後鳥羽院 (後鳥羽天皇) 1242年8月5日(仁治3年7月8日)追号勅定 |
諱 | 尊成 |
別称 |
良然(法名) 隠岐院 |
元服 | 1190年2月9日(建久元年1月3日) |
父親 | 高倉天皇 |
母親 | 坊門殖子(七条院) |
中宮 | 九条任子(宜秋門院) |
子女 | 下記参照 |
皇居 |
平安宮 閑院 大炊御門殿 |
高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。
文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。
寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。尊成親王(後鳥羽天皇)の生母・坊門殖子(七条院)の継母は平清盛の娘であり、親王の乳母・藤原範子(刑部卿三位局)の夫である能円は清盛の妻・平時子の異父弟であるため、平家が尊成親王を西国に連れていく可能性があった。事実かどうかは判断できないものの、『平家物語』にも能円が妻と親王を連れて落ちようとした際に範子の弟である藤原範光に阻止されて能円一人で落ちていく場面がある[4]。これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題その他政務の停滞を解消するために、安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は、再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条。ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)。10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。
新帝の候補者としては義仲が北陸宮を推挙していたが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めた。これは丹後局の進言を容れたものだという。安徳天皇の異母弟のうち、尊成の同母兄でもある守貞親王は乳母が平知盛正室の治部卿局であったこともあって安徳天皇と共に平家に西国に連れ出され、惟明親王は法皇の側妾坊門局の姪を母親としていたが唯一の後見人と言える法皇の寵臣平信業(坊門局の兄で親王の大伯父にあたる)が既に死去していたことで候補から消えたと考えられている[5]。
8月20日、尊成親王は後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し(後鳥羽天皇)、その儀式は剣璽渡御を除く譲国の儀に倣って行われた。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、やはり剣璽なきまま行われた。
安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位したため、寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)までの2年間は両帝の在位期間が重複する。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収できず、文治3年(1187年)9月27日に佐伯景弘から宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上終結した。建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀も剣璽を欠いたまま行われた。その後は、平家都落ちの直前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として当面の間宝剣の代用とすることになり、建久9年(1198年)の土御門天皇への譲位もこれで乗り切った。そして承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、後鳥羽上皇はこの形代の剣を以後は正式に宝剣とみなすこととした。それでも2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使の藤原秀能を今一度西国に派遣して宝剣の探索にあたらせている。
皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま登極した後鳥羽は、このことが耐えがたいコンプレックスとなって苛まされ続けたであろうことは想像に難くない[注 1]。また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[注 2]。後鳥羽はこのひけめを克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[8]。
建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いた。後白河院の崩御後は関白・九条兼実が朝廷を主導した。兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、後に頼朝の娘の入内問題から後鳥羽天皇と関係が疎遠となった。これは土御門通親や丹後局の策謀によるともいわれる。建久7年(1196年)、通親の娘に皇子が産まれたことを機に政変が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子も中宮の位を奪われ、宮中から追われた(建久七年の政変)。この政変には頼朝の同意があったともいう。また兼実の過度な権勢や院近臣家出身の国母七条院(藤原殖子)に対する無礼などが後鳥羽天皇の怒りと不信を招いた面もあったとみられる。
建久9年(1198年)1月11日、土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り太上天皇として院政を敷く。上皇になると通親をも抑え、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採る一方で、正治元年(1199年)の頼朝死後も台頭する鎌倉幕府に対しては融和的な姿勢で応じた。建仁元年(1201年)に京で挙兵した城長茂による幕府追討宣旨の要求も拒否し、逆に幕府の要求により長茂追討宣旨を下している(建仁の乱)。
建仁2年(1202年)に兼実が出家し、通親が急死した。既に後白河法皇・頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。翌年の除目は上皇主導で行われ、藤原定家は「除目偏出自叡慮云々」と記している(『明月記』建久3年1月13日条)。また、公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」(『明月記』建暦元年8月6日条)と評している。
建仁3年(1203年)に比企能員の変で将軍源頼家が失脚し、幕府が頼家は死去したと偽って弟千幡の将軍就任を要請してくるとそれを認め、上皇が自ら「実朝」の名乗りを定めた(『猪隈関白記』建仁3年9月7日条)。後に頼家は存命であることがわかるが不問に付しており、幕府の実権を握る北条時政と友好関係を築いて、京都守護として上洛した時政の娘婿の平賀朝雅を厚遇し、元久元年(1204年)に伊勢国・伊賀国で起こった三日平氏の乱平定の命を受けた朝雅を伊賀国知行国主に任じている。さらに朝雅を院の殿上人として重用した。
元久2年(1205年)に幕府で牧氏事件が起こり時政が失脚すると、幕府の実権を握った北条政子・義時姉弟からの命令で朝雅は在京御家人に追討された。寵愛する朝雅が幕府側の事情で討たれたことに衝撃を受けた上皇は、それを機にそれまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置して独自の武力を編成することを企図し始めたとする説がある。
建永元年(1206年)、上皇の熊野詣中に院の女房たちが法然門下の遵西・住蓮の東山鹿ヶ谷草庵で念仏法会に参加し出家して尼僧となった。この事件に怒った上皇は、承元元年(1207年)に専修念仏を停止して法然・親鸞らを配流している(承元の法難)。
牧氏事件の後は実朝を取りこむことで幕府内部への影響力拡大を図った。実朝は上皇の従妹でもある上皇の寵臣坊門信清の娘西八条禅尼を正室に迎えており、上皇もまた信清の娘坊門局を后妃の1人としていたため、上皇と実朝は合婿の義兄弟関係となっていた。実朝自身も上皇を敬愛する人物だったため、朝幕関係は一時安定期を迎える。やがて幕府は子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる親王将軍の構想を打ち出したが、建保7年(1219年)に実朝が甥の公暁に暗殺されたことでこの関係にも終止符が打たれ、親王将軍も上皇は拒絶した。『愚管抄』では上皇は日本を2つに割ることになると危惧したとしている。幕府は重ねて親王の下向を要請したが、それに対して上皇は寵姫である亀菊の所領荘園の地頭廃止を要求した。幕府はこれを拒否して、北条時房に千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、上皇も幕府も態度が強硬で交渉は不調に終わった[注 3]。ただし上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示したため、幕府はやむなく親王将軍をあきらめ、頼朝の妹の曾孫にあたる九条道家の子である三寅(後の藤原頼経)を4代目の鎌倉殿として迎え入れた。
三寅が鎌倉に下向して間もなく大内守護である源頼茂が上皇の命を受けた在京武士に襲われ、内裏の仁寿殿に籠って自害を遂げ、その際の火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失した。この原因については、頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や頼茂が上皇の討幕の意図を知ったからとする説、後鳥羽院政下における廷臣同士の権力闘争が原因とする説など諸説ある。上皇は堀川通具を上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課した。だが、それに対する反発は予想以上に強く、公家・武家・寺社を問わず何らかの理由を付けて賦課を拒否する者が続出した。この再建が承久の乱以前に完成したのか、乱によって中絶したのかについては定かではないものの、この内裏再建が朝廷主導による内裏造営の最後のものとなった[11]。なお、翌年の承久の乱に関係するのか前年に藤原定家への勅勘があり、また前年から当年にかけて熊野詣をしており、摂津の南境の止止呂支比売命神社西北に行宮跡が残されている。
承久3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時追討の官宣旨と院宣[注 4]を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こした[注 5]が、幕府の大軍に完敗。わずか2か月あと7月13日、19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島、現海士町)に配流された。父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。さらに、在位わずか3か月足らずの懐成親王(仲恭天皇、当時4歳)も廃され、替わって後鳥羽の同母兄行助入道親王(守貞親王)の子である茂仁王が皇位に即き(後堀河天皇)、皇位を践んでいない行助入道親王が法皇として治天として院政を執ることになった(後高倉院)。
後鳥羽院は隠岐に流される直前に出家して法皇となった。『明月記』の記録によると、文暦2年(1235年)の春頃には摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院の還京を提案したが、北条泰時は受け入れなかった。
四条天皇の御代の延応元年(1239年)2月22日、配所にて崩御した。宝算60。同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られた。『平戸記』によると泰時が死亡した仁治3年(1242年)の6月に、九条道家が追号を改めることを提案し、あらためて「後鳥羽院」の追号を贈ることとなった[16]。ただし、これを提案したのは土御門定通とする説もある[17]。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月には正式に院号が「後鳥羽院」とされた。
後鳥羽院(ごとばいん/ごとばの いん)は中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えている。
院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物だった藤原定家の歌風に憧憬の念を抱いていたらしく、正治2年(1200年)7月に主宰した正治初度百首和歌では、式子内親王・九条良経・藤原俊成・慈円・寂蓮・藤原定家・藤原家隆ら、九条家歌壇の御子左家系の歌人に詠進を求めている。この百首歌を機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩してゆく。同年8月以降、正治後度百首和歌を召す。対象となった歌人は飛鳥井雅経・源具親・鴨長明・後鳥羽院宮内卿ら院の近臣を中心とする新人。この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせており、これが後に九条家歌壇、御子左家の歌人らとともに代表的な新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となる。
2度の百首歌を経て和歌に志を深めた院は勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年(1201年)7月には和歌所を再興する。寄人は藤原良経、慈円、土御門通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信、藤原有家(六条藤家)、源具親、藤原雅経、鴨長明、藤原秀能の14名(最後の3名は後に追加)、開闔(かいこう)は源家長である。またこれより以前に未曾有の歌合・千五百番歌合を主宰した。当代の主要歌人30人に百首歌を召してこれを結番し、歌合形式で判詞を加えるという空前絶後の企画だったが、この歌合は、新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長などの面から見ても日本文学史上大きな価値を持つ。さらにこのような大規模な企画を経て、同年11月には藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進がはじまった。同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったことも明らかになっている。
また、室町時代の皇族貞成親王(後花園天皇実父)が著した日記『看聞日記』応永31年2月29日条(高松宮家旧蔵本)には後鳥羽院の宸記(日記)のうち、建保3年5月15日・19日および11月11日条の一部が引用されている。そこには、院が御忍びで地下連歌の席に出向いて、当時自らが出していた銭禁令(宋銭禁止令)に反して銭を賭けて勝利したこと、後日このことを「見苦し」としながらも再び連歌で賭け事をしたことが記されている[18]。
後白河法皇の崩御後は自ら親政および院政を行ったが、治天の君として土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立て、その子孫に皇位継承させたことには、貴族社会だけでなく他の親王たちからの不満も買った。また三種の神器を欠いた即位の経緯も不評を買った。専制的な暴政や無謀な挙兵計画に対しては、院の側近以外の貴族たちは冷ややかな対応に終始した。このため、承久の乱後においては、幕府の政治的影響力の拡大を差し引いても後鳥羽院に同情的な意見は少なく、『愚管抄』・『六代勝事記』・『神皇正統記』などはいずれも、「院が覇道的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった」と手厳しいものがあった。
寛元2年(1244年)には後鳥羽上皇の追善八講が公家沙汰(朝廷主催の行事)に格上され、宝治2年(1248年)には後嵯峨上皇が後鳥羽上皇が定制化したものの承久の乱で中絶した院御所最勝講を先例として復活させた。これは、土御門天皇系の後嵯峨上皇(天皇)が皇位継承を巡って緊張関係にあった順徳天皇系の忠成王(仲恭天皇の弟)に対抗するために、土御門系が後鳥羽上皇(天皇)の正統な後継者であることを主張する必要があり、その前提として後鳥羽上皇の名誉回復を進める必要があったためである。これは、忠成王支持派を抑えて後嵯峨天皇即位を強行した鎌倉幕府の暗黙の了承の上での行為であった[19]。もっとも、後鳥羽上皇の崩御後に追善八講を行って来た修明門院(忠成王は彼女に養育されていた)はこの方針に反発し、修明門院が薨去する文永元年(1264年)まで、法要の主導権を巡る両者の対立が続いた[20]。なお、後鳥羽上皇が一度は拒絶した宮将軍の構想が、後嵯峨上皇の院政下で実現した(初代の宮将軍は後嵯峨上皇皇子の宗尊親王)背景には、後鳥羽上皇(天皇)の正統な後継者を巡る土御門系と順徳系の争いにおける土御門系の巻き返し工作の一環であったとする説が浮上している[21]。
一方、鎌倉幕府滅亡後には、歌人としての後鳥羽院を再評価しようとする動きも高まった。『増鏡』における後鳥羽院はこうした和歌をはじめとする「宮廷文化の擁護者」としての側面をより強調している。
古今著聞集によれば(巻12、偸盗)、交野八郎と呼ばれる強盗の親玉がおり、後鳥羽上皇みずから船を召し西面の武士を指揮して、今津(琵琶湖の今津[22])で召し取りになられた。そのさい西面の武士の囲いをたやすく逃げ回っていたものの、上皇みずから櫂を取られたところ、八郎はたやすく捕らえられた。のち水無瀬殿に引き出して上皇が問うたところ「捕まったのは、上皇が船をこぐ櫂をあたかも扇のように扱うのを見て運が尽き力が失せたためです」と応えたという。のち許されて中間として仕えたという[23][24]。
配流後の嘉禎3年(1237年)に後鳥羽院は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記した[25]。また同時代の公家平経高の日記『平戸記』には、延応元年(1239年)2月の後鳥羽院の死後、同年12月における三浦義村および翌延応2年(1240年)1月の北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、仁治3年(1242年)の北条泰時の死についても同様に後鳥羽院の怨霊による祟りではないかという風聞が流布しており、後鳥羽院は怨霊と化したと見られていた[26]。顕徳院から後鳥羽院への追号の変更はそうした怨霊説の払拭の意味もあったと考えられているが、別の角度からの見方として怨霊説は後鳥羽院が生前に志向していた順徳天皇系による皇位継承には有利な言説で、土御門天皇系である後嵯峨天皇の即位に対する批判の根拠に成り得たからとする説もある[27]。
また『吾妻鏡』には宝治合戦直前の宝治元年(1247年)4月25日に鶴岡八幡宮の北西の山麓に後鳥羽院の怨霊を慰撫するための寺社を創建したという記事があり、『神明鏡』では前年の寛元の政変が後鳥羽院の怨霊の仕業であることを恐れて祀ったものだと、『皇代暦』では将軍九条頼嗣の妻で執権北条時頼の妹である檜皮姫の発病について託宣があり後鳥羽院を祀ったものだとある[28]。『吾妻鏡』が成立した13世紀末から14世紀初めの頃には後鳥羽院は水無瀬の御影堂に祀られていたが、依然として盛んに託宣が下り、祟りを成し続けていたという[29]。
刀を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられる。また自らも焼刃を入れそれに十六弁の菊紋を毛彫りしたという。これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶ。皇室の菊紋のはじまりである。
77 後白河天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
78 二条天皇 | 以仁王 | 80 高倉天皇 | 亮子内親王 (殷富門院) | 式子内親王 | 覲子内親王 (宣陽門院) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
79 六条天皇 | 某王 (北陸宮) | 81 安徳天皇 | 守貞親王 (後高倉院) | 82 後鳥羽天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
86 後堀河天皇 | 83 土御門天皇 | 84 順徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
87 四条天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 85 仲恭天皇 | 忠成王 (岩倉宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
法華系の一部の著作では日蓮が後鳥羽の皇胤であるとするものもあるが、同時代にはそのような史料がなく、史実とは見られていない。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵(おおはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造十三重塔。
また、島根県隠岐郡海士町には隠岐海士町陵(おきあまちょうのみささぎ)と通称される火葬塚がある。遺骨の大部分は今の火葬塚に納められたが、明治6年、明治天皇の命により大阪の水無瀬神宮に合祀された。明治7年、祠殿は取り壊され、山陵はその後、第82代後鳥羽天皇御火葬塚として、宮内庁で管理されている[30]。
広島県三次市作木町香淀大山にも「天皇山」と呼ばれる山があり、後鳥羽院御陵と呼ばれる陵が存在し、同じく三次市作木町香淀川毛には後鳥羽院尊儀という角石塔が伝えられている(後鳥羽伝説)[31]。
佐賀県神埼市脊振町の鳥羽院地区にも隠岐島を逃れた後鳥羽院が潜幸し、この地で没したとの伝承があり、行宮とした教心寺(昭和20年代に現在の「善信寺」と改名)の裏手には、後鳥羽院の山稜と伝えられる墳墓「後鳥羽上皇山稜」がある。大正元年の調査では蓋石裏に「御白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれた石棺が発見され、当時の宮内省にも報告された[32][33]。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、大阪府三島郡島本町にあった水無瀬離宮の跡は水無瀬神宮となり、後鳥羽院が祭神として祀られている。そのほか、宝治元年(1247年)に鶴岡八幡宮敷地内に建立された今宮は、後鳥羽院を主神とし、順徳院、土御門院、護持僧の長賢を合祀している。
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