Loading AI tools
滋賀県彦根市にある城 ウィキペディアから
彦根城(ひこねじょう)は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)[1]にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つでもある(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。彦根八景・琵琶湖八景に選定されている。
江戸時代初期、現在の彦根市金亀町にある彦根山に鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治時代初期の廃城令による破却を免れ、天守が現存する。天守[注 1]と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟[注 2]が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。
天守が国宝指定された5つの城の一つに数えられる[注 3]。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたものの、近年の世界遺産登録の厳格化により、20年以上推薦が見送られている。
滋賀県は廃城令で解体された城が多く、彦根城は県内唯一の保存例である(歴史・沿革を参照)。
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという[2]。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山に彦根城の築城を開始した。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩により第3期工事が開始され、御殿が建造された。1622年(元和8年)、すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後も井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。
彦根城を築くにあたり、大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却し、城の建設物に利用したとされる。結果として彦根藩には彦根城しか残らず、大老も出す譜代筆頭の井伊氏が諸大名に一国一城令を守る手本を示した格好になった。筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。徳川統治下の太平の世においては、城郭は軍事施設としての意義を失い、彦根城も西国大名の抑えのための江戸幕府の重要な軍事拠点から、藩政や年貢米の保管の場所となり、天守や櫓は倉庫等として使われた。
1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。
幕末に大老を務めた井伊直弼も、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。直弼がその時に住んだ屋敷は、「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している[注 4]。
明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となったが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持された。しかし、老朽化のため民間へ売却されて破却される予定となったが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果、天守や櫓の保存が決定し、皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存された[3]。
城の形式は連郭式平山城。本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置された。御殿は二の丸に置かれた。本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられた。山崎曲輪三重櫓は明治初期に破却された。なお、城の北側には玄宮園と楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。玄宮園、楽々園はかつて松原内湖(戦中・戦後に干拓)に面しており、入江内湖も望める絶景であった。
なお、現存例の少ない築城の技法でもある「登り石垣」が良好な形で保存されている。この石垣は、天秤櫓の向かって右が牛蒡積み(野面積みの一種)、向かって左が落し積みとなっている。
琵琶湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう。)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であった。このため戦略拠点として古くから注目され、壬申の乱(672年(白鳳元年))、姉川の戦い(1570年(元亀元年))、賤ヶ岳の戦い(1583年(天正11年))、関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))など古来多くの合戦がこの周辺で行われた。織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。また豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ重臣の石田三成と井伊直政をこの地に配置している。又、当時の廓は総構え以外は全て現存しているも、当時は城のそばまで琵琶湖の水が引き寄せていたが都市開発の為に埋め立てられた。
彦根城は西国大名の防衛のための城であったため、防御のための工夫がされている。狭間は外から見えないように作られ、階段は敵を上から突き落せるように急角度(最大62度)であり、また蹴って落とせる構造である。
彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城の天守をはじめ、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門などが移築されたという伝承が多い。建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に建物の移築の伝承がある。
天秤櫓は、長浜城から移築したといわれ、時代劇の撮影にも使われる。[注 12]。堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、天秤ばかりのような独特な形状である。
通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は3層3階地下1階の複合式望楼型で、「牛蒡積み(ごぼうづみ)[注 13]」といわれる石垣で支えられ、1重目の窓は突上窓、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。大津城天守(4重5階)を5重の江戸城より低くするために敢えて3重に縮小して移築したといわれ[注 14]、昭和の天守解体修理(1957年(昭和32年)- 1960年(昭和35年))のときに、天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されている[34]。天守3階には破風の間という小部屋がある[35]。
かつて天守の南面にそびえていた二層二階の櫓。着見櫓ともいう。月見櫓から西へと方角を変えると、土塀を挟んで二十間多聞櫓が続いていた[36]。この二つの櫓群は山麓の表門から本丸を仰ぎ見ると、天守とともに眺めることができた。
二十間多聞櫓を経た先にある櫓門で、現存。続櫓として多聞櫓を脇に備える櫓門であり、解体修理の結果、場所は不明なものの城郭か寺院の大規模櫓門を縮小・移築したものであることが判明している[2]。櫓部分には勾欄が開口部として備わっており、往時はその名の通り太鼓を置き、周囲に時を知らせていたとされる[37]。なお太鼓門櫓を南にくぐった先は、本丸の中でも特に本丸南腰曲輪と呼ばれる区画となる。
本丸南腰曲輪に存在する櫓。櫓門及び二層二階の櫓2基が多聞櫓によって一体化した形状で、その様が天秤に似ているためこの名がある。井伊家の文書『井伊年譜』には「鐘丸廊下橋多門櫓は長濱大手の門之由但楠木にて造」との記載があり、長浜城から移築された伝承が残る[38][39]。天秤櫓より廊下橋を渡って進むと、鐘の丸という区画になる。
天守北面の西の丸に位置する三層三階櫓、現存。両脇に多聞櫓を備える格式高い造りであり、『井伊年譜』にて「西丸三階櫓は木俣土佐へ御預也、一月に廿日程づつ土佐相詰候由」とあるように、竣工時には彦根藩の筆頭家老木俣家の預かり櫓・勤務地となっていた[37]。小谷城からの移築物とする伝承が残っている[2][38]。
西の丸のさらに北面に位置する山崎曲輪にかつて存在した三層三階の櫓。往時は千鳥破風を備えた三重櫓であり、長浜城の天守を移築したとする伝承があった[40][37]。三重櫓には櫓門として山崎口門が近接していた。山崎口門は彦根城のなかでも最も琵琶湖側に開く門。櫓部分は失われて久しいが、門扉のみ現存している[2]。
彦根城には内城域として佐和口、京橋口、船町口の3つが築かれたが、このうち佐和口に二層二階櫓や多聞櫓が現存する[2]。佐和口多聞櫓は佐和山城からの移築とする伝承があるが[40]、その内部構造から元和年間の創建とする説もある[39]。佐和口付近の堀付近より天守、天秤櫓、佐和口多聞櫓を一望できる。佐和口門跡(非現存)を挟んで、佐和口続多聞櫓が犬走とともに延びており、この部分は復元建築物である[2]。彦根市によれば、屋敷の遺構表示をする計画はあるが建物の木造復元計画はない。なお、彦根市では城下に続く7つの門の1つの長曽根御門を木造復元する計画があるが、現時点では門跡の発掘調査をしている段階である。
この節の加筆が望まれています。 |
城域には彦根城博物館[41]や、開国記念館[42]がある。庭園の玄宮園を含めた内堀より中側への入域は有料(大人800円など)である[43]。
観光客誘致のため、彦根市のキャラクター「ひこにゃん」を毎日登場させている[44]。
以下の作品以外にも、映画やテレビドラマの撮影地として頻繁に使われている。東映京都撮影所や京都映画撮影所から場所が近いことから、姫路城とともに時代劇のロケが頻繁に行われている。姫路城は江戸城の代わりとして用いられる事が多いのに対して、それより小規模な本城は無名の小城という設定での撮影が多い。
井伊直弼が藩主の座に就くまでには、先の藩主やその候補者の多くが夭折(ようせつ)していることから神秘的な物語の舞台に採り上げられることが多い。なお、国宝・彦根城築城400年の開催を機に小説を対象に2007年(平成19年)、舟橋聖一文学賞が創設された。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.