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日本の技術者、実業家 ウィキペディアから
久夛良木 健[注 1](くたらぎ けん、1950年(昭和25年)8月2日 - )は、日本の技術者、実業家。PlayStationの生みの親。
サイバーアイ・エンタテインメント株式会社代表取締役社長[1]、アセントロボティクス株式会社代表取締役CEO[2]、ソニー株式会社シニアテクノロジーアドバイザー。ほか、立命館大学大学院経営管理研究科客員教授、株式会社角川グループホールディングス、株式会社角川マガジンズ、楽天株式会社、株式会社ノジマ、株式会社マーベラスAQL、スマートニュース株式会社の各社で、社外取締役を務める。
1999年4月よりソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の代表取締役社長、2001年の執行役員制導入によりCEOも務めた。2000年からはソニー取締役にも就任し、2003年4月から2005年3月までは、ソニー副社長兼COOを務めた。2006年12月1日付でSCE社長職を退き、SCE代表取締役会長兼グループCEOに就任。2007年6月19日の任期満了を持ってSCEの代表取締役会長兼グループCEOを退任し名誉会長に就任、2011年6月28日に名誉会長を退任した[3]。
1950年、東京都江東区生まれ。父親は福岡県出身で、戦前台湾で新高堂書店という書店を親族で経営、戦後引き揚げ江東区で小さな印刷屋を始めた人物。生まれつき体が弱く「10歳までは生きられない」と言われたこともあったが[4]、回復し、幼少期から家業を手伝っていたという。
1969年に早稲田高等学校を卒業後、2年の浪人生活を経て1971年に電気通信大学電子工学科に入学し、長谷川伸教授の指導で画像処理について卒業研究し、1975年に卒業してソニーに入社する。
ソニー入社後は液晶ディスプレイの研究開発を行なっていたが、当時のソニーはトリニトロンに注力していたため、研究に没頭しつつも成果が出ない不遇の日々を過ごす。液晶を用いた音量バーグラフ装置[注 2]を開発するが、液晶はコストが高すぎるためLEDに差し替えられた。このLED音声バーグラフ装置は、ソニー社外の機器にも広く使われ、出荷量が1000万個を超えるヒット商品となった[5]。その後、2インチフロッピーの研究に携わる中でデジタル信号処理に興味が向かい、まもなくソニーの情報処理研究所に引き抜かれる。同研究所内で業務用のデジタルビデオエフェクタ「システムG」に出会い、これをゲームに転用できないかと考えるようになる。
ディスクシステムのフロッピーが気に食わなかったことから任天堂に売り込みをかける中で、同社とつながりを持つようになる。その後、任天堂へのPCM音源の売込みに成功し、更にはスーパーファミコン向けのCD-ROMアダプタ開発プロジェクトの中心人物になる。さらに紆余曲折を経て、社内ベンチャー・カーブアウトによりSCEを設立し、1994年にPlayStationの発売を実現。その後のPlayStation 2などと併せて、ゲーム業界で記録的な大成功を収めた。任天堂の上村雅之は、任天堂がソニーと音源を共同開発する事に任天堂の社内外で数多上がった反対を押し切り共同開発を推進したが、当時ニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)の社長であった荒川實がそれを危惧、CD-i向けのゲームをフィリップスと共同開発することを土壇場で山内溥に強く進言した[6]事から共同開発は決裂[7]。その結果、PlayStationが生まれる事となった。
1999年にSCEの社長に就任。2003年4月にはソニー本体の取締役およびホームエレクトロニクス・ゲーム・半導体部門を統括する執行役副社長に就任した。しかし、ソニー本体、特にエレクトロニクス部門の不振や自身が推奨し開発したPSXの失敗などが解消できず、2005年3月に副社長を引責退任し、SCEの経営に専念することとなった。
2004年4月には雑誌『TIME』が公表した「世界で最も影響ある100人」に選ばれるものの[8]、そのわずか2年後の2006年6月に、CNNが公表した「重要ではない人物10人」の中の一人として、マイクロソフトCEOのスティーブ・バルマーやLinuxカーネル開発者のリーナス・トーバルズなどとともに選出された[9]。
2005年3月、ロサンゼルスで行われたElectronic Entertainment Expo (E3) でPlayStation 3(外観とスペックのみ)を公開し、SCEがPS3のプレスリリースを出した。
2006年12月、ソニーのハワード・ストリンガー会長によりSCEグループの会長に“棚上げ”され、後任にSCEアメリカ社長の平井一夫がSCE社長兼グループCOOに就いた。
2007年4月26日、ソニーの取締役会に対して辞表を提出する。
2007年6月19日、代表取締役会長兼SCEグループCEOを退任して名誉会長に就き、SCE役員職から退いた。SCEグループCEOとしての最後の仕事はPSP-2000開発であった。
2007年11月26日、ビデオゲームの振興を目指す非営利団体Academy of Interactive Arts & Sciences (AIAS) は久夛良木に「特別功労賞 (Lifetime Achievement Award)」を授与すると発表した。プレイステーションにより、世界中の家庭内エンターテインメントを革新したとして、久夛良木の功績を評価しての受賞となった[10]。
2008年6月22日より、角川グループホールディングスの社外取締役、2009年より角川メディアマネジメントの社外取締役を務める。
2009年4月より、立命館大学大学院の客員教授に就任し、10月にサイバーアイ・エンタテインメントを設立[1] する。
2010年2月から楽天[11]、2011年6月からノジマ、2013年からマーベラスAQL、それぞれの社外取締役を務める。
2016年、デジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤー’15/第21回AMDアワードで功労賞を受賞[12] する。
2018年1月、株式会社GA technologies社外取締役就任[11]。
2019年4月、スマートニュース株式会社社外取締役就任[11]。
2020年8月、アセントロボティクス株式会社代表取締役兼CEO就任[11]。
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