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「桂米助」はこの項目へ転送されています。「桂米輔」とは別人です。 |
ヨネスケ(1948年〈昭和23年〉4月15日 - )は、日本の落語家、タレント、YouTuber。出囃子は『球場へ連れてってヨ[1]』。落語芸術協会所属・参事で、同会における登録名は桂 米助(かつら よねすけ)[2]。血液型はO型。
概要 ヨネスケ, YouTube ...
ヨネスケ |
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YouTube |
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チャンネル |
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活動期間 |
2020年9月 - |
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登録者数 |
3.97万人 |
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総再生回数 |
約1576万回 |
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チャンネル登録者数・総再生回数は 000000002024-10-16-00002024年10月16日時点。 |
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生い立ち
- 千葉県市原郡姉崎町(現・市原市)出身。千葉県立市原高等学校卒業[3]。兄と姉2人の4人兄弟だが、父親がそれぞれ違う複雑な家庭環境で育った。兄とヨネスケは父が同じだが、姉2人はそれぞれ父が違い、ヨネスケには「父親」と呼ぶべき男性が3人いる。
- 本人の弁によれば、兄とヨネスケの父は正妻が待つ別の家庭を持っており、自分の母は妾という立場であったという。事情は不明ながら父は生活費を家には入れず、兄弟が多く女手一つでの生活はとても苦しかったそうである。だが母は文句を一切言わず、父が家に居る時はとても嬉しそうであり、大げさな表現をすれば少女のようにはしゃぎ、子どもながら父をとても愛しているのが分かったという。
- 父についての思い出は、いつも家に居ないが、たまに家に居る時は必ず居間で煙草をゆっくりと吸いながら新聞を読んでおり、とても寡黙な人物だったという。なお、本名の「五六(ごろう)」というのはヨネスケが産まれた時、父親が56歳だったことに由来している[4]。
- 父だという男性については、現在でも本名もどこに家庭があったのかも分からないという。
落語家「桂米助」
- 4代目桂米丸にとっては初となる直弟子である。なお、米丸門下の惣領弟子は、米丸の弟弟子であり、5代目古今亭今輔からの預かり弟子にあたる桂歌丸である。
- 1970年(昭和45年)1月20日に閉館した人形町末廣の最終興行(主任:5代目古今亭今輔)で前座を務めていた[5]。
- 師匠・米丸は米助に稽古を付けることがなかったらしく、米助に初めて稽古を付けたのは当時二ツ目であった兄弟子・歌丸であったという。なお、仮に自分が歌丸の弟子であったならば破門宣告を受けていた可能性があったとも述べている。
- 米助が若手の頃、米丸が米助の弟弟子だけを海に遊びに連れて行き、米助のことは連れて行かなかったことがあった。この件で米助は拗ねてしまい、楽屋内で米丸に挨拶もせず無視したという。この事実は、その場に居合わせた三遊亭小遊三によって後に暴露されている。
- カタカナ表記の「ヨネスケ」になったいきさつについて、本人の弁によると、「米助」という漢字の表記だと、特に関西地方で「ベイスケ」と読まれてしまい、桂米朝門下の噺家であると誤解されることが多かった[注 1]ため、誤読を避けるためにカタカナ表記にしたとのことである。なお、カタカナで名乗ること自体が落語界では前代未聞の事件であったこともあり、関係者とひと悶着があったというが、兄弟子・歌丸は「芸がこなせるのであれば、カタカナで名乗ってもいいのではないか」と理解を示している。
- 『東西芸人いきなり!2人旅』では月亭方正と一緒に那須塩原市を旅行し、方正に対して「落語は“人生”だし、悩んだことが落語として出てくる。落語は他に色々なことをやりながらやった方がいい」などとアドバイスした[6]。
- 自作の得意ネタは、『寝床』を川崎時代のロッテに置き換えた『野球寝床』[注 2]、『天狗裁き』の天狗を長嶋茂雄に置き換えた『長嶋裁き』といった「野球落語」や、自作による『落語禁止法』など。大師匠・5代目今輔が十八番とした『ラーメン屋』『表札』などの新作落語も継承している。ほか『猫と金魚』(田河水泡作)、古典落語の『看板のピン』『壺算』などが得意ネタである。
『笑点』座布団運び
- 『笑点』の座布団運びがテレビデビューだが、出演時の正式な座布団運びは1970年当時人気の女性アイドル・小野千春でサポート役としての出演だった[7]。
- 『笑点』への出演は、当時メンバーであった兄弟子・歌丸の推薦があったから実現できたと後に述べている。
- 現在でも『笑点』には真打・襲名昇進披露に出演することがある。
- 2022年、大喜利レギュラーの三遊亭円楽が脳梗塞で倒れて長期療養となった際に大喜利ゲストとして出演のオファーが来たが、収録当日は既に旭川で仕事が入っていたためやむを得ず断った[8]。その後再びオファーが入り5月1日放送分に出演が叶い、約51年ぶりに大喜利に出演することとなった。
野球・大相撲に対する造詣
- 野球に対する造詣が深く、創作の「野球落語」を披露したり、イベント「ヨネスケの単なる野球好き」を開催している。読売ジャイアンツのファンであるが、会長渡邉恒雄の方針には批判的である。しかし、2004年のプロ野球再編問題では、渡邉の「たかが選手」発言を擁護し、「たしかにたかが選手だし」などと発言した。
- 相撲ファンでもあり、『菊ノ花』という相撲を題材とした創作落語を発表したこともある。千代の山の相撲を見たことが相撲ファンになったきっかけである。2017年9月場所において11勝で幕内最高優勝を果たしたものの金星を4個配給した日馬富士に関し、場所後に「横綱としていかがなものか。もう潔く引退してほしい」とTwitterに投稿したところ、「冗談じゃねぇ! お前こそ落語家を引退しろ!」という返信が山ほど返ってきて炎上したことがある[11]。だが、結果的に日馬富士は数ヶ月後に自身が起こした傷害事件が元で引退し、皮肉にもその被害者も翌年に暴力事件を起こし引退している。
- 『最後の審判』という創作落語を演じた際、マクラで第1回WBCの日本戦における誤審を取り上げたことがある。この時は誤審にはかなり怒っていた様子で、「お袋の戒名は忘れてもボブ・ディビット審判だけは忘れない」とぶちまけた[12]。
- ウラディミール・バレンティンが2013年シーズンに記録したNPBシーズン記録である60本本塁打を「この前の取材でも答えましたが、バレンティンの記録更新には何も思いません。なぜなら飛ぶボールで出した記録だから。どうせなら100本くらい打って欲しいですね。飛ぶボールで。王さんの記録と記憶は一生語り継がれていくものですから」とTwitterで否定したことから、多くの野球ファンから猛反発を受けた[13]。
「鷲塚与太八郎」
- 寄席では「鷲塚 与太八郎(わしづか よたはちろう)」と名乗ることがある。
- 真打・襲名披露口上の司会を務めた際には、同席した落語家を「架空の外国人名[注 3]」で紹介することがあり、本人は「これだけが楽しみなんだ」としている。
駅弁
- 日本全国で仕事をしている関係で駅弁・空弁を食べることが多く、2008年に開始したブログでそれらを批評している。味、彩り、価格の面など多面的に評価し最後に点数をつけているが、辛口評価を下すことも多い。
DVD
- 桂米助の野球落語 Vol.1 『野球寝床』『最後の審判』(2006年4月、テイチクエンタテインメント)
- 桂米助の野球落語 Vol.2 『沢村栄治物語』(2006年9月、テイチクエンタテインメント)
- 桂米助の野球落語 Vol.3 『天覧試合』(2007年2月、テイチクエンタテインメント)
- 桂米助の野球落語 Vol.4 『奥様は迷コーチ』『長嶋裁き』(2007年9月、テイチクエンタテインメント)
注釈
実際に入門年はヨネスケよりも下になるが、米朝門下に同じ読みの「桂米輔」という落語家が存在する。
演じるにあたり球場名や対戦カードは現在のものに置き換えているが、客入りの表現などは現実と合わない部分がある。
例を挙げると6代目円楽の襲名披露の際には同席した春風亭昇太・桂歌春と三遊亭小遊三について、前者2人は「キム・イルヨン」、小遊三は「ナンシー・ベン」や「モロゾフ・スコロビッチ」と紹介していた。
ただし、それ以前も不定期ゲストとして出演していた。
高田が過労による体調不良で倒れ、病院に搬送されて入院。その間の代打として、番組のパーソナリティを務めた。
出典
ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』131ページ
週刊文春 2006年6月1日 p.142~146「阿川佐和子のこの人に会いたい(第632回)」