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刃物、鈍器、弓矢・投石・銃器の射撃などから身を守るための防具 ウィキペディアから
盾(たて、楯、英: shield)は、刃物による斬撃や刺突、鈍器による打撃、および弓矢・投石・銃器の射撃などから身を守るための防具。
ルネサンス後期には鉄製が現れたが、ほとんどは木製で、革製のものもよく使用された。古い時代には青銅製もあり、重量が大きかった。通常は縁を補強するが、バイキングはこれをせず材質も柔らかい木材を使った。相手の剣を盾で受け、刃が食い込んで動きがとれなくなった一瞬を狙う目的があった。現在は、ジュラルミンやポリカーボネート製の盾がある。
古代ギリシアや、それを源流とするヘレニズム文化圏では、ホプロンと呼ばれる丸盾と貫徹槍を装備した重装歩兵の密集陣形が活躍した。盾と槍の隙間無い陣形は、並大抵のことでは突破できず、ペルシア帝国との戦いでは、圧倒的な数の不利を逆転したという。
古代ローマの帝国初期の歩兵は、スクトゥムと呼ばれる四角、もしくは楕円形の大型のものを使用した。これを隙間なく並べ、個人の技量よりも集団の動きを重視し様々な陣形を組んだ。城壁に接近する場合は亀甲のように上面に盾を並べ投擲物から身を守った。散開した際も個々に使用し、ホプロンと比べてやや重い分、防御力が高い。また、帝国末期には、盾の裏に数本の投げ矢(槍)を仕込んで装備する事もあった。
馬に乗るノルマン人は涙滴形を使った。これは円盾の下部が伸び、足を守るものである。ヨーロッパ騎士の持つアイロン形はこの上部が水平に切られた物で、ドイツ型はさらに裏から見て右片方(すなわち武器を持った利き腕の側)の上辺が切り欠かれ、視界を良くした。この切り欠き部は騎馬突撃に際して槍の保持にも使う。ポーランドなどのものは逆に左上辺が長く上に伸び、側頭部を守る。
金属で補強された盾は、縁を武器で連打して大きな音を出し、敵兵や馬を威嚇することに使われた。日本の機動隊などポリカーボネート製の盾(ライオットシールド)を装備する現代の暴動鎮圧部隊でも行われる事がある。
前5世紀の遺跡から出土した盾からも、この時点で高度な漆塗り装飾が行なわれていたことがわかる[1]。前4世紀出土のもので、反りがついており、布が貼られたもの(複合素材盾)もある(これらの盾の形状は、複雑かつ分類ができない)。鉄盾に関しては、『韓非子』の記述にある「重盾(じゅうじゅん)」が鉄盾を指すものと考えられており[2]、戦国期には用いられた。
弥生・古代日本と同様、古代中国でも実戦用だけでなく、行事用の盾があり、追儺がそれに当たる。この大陸式の行事用盾の文化は8世紀初め、文武天皇の治世には日本に伝わり(『広辞苑』一部参考)、『公事十二ヶ月絵巻』の絵画中にも、鬼を追う役が右手に五角の持盾、左手に矛を持つ姿が描かれ、祭事としても各地に伝承されている。中国では、こうした呪術的な面での使用は戦国期には見られ、『周礼』に記述される方相氏が、仮面をかぶり、戈と盾をもち、鬼霊を祓う呪術師一族としている。
高句麗安岳3号墳(4世紀後半)の出行図(壁画)には、歩兵は盾を持っているが、重騎兵には盾が描かれていない。時代が下ると、伽耶金海出土の5世紀頃の騎馬人物形土器に、人馬甲を身にまとった上で盾と槍が表現されており[3]、馬盾がみられる。この馬盾と槍のセットが北方から伝わったのかは不明だが、同時期の日本においては、(記・紀資料や壁画を含め)確認されていない。
日本の盾の初見は「神代紀」の国譲之条の「百八十縫之白盾」である。これは神宝の盾だといわれる[5]。
魏志倭人伝の記述として、倭人が木製楯を用いていたことが記述されている(漢字で楯と表記した場合、木製をさす)。
奈良県の3世紀から4世紀にかけての遺跡[注釈 2]からは多くの木製盾と木製埴輪(矢傷などがない)が出土している[6]。盾には装飾として、板材に多数穿孔され糸綴じが行われている例があるが、盾に対する糸綴じは強度を高めるためという指摘もある[7]。
5世紀頃になると、鉄製盾[注釈 3]が登場し、以降、革製、石製盾(実用武具ではなく、石製埴輪であり、福岡県に見られる[注釈 4])なども用いられるようになり、5世紀末から6世紀にかけて、盾持人埴輪が盛んに古墳の周囲に置かれるようになる。古墳を悪霊・邪気の類から守るための呪具として制作されたとみられている。大阪府八尾市美園遺跡の方墳から出土した家形埴輪の2階の壁には盾を表す線刻があり、悪霊の建物への侵入を防ぐ役割を担っていたと解釈されている[8]。建物の四方に盾を立てたと推測されている[注釈 5]。また『日本書紀』の巻第三十において、持統天皇4年(690年)春正月に持統天皇の即位に際して物部麻呂朝臣が大盾を樹てたことや、『続日本紀』において、文武天皇2年(698年)11月に行われた大嘗に榎井倭麻呂が大盾を立てる儀礼を行い、以降、大嘗に当たり、物部・石上・榎井氏によって、大嘗宮の門に盾を立てることが慣行となったとある。古代日本において盾は実用具以外の面も持ち合わせており、権力者の墓や建物、宮門を悪霊の類から守る信仰は一例とみられる。中には、石室内に盾が描かれている例もある[注釈 6]。権力者の間で仏教が普及すると、こうした盾の信仰も忘れ去られたものとみられる。奈良県四条古墳出土の5世紀の木製盾やそれと形状が類似する盾形埴輪(奈良県から静岡県にかけて見られる上部がY字状でくびれが多い盾)などから5世紀当時の盾の長さは130センチ前後であり、盾持人埴輪の表現にある様に顔は丸出しだったとみられる(四条古墳出土の木製品については、祭祀盾[注釈 7]とする見解が一般的であるが、研究者によっては疑っており、杖とする見解もある。また、5世紀の近畿圏では小型な手持ち盾の例もある)。奈良県の5世紀の遺跡から出土した鉄製盾の長さも130センチ程である。
この他、「隼人の盾」があり、朝廷が隼人を制圧した後、内国に移配した結果、平城宮跡からも出土している。この隼人盾の長さは150センチである。これは、『延喜式』の「長さ五尺、広さ一尺八寸、厚さ一寸、頭には馬髪を編みつけ、赤白の土墨でもって鈎(こう)形を画く[注釈 8]」とある記述と合致し、外国からの客を迎える際の規定であった。6世紀の東国の盾持人埴輪を見る限り、西国よりシンプルなデザインとなっている。
西国・東国・隼人の武人に共通して多く見られる盾の模様は、三角形を単位紋とする鋸歯(きょし)紋、いわゆるギザギザ模様である。一説には悪霊に対する威嚇という呪術的な意味合いのものとされる。古墳時代の盾には漆を塗っている例もある。
『万葉集』の一巻と二十巻に盾に関する歌がある。一巻に記された歌は、弓を射る音が鳴ると、武官は楯を立てるという内容で、音に敏感に反応する武人の様子が描かれている。
8世紀の段階では、歩兵は長柄の矛を両手で使用するようになり、騎兵も史料上から片手で使用・携帯する盾の使用はあまり見られなくなる[9]。
中世ヨーロッパでは騎士道の象徴であり、盾の形状や紋章は厳格に規定・区分され、紋章を見れば騎士の出自を含めて誰かが分かる程だった。この盾の紋章から、西欧の紋章ひいては近現代の世界各国の国旗・国章が発展した。騎士には必ず盾持ちの従者が伴っていた。中世終期には、鎧がチェーンメイルから全身を覆う頑丈なプレートアーマーに移行し、必ずしも全身を遮蔽する必要がなくなったため盾は小さくなった。そのため上記のような儀礼的・象徴的な意味が強まったとはいえ、実戦においても盾の必要性はさほど変わらなかった(鎧はハンマーやメイス等の重い打撃武器には比較的弱い。また攻城戦でよく用いられる投石、汚物、熱した油、火炎放射、弓矢といった飛び道具を防ぎ、近接戦闘でも剣や槍などの攻撃を受け流しつつ反撃するのに盾は有効だった)。
日本では追儺式時の方相氏が盾と矛を持つなどの儀式用以外は平安時代から室町時代初期にかけて掻盾を小型にしたような並べた厚板に鍋の取手の様な柄をつけた手盾があったが、主要武器の日本刀や薙刀、槍など両手使いに発達すると、鎧が発達し、手にもつタイプの盾(手盾)がすたれた[注釈 9][注釈 10](騎射戦において、肩部・側面を防護する大袖を腰をひねることで正面に向け、一種の盾として利用する手法がとられていた[10]が、この大袖による防御手段は太刀や薙刀による白兵戦にも使用された。)。
一方で、地面に固定する型の盾(掻盾、垣盾などといわれる、普通は厚板二枚を縦に並べて接ぎ、表に紋を描き、裏に支柱をつけて地面に立てるようにしてある)が使われた。戦国時代になると矢だけでなく鉄砲の銃弾からの防禦も重視されるようになり、利便性と防禦性の高さから竹束が用いられるようになった。これには大型の物と小型の物が存在し、小型の物は手に持っての銃弾防禦が可能であった。使用の際は弾丸の入射角に対し斜め鋭角に設置する(避弾経始)。また、濡らした厚地の布(場合によっては広げた甲冑など鋼板製のものも共に)を建物の門や戸口などに設置し、カーテンの原理(布地の柔軟性と避弾経始を組み合わせ、飛来物の軌道と威力を逸らす作用)により弾丸を逸らす事実上の置き盾も少数例ながらあった。同様に矢玉避けに背負う母衣も盾と見ることが出来る。また、一部で鉄盾も使われていた[要出典]。また陣を囲むよう多重に巡らし遮蔽させた幔幕も同様の役割を果たした。手盾については後述(東洋の盾→笠)を参照。
戦国期に多く考案された盾として、「車盾」(下部に車輪を有した攻城用盾)があり、「掻盾牛(かいだてうし)」や「転盾(まくりたて)」、「木慢」[11]、「車竹束」、「車井楼( - せいろう)」(『軍法極秘伝書』内に記載される)などといったものがある。この他、近世の書『海国兵談』には、木慢と外観が似た吊り下げるタイプの盾の「槹木」があるが、これは城壁内に立て、城壁の上から来る投射物を防ぐための城壁を補助する盾で、車盾ではない。
近世江戸期の『和漢三才図会』には、「歩盾(てだて)」として、画と共に記述が見られ、甲冑武者が左手に長方形の盾を持つ姿が描かれている(右には短槍)。画の形式は、掻盾と同じ(この他、様々な盾を記述したものとして、『訓閲集』が見られる)。また、『三才図会』では、盾の説明として、画に車盾が描かれている。歩盾を「てだて」と読むのは、10世紀中頃の『和名類聚抄』巻十三に見られ、中国の『釋名』を引用した上で、和名を「天太天(てだて)」と記している。
現代においては火器の攻撃力増加により、手盾が正規の戦争で使用されることはほとんど無くなったが、暴動鎮圧用としては世界中の警察や軍隊で装備されている。この種の盾(ライオットシールド)は、本格的な防弾性能はほぼ無いものの、軽量で頑丈なジュラルミン製や透明で視界に優れたポリカーボネート製のものが多く採用されている。また、セラミックや金属などで作られ小銃弾程度なら防御可能な盾や、強靭なケブラー繊維で作られたカーペットのような盾(刃物を振るわれても切れず鈍器も受け流せるが、防弾性能では劣る)も存在しており、警察の銃器対策や軍隊の市街戦などで使用されている。ただし、防御力を重視した盾は重量が大きく扱いづらいという欠点がある。
車両や陣地に備え付けられる銃器には「防盾」と呼ばれる鋼鉄製の盾が付属することがある。地面に置く盾としては、より安価で効果的な土嚢などが使用される。
一方、現代の神社でも「神宝盾」や「儀盾」を用いる事があるが、これは「持盾」と「据盾」の二種である。いずれも木製、黒漆、上部を三山形に切り込み、表面に巴紋または神紋を附けることになっている[12]。
板状方形の木盾にキルティングを施したなめした毛皮で被い長く垂らし、頭部や胸部は木盾で、その布地部分でカーテンの原理で下方から攻める敵刃を逸らして防いだ。マカナと呼ばれる剣やホルカンカと呼ばれる槍と一対で装備されることが多い。
攻撃を象徴する刀剣に対し、盾は防御の象徴として用いられる。マケドニアに代表されるファランクスは長い槍と盾を重ね合わせて隊列を作る密集部隊であった。兵士は自分だけでなく横に並んだ戦友の右半身を盾で守ることにより、部隊全体として完全に死角をなくす必要があった。したがって個人を守る鎧兜をなくす事より、仲間を守る盾をなくす事の方がはるかに不名誉な事とされた。また、「盾に担がれて凱旋する」は名誉の戦死を遂げた者が盾に乗せられ仲間に担がれたことを意味する。
もともとは、ヨーロッパの領主たちが近隣の領主に贈り物として贈与したもの。
友好の証(私がもし攻撃するようなことがあったら、この盾で防いでください)であるとともに、自領の防御力(私の領地は防御がしっかりしているので攻撃しても撃退されますよ)を暗示していた。時代が下るとともに防衛力を示す意味が薄れてゆき、功績や友情を表す記念品としての形状と『楯(盾)』という名称だけが残り、特別な贈答品として世界中に普及した(表彰盾/楯・優勝盾/楯)。優勝旗は持ち回りなので次回本大会の際に返還しなければならないが、優勝楯はチームに贈呈される。
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