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日本のタレント・霊能力者 ウィキペディアから
江原 啓之(えはら ひろゆき、1964年12月22日 - )は、日本の男性作家、オペラ歌手(バリトン)。元神職。ワタナベエンターテインメント所属。吉備国際大学客員教授、九州保健福祉大学客員教授[3]。一般社団法人日本フィトセラピー協会 顧問。自ら設立した一般財団法人日本スピリチュアリズム協会理事長、世界ヒーリング連盟元会員、二期会会員。日本オペラ協会会員。日本演奏連盟会員。第27期燦々ぬまづ大使。
妻と二人の息子がいる[4]。血液型A型。
1964年(昭和39年)12月22日、東京都墨田区の下町で、薬品会社に勤めるサラリーマンの第2子として誕生[1][2]。7歳上の姉を持つ[4]。
4歳の時、父親を薬害で亡くし、15歳の時、母親を癌で亡くす[1]。中学生時代はギター部に所属していた[5]。技術職に就くことを目指し本郷高等学校デザイン科に進学。放課後はアマチュア合唱団の練習に参加[5]。
1981年、高校2年の時、姉が嫁に行き、一人暮らしを始める[4]。和光大学人文学部芸術学科[6] に入学し、美術を専攻([7],p127)。彫刻[8] や音楽を学ぶ。大学の近くに移住する[4]。「18歳までは守られる」という生前の母の言葉通りに、18歳になった頃から心霊現象に悩まされ19歳で大学を退学する[2]。
警備員のアルバイトをする傍ら、エスカレートする一方の心霊現象を解いてもらう為に、何十人もの名の知れた霊能者を渡り歩くも解決できず、それまで霊能者達に支払った高額な料金で貯金も底をつき、自殺まで考えるほど精神的にも金銭的にも追い詰められる。そして20人目にして出会った日本心霊科学協会の講師・寺坂多枝子と江原は運命的な出会いをする。寺坂から学識高く霊的なものを健全に懇親に説明され、また江原の卓越したスピリチュアルな霊能力を見抜き指摘するが、江原自身は幼少の頃からスピリチュアルな能力は感じていたものの、まだ半信半疑だった。自身の周囲で巻き起こる心霊現象も悪霊の仕業ではなく、江原自身の霊媒能力に寄るものが大きいと説明され、以後、寺坂多枝子に大きな信頼を置く[1][4]。
人格や波長を高く保ち善きカルマを積めば、低級霊は寄って来ないとアドバイスを受け、自分の力をコントロールするため修験道(真言密教系[9])の修業を始める[1]。1年間寺で修業した後、高尾山での 2年間の滝行により憑依体質を克服[1][4]。「日本心霊科学協会」の「精神統一協会」や寺坂の主催する「清玲会」に通い、瞑想や本格的な心霊科学を学んでいく[4]。
滝行で知り合った男に職業霊能者になる誘いを受ける。心霊相談の部屋を提供されるも、お金を一切もらえず、極貧の生活に追い込まれる。そして人の悩みや迷いに付け込んで高額な料金をせしめ取る霊視アドバイス屋にされていることに気づき、夜逃げ同然に逃げ出す[1]。
「社会的に信頼されるようにきちんとした職業を持つべき」という寺坂の勧めに従い[9]、22歳[8] の時、神職の資格[10] を得るため國學院大學の夜間部に入学[5]。1987年(23歳)、 北沢八幡宮に実習生として勤める[11][12][13]。経済的に苦しかったため、夜間の授業を終えた後、深夜に心霊相談を行うという過酷な生活を送る[4]。 國學院大學別科神道専修II類を修了し[6]、神職の資格を得る[4]。
心霊相談で知り合った人たちや昔からの友人たちによって、東京、横浜に計3ヶ所スピリチュアリズムを学ぶサークルが作られ、毎月、講師として研修を行う[4]。後に計3ヶ所合同の研修会(これが後に「江原啓之のスピリチュアリズム講座」となる)を北沢八幡神社の広間で開催する[4]。
この頃、名古屋の医師の紹介で[9]、北海道の浦河町に建てた別荘の心霊現象に悩んでいた小説家、佐藤愛子の相談に乗る([4],p257)。
『シルバーバーチの霊訓』と出会い、これを読んだ江原は、つぎのような感想を述べている。「自分が見出した真理が正しかったことが裏付けられ、これまでの自身の経験の意味を改めて理解でき、感動した」[4]。江原が、この本を読んだのは、寺坂が江原の両親を招霊した時期に近い。
1989年(24歳)3月、北沢八幡宮を去り、近くの東京・下北沢のアパートで、心霊相談とヒーリングによるスピリチュアリズムの普及を目的として「スピリチュアリズム研究所」を設立(後に自宅も兼ねる。)[4]。
寺坂多枝子の「霊能者は拝み屋の域を離れ、アカデミックなスピリチュアリズムを学び、その地位を築くべき」とのアドバイスにより、1990年(25歳)2月、霊能者としての活動のヒントを求め、スピリチュアリズムの本場とされるイギリスに渡り学ぶ。ロンドンのミーディアム(霊能者)を育成する団体である「英国スピリチュアリスト協会」(SAGB)を訪ね、ネラ・ジョーンズ(Nella Jones)、テリー・ゴードン、ドリス・コリンズ(Doris Collins)など、霊媒師として知られる人物たちと会い、理論、実践を学ぶ[2]。中でも最も影響を受けたのはドリス・コリンズであり、自身のスピリチュアルカウンセラーとしての活動はドリスを見本にしているという[7]。 渡英中、ドリスにイギリスに住みたいと希望を伝えた際は、「私と同じようにパイオニアとして、日本で人々に真理を伝えてゆきなさい」と言われたという[4]。以降1996年まで、足かけ6年、計9回渡英する[4]。
帰国後、個人カウンセリングにイギリスで学んだスピリチュアリズムの手法を取り入れる。
イギリスで学んでいた時に、ある男性ミーディアム(霊媒)の名刺の肩書であった“スピリチュアル・カウンセラー” [14] という言葉を気に入る([4]、p206)。 “霊能者”という言葉には現世利益を与える他力本願的なイメージが強く、暗いイメージがあり、そのような拝み屋的な存在としての心霊相談と同一視されたくないという思いもあり、スピリチュアル・カウンセラーと名乗るようになったという[7]。
江原のカウンセリングスタイルは、一般的な日本の霊能者がするような相手の相談に答えて行くという形ではなく、自身が霊的世界とコンタクトを取り、その人に関わるさまざまな情報およびメッセージを一方的に伝えて行く、イギリスや欧米諸国で行なわれている「シッティング」という手法である[4]。依頼者自身にしか知り得ない事柄を語ることで依頼者に霊的世界を証明し、その感動を通じて霊的世界の真理を広めてゆくことを考えたという[4]。また、拝み屋的な演出を排し、かわいらしいサロン風のカウンセリングルームで平服でカウンセリングを行なった。
しかし、十数年カウンセリング活動を続ける中で、楽して成功を求めるようなスピリチュアリズムの真理に反した物質的価値観による相談や非常識なクレームをつける人が多く[12]、1年間に千件に及ぶカウンセリングの中でも、やってよかったと思えたのは10パーセントにも満たなかったという[7]。そんな中で、応急処置的なカウンセリングばかりに時間を割くより、霊的な真理という「人生の地図」を普及させることの方がはるかに「人の助け」、「霊界の助け」になると考え、個人カウンセリングを休止し、執筆活動や講演活動に重点を移した[4]。
寺坂を通じて知り合った佐藤愛子の助力でマスメディアに姿を現す[15]。
1992年(27歳)、ファッション雑誌『CanCam』(1992年2月号)の連載で取り上げられたことで、「スピリチュアリズム研究所」に予約が殺到する[5]。
1993年(28歳)5月、歌手のイルカの知人の紹介で知り合った女性と結婚し[5]、千代田区の「日枝神社」で挙式[5]。
自ら学んだスピリチュアリズムを本で伝えたかったが、無名ゆえに引き受けてくれる出版社がなかったため、名前を知ってもらうためと[4]、マスメディアに登場する霊能者はキワモノがあまりにも多く、その話が心霊現象に偏っているため、「人はなぜ生まれ、いかに生きるか」を語る霊能者も必要だと考えマスメディアに出ることにしたという[1]。
テレビ出演の際はスタジオにろうそくやヤナギの木を置いたり、血の滴るようなテロップやおどろおどろしい「再現ビデオ」などを見せる心霊番組特有の局側の演出を不要だと再三訴え、やめてもらうようにしたという[4]。
当初のテレビ出演時は、守護霊を自身の身体に憑依させ、その守護霊の口調でアドバイスを伝えていたが[16]、後にアドバイスのみを伝えるようになっている。
初期の自著は当初2冊共ほとんど売れず、そのうち1冊は間もなく絶版となってしまった。ある人からの「世間の人はいきなり理解するのは難しい世界だから、もっと身近な具体例を挙げるべき」とのアドバイスを受けて書いた3冊目の自著『幸運を引き寄せるスピリチュアル・ブック』が70万部を超えるベストセラーとなった。2001年(36歳)、カウンセラーの中森じゅあん(「日本算命学協会」 代表)から紹介を受けて三笠書房より出版された[4]。その後、江原の存在が世間一般に広まり、江原啓之への世間一般の関心が高まるにつれて、当初は精神世界に関心を持つ人にのみ認知された最初の著書『人はなぜ生まれいかに生きるのか』(ハート出版)も非常に高い評価を受けるようになり、沢山の読者を獲得するに至る。
2003年(38歳)、テレビ東京の深夜バラエティ番組『えぐら開運堂』に毎週レギュラー出演し、2年間に渡り女性視聴者に対して人生相談を行う。
同年6月より東京を皮切りに2004年5月まで『江原啓之スピリチュアル・トーク』を全国で開催[6]。
2005年(40歳)4月からは美輪明宏と共にスピリチュアルな視点から人生を説くテレビ番組『オーラの泉』に出演し、話題を呼ぶ。『オーラの泉』において、霊視して部屋の中の様子を言い当ててゲストを驚かせ(当然節度を守った範囲でだが)、番組を盛り上げるデモンストレーションは有名。
2007年(42歳)現在、著書の累計出版部数は900万部を超えており[6]、ベストセラー作家としても世に知られている。
江原に批判的な側は江原のファン・信奉者を揶揄的な意味合いを込めて「エハラー」と呼ぶこともある([12]、p315)。
今後はルドルフ・シュタイナーのように、スピリチュアリズムをアカデミックな思想として確立させ、学校や教育などいろんな方面に応用できるようにしたいという([12]、p95・[8]、p210)。
また、将来はホスピスを作ることが自分の夢だとしている([12]、p23)。
2009年度(44歳)から、吉備国際大学短期大学部にて客員教授としてスピリチュアリズム授業を行っている[17]。
2011年(46歳)3月、スピリチュアリズム研究所を発展させ、一般財団法人日本スピリチュアリズム協会を設立する。
30代半ばで[4] 武蔵野音楽大学パルナソスエミネンス(特修科)に入学し、声楽を専攻する。菊池英美、吉池道子、ヴィットーリオ・テッラノーヴァらに師事し、同科を修了した[6]。
もともと、サラリーマンだけはなるまいと考えており、芸術で生きて行くことを考えていたという[4]。スピリチュアルカウンセラーを始めたときの「10年計画」にも歌を歌うことが入っていたという。歌詞にこめられた「言霊」とメロディーにこめられた「音霊(おとたま)」によって、豊かな感性を呼び戻してほしいとしており、スピリチュアリズムや霊能者に対する偏見を払拭したい思いもあるという[12]。
2003年からは自身の「公演」の中で歌を披露している[4]。現在も定期的に声楽のレッスンに通っている([12]、p92)。
2000年、武蔵野音楽大学特修科修了演奏会では、ヴェルディ、ロッシーニを中心としたプログラムで優秀な成績を修めた[6]。以後2001年には、「日本歌曲の夕べ」を開催[6]。
2002年、「La strada-イタリアへの道」を東京都渋谷区の音楽ホール「ムジカーザ」で開催[6]。
2004年5月には出版300万部突破を記念して、「江原啓之バリトンリサイタル」を銀座の王子ホールにて行い、イタリア歌曲、オペラ、日本の歌曲を歌った。
また、2004年12月には、デビューアルバム『スピリチュアル ヴォイス』、2006年3月にはセカンドアルバム『スピリチュアル エナジー』をリリース。
2005年度より美輪明宏の提言により「スピリチュアル・アーティスト」としての活動を開始、2005年1月から3月まで全国各地で『江原啓之スピリチュアル・ヴォイス』公演を行い、5月には東京・渋谷公会堂で特別追加公演も開催した。ヴェルディ、ロッシーニ等のベルカントオペラを得意とし、その他様々なコンサート・リサイタル等に出演している。
2007年9月から10月にかけて、四大都市で三枝成彰プロデュースの20周年記念チャリティー[18] コンサートを行う。初めてオーケストラをバックにし、ソプラノ歌手佐藤美枝子と共演した。財津和夫、イルカ、尾崎亜美らが出演し、デュエットも披露[19]。
2008年5月、関西二期会第68回オペラ公演『セヴィリアの理髪師』に特別出演、フィオレルロ役を演じた。2009年5月には関西二期会第70回オペラ公演『ラ・ボエーム』にて、ベノアおよびアルチンドロ役を演じた。
また、作詞家としてもイルカの『まるい地球は誰のもの』の作詞をイルカと共作であるが手掛けている。
1998年から声楽を指導してきた武蔵野音大の菊池英美教授は「当初は技術的に素人のレベルだったが、確実に成長して今ではヘタなプロよりも感動的に歌う。2010年12月の『第九』公演でも佐藤美枝子を相手に負けていなかった。一番の特徴は声が柔らかく人間的な温かみがあること」と評価している[20]。
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