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日本の文学者 (1867-1902) ウィキペディアから
正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈旧暦慶応3年9月17日〉- 1902年〈明治35年〉9月19日)[1]は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。子規は筆名で、本名は正岡 常規(まさおか つねのり)[1]。幼名を處之助(ところのすけ)といい、後に升(のぼる)と改めた[2]。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治を代表する文学者の一人である。
伊予国温泉郡藤原新町(現:愛媛県松山市花園町)に生まれる[2]。同地は伊予松山藩領で、父は藩士の正岡隼太常尚[2](1833年 - 1872年)、母の八重(1845年 - 1927年)は藩儒大原観山の長女[2]で、長男であった。
1872年(明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父である観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、のちに勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け[注釈 1]、政談にも関心を熱中したという。
1880年(明治13年)、旧制松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、漢文を学ぶため赤坂丹後町の須田学舎や、受験英語のために共立学校(現:開成中学校・高等学校)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現:東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。
松山中と共立学校で同級だった秋山真之(後に日露戦争時の連合艦隊参謀)とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石、南方熊楠、山田美妙らと同窓だった。
大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せて文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。1894年(明治27年)夏に日清戦争が勃発すると、翌1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)らに挨拶をして帰国の途についた[注釈 2]。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」[注釈 3]と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
短歌(和歌)においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。『古今集』を否定して『万葉集』を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新に努めた。根岸短歌会は、のちに伊藤左千夫、長塚節、岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。
やがて病に臥しつつ『病牀六尺』を書いた。これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館に収蔵されている。
1902年(明治35年)9月19日午前1時頃に息を引き取った[2]。21日の葬儀には150名以上が参列し[2]、生前に弟子へ遺言していた「静かな寺に葬ってほしい」という願いに合わせて、田端の大龍寺に埋葬され、現在も墓所がある[5]。戒名は子規居士[2]。
※日付は1872年までは旧暦
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで続けていた。ポジションは捕手であった。
子規の最良の理解者であった河東碧梧桐ですら、彼が他のスポーツには全く関心を示さなかったのに、ベースボールに限って夢中になったことについては理解できないという風に「変態現象」と呼んだほどであった[13]。
1890年5月17日の一高ベースボール会対明治学院白金倶楽部によるベースボールの試合で「インブリー事件」が起こった際の観客の一人でもあった。0-6と一高が大差をつけられた6回に事件が起こり、試合は中止となった。同年5月の『筆まかせ・第三のまき』に一高の負け方が見苦しい、と書き記している(注:十八日は誤記。十余程というのは実際の得点を意味しない)[14][15]。
十八日学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也。折柄明治学院の教師、インブリー氏学校の垣をこえて入り来りしかば、校生大に怒り之を打擲し負傷せしめたり。明治学院のチャンピオンにも負傷ありければマッチは中止となりたり。
自身の幼名である「升(のぼる)」に因んで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある[16]。これは、中馬庚がベースボールを野球(やきゅう)と翻訳する4年前の1890年(明治23年)のことで、読み方こそ異なるが「野球」という表記を最初に用いた人物となる。ただしこれはベースボールに対する訳語ではなく、あくまで自身の雅号として使っていたものである。実際1896年(明治29年)7月27日付で新聞『日本』に掲載された随筆記事によると[17]、
ベースボール未だ曽て訳語あらず、今こゝに揚げたる訳語は吾の創意に係る。訳語妥当ならざるは自ら之を知るといえども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜え。
とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語に対して、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」という翻訳案を創作して提示しているが、ベースボールに対する訳語は提示されていない(野球も参照のこと)。その他「まり投げて見たき広場や春の草」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」など野球を題材とした句や歌を詠んだり、新海非風との連作で、日本初の野球小説と目される『山吹の一枝』を執筆するなど、文学を通じて野球の普及に貢献した。これらの功績が評価され、子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした[16]。ちなみに子規の出身地である愛媛県には、子規の野球好きに因んで、野球資料館「の・ボールミュージアム」がオープンしている。
雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに喩えたものである。
また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げるときのようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶさまを先の『禮記』の故事になぞらえ、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかるさま」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠のごとく高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。
その他、随筆『筆まかせ』の「雅号」にて自身が54種類の号を用いていることを示し[注釈 5]、さらに多くのペンネームが用いられているとされる。上述の「野球(のぼーる)」もこの中に含まれる。
喀血した自身をホトトギスになぞらえて子規と号したことに象徴されるように、子規の文学はその病と切っても切り離せないものであった。母八重の回想では、乳児の頃の子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたという[18]。子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の鎌倉旅行の最中であった。子規本人は、翌1889年(明治22年)4月の水戸への旅行を、旅行の半年後に病の原因と書いている[6]。5月には大喀血をし、医師に肺結核と診断される。当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。このとき子規はホトトギスの句を作り、初めて子規の号を用いるようになった。
子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった。1895年(明治28年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養したあと松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友・夏目漱石の下宿で静養した。この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難をきたすようになり、当初はリューマチと考えていたが翌1896年(明治29年)、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後、床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。
歩行不能になったあとも折々は人力車で外出もしていたが、1899年(明治32年)夏頃以後は座ることさえ困難になった。この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節ら後進の指導をし続けた。碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも言われている。
梅室道寒禅定門─良久─将重─常寅─常一─常武─常尚─常規─律─忠三郎
正岡常尚 ┃ ┏正岡常規 ┣━━━┫ 加藤重孝━━大原有恒 ┃ ┗律 ┃ ┏八重 ┣━━┫ ┃ ┗加藤恒忠━━正岡忠三郎 歌原松陽━━━━重 ┃ ┏正岡浩 ┣━━━┫ ┃ ┗正岡明 野上俊夫━━━あや
講談社は、1975年4月から『子規全集』(全25巻)の配本を始めるに際し、1974年7月からプロジェクトチーム「子規全集編集部」を作り、編集作業を開始した[21]。このとき子規の俳句に「穢多」の語を使った句が5つあることが分かったため、1975年1月、編集担当者が大阪の部落解放同盟本部へ赴いて協議した[21]。その結果、次の条件で折り合いがついた[21]。
そして監修陣4人の中には、部落解放同盟に近い立場の詩人ぬやま・ひろし(西沢隆二)が加えられた[21]。通常の監修料は有名人でも数万円が相場であるところ、部落解放同盟には巨額の監修料が支払われたといわれる[21]。
講談社によるこの措置については、当時部落解放同盟による糾弾の嵐が吹き荒れていた中、糾弾の動きを事前に回避して「金で解決するならという大出版資本らしい発想」の存在を指摘する声もある[21]。
短い生涯において俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。
俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける19世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。
その一方で、その俳論・実作においては以下のような課題も指摘されている[誰によって?]。
などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある[誰によって?]。
俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる[誰によって?]。
短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい[22]。当初、俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌に最も大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚と『古今集』の否定に重点が置かれている。特に『古今集』に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い[誰によって?]。
子規の理論には文学を豊かに育てていく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。今でも否定できない俳句観である。日本語散文の成立における、子規の果たした役割はすこぶる大きいとされる[23]。
また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。鈴木虎雄(陸羯南の娘婿で、子規とは新聞『日本』の同僚でもあった)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、弟子の吉川幸次郎が回想している。
森銑三は、明治期の優れた随筆家の中に正岡子規の名を挙げている。子規は俳人・歌人であったのみならず、文章家にして名随筆家であったという[24]。加えて、「…奇文家としての子規など、全く度外視せられてゐるのではないかと思はれるが…」とした上で、子規の奇文には注目すべき文章がいくらでもあると述べ、その代表に「子規自撰の碑文」「闇汁図解」「柚味噌会」を挙げる[25]。
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