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福本 日南(ふくもと にちなん、安政4年5月23日(1857年6月14日) - 大正10年(1921年)9月2日[1])は、日本のジャーナリスト、政治家、史論家。
平野国臣とも親交のある勤王家であった、福岡藩士である国学者の福本泰風の長男として福岡に生まれる。本名は福本誠。幼名は巴。日南はその号。藩校修猷館に学び、長崎において谷口藍田(中秋)に師事し、更に上京して岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた。明治9年(1876年)7月司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で、明治12年(1879年)4月原敬・陸羯南・国分青崖・加藤恒忠らと共に退校処分となる[1]。
明治15年(1882年)から明治19年(1886年)にかけて北海道開拓に情熱を注ぎ[1]、明治21年(1888年)、同じく南進論者である菅沼貞風と知友となり、フィリピン開拓のため、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した。
帰国後、政教社同人を経て、明治22年(1889年)2月陸羯南・国分青崖・古島一雄らと新聞『日本』を創刊し[1]、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯日南を尊敬していたという。明治24年(1891年)7月、小沢豁郎、白井新太郎と共に発起人となり、アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である東邦協会を設立する。その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる。
明治38年(1905年)11月、招かれて玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任する[1]。
明治41年(1908年)5月第10回衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選。同年、『元禄快挙録』(現在は岩波文庫全3巻)の連載を九州日報紙上で開始[2]。大正5年(1916年)12月中央義士会を設立し、初代幹事長に就任する[1]。
赤穂浪士称讃の立場にたつ日南が忠臣蔵の巷説・俗説を排して史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し[3]、現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立する。
ただし巷説などを排したと言いつつ、日南の文章には史実と異なる記述や、史実かどうか疑問の内容が随所に見られる。
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