広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家。日本芸術院会員。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
概要 広津 和郎ひろつ かずお, 誕生 ...
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早大英文科卒。奇蹟派の中心。評論から小説に転じ、虚無的な人生を描いた『神経病時代』(1917年)が評価される。批評や文学論争でも耳目を集める。作品に『やもり』(1919年)、『風雨強かるべし』(1936年)など。
- 広津柳浪 - 父。広津弘信(元久留米藩士で外交官)の息子。祖父は馬田昌調、曽祖父は広津藍渓。
- 広津須美子 - 母。27歳で病死。蒲池鎮厚の娘。祖父の蒲池鎮克は江戸幕府最後の西国郡代。曽祖父は柔術家の江口秀種。
- 広津キヨ - 継母。65歳で乳がんにより死去。
- 広津ふく - 戸籍上の妻。旧姓・神山。下宿先の娘。長男出産後結婚し、長女出産後子供たちとともに別居、91歳で没。
- 松沢はま - 実質上の妻。未入籍のまま世間的には「広津和郎夫人」として36年間連れ添い、62歳で没。谷中墓地の広津家墓所にともに眠る。和郎の7歳年下で、恵まれない環境で育ち、和郎と同居後、和郎の父、継母を介護した。
- 広津賢樹 - 和郎とふくの長男。24歳で没。
- 広津桃子 - 和郎とふくの長女。小説家。
- 倉富勇三郎 - 枢密院議長、妻・のぶが和郎の父方の叔母。
- 『神経病時代』(1918年)、のち「神経病時代・若き日」岩波文庫
- 新聞記者鈴本定吉は家庭ではヒステリーの妻に、職場では味気ない仕事に憂鬱な毎日を送っていた。友人の遠山は借金まみれの生活をし、同じく友人の河野は日頃道で出会う女への恋に熱中していた。ある日、定吉は遠山から遊郭への同行を強要されたり、新聞の割付の不手際から社長に叱責された憤懣から給仕を殴りつけたり、遠山に金を融通するために時計を質入れしたことを妻に叱責され妻を叩いたりして精神的に徐々に追い詰められていった。そして妻の離縁を考え始めたある日、妻から新たな妊娠を告げられるのであった。
- 生きる力が弱く世間にうまく処していけない30歳前後の2人の男・押川と蠣崎が主人公である。押川は生活のために不本意ながら政治ゴロの経営する雑誌社で編集者として働いていた。彼は様々な恋愛経験を持ち、忘れられない女性もいたが、なぜか職場の電話番をしていた染井という平凡な女性と結婚の約束をしてしまい、これも仕方がないとあきらめるのであった。蠣崎は小説家志望で定職はなく収入もほとんどなかった。彼は今までほとんど恋愛経験がなかったが、偶々隣に越してきた娼婦上がりの女に惚れこみ、彼女が妾奉公に行かせられてしまうのを阻もうとしたが、周旋屋の男に腕力で阻まれてしまうのであった。
- 『ストリンドベルグ評伝』春陽堂(泰西文豪評伝叢書)1919
- 『握手』天佑社 1919
- 『明るみへ』新潮社 1919
- 『横田の恋』春陽堂(新興文芸叢書)1920
- 『作者の感想』聚英閣 1920
- 『朝の影』聚英閣 1920
- 『お光と千鶴子』金星堂 1921
- 「死児を抱いて」(1922年)
- 石川家の家庭教師よし子の居室で発見されたミイラ化した乳児の死体。失踪したよし子から石川家に手紙が届きその経緯が説き明かされた。よし子は、両親を亡くした後、女学校を中退し叔母の家に引き取られ裁縫などを習っていたが、そこに下宿した元学生の水沼と関係をもち妊娠してしまった。しかし水沼には「久野さん」という過去に付き合った忘れられない女性がいたため、水沼はよし子を女性として愛することはできず、やがて持病の肺結核が重篤となって死んでしまった。よし子は一人で産婆宅で子供を産んだが、私生児として届けを出す決意がつかずにいるうちに子供が急逝してしまったので、埋葬も出来ず死体を持ち歩いていたのであった。
- 『ひとりの部屋』新潮社(短篇シリイズ)1925
- 『現代短篇小説選集 1 少女』文芸日本社 1925
- 『秋の一夜』改造社 1926
- 『生きて行く 戯曲集』改造社 1927
- 「薄暮の都会」(1928年)小説
- 国友新造は作家志望だが性格が弱く、友人の妹井出綾子に恋心を抱いているが自身の病気(肺病)や故郷で窮迫している家族のことを考えると積極的な態度に出られずにいた。今井蝶子(山田順子がモデル)は夫の援助で上京し作家・女優を目指して雑誌記者五十嵐(足立欽一がモデル)、挿絵画家山路水華(竹久夢二がモデル)などと関係をもち、やがて夫安彦(増川才吉がモデル)が破産した後は小説家宮田春潮(徳田秋聲がモデル)の愛人となった。富士ゆき子は映画製作所の幹部や監督と関係をもちそれを足場に女優としての地位を築き、新井梅子も画家小峰秋風や映画製作所宣伝部長磯村藤次郎などと関係をもち女優を目指すが同僚の女優の誘いにのって売春をする羽目に陥ってしまった。
- (女給小夜子)北海道岩見沢である男の子を孕んだことがきっかけで上京、様々な仕事に就くが大した収入にならず苦しい生活の中で出産した。子供の玩具欲しさにデパートで万引きしたり夜の公園で刑事に不審尋問されたりした挙句、関口のカッフェで働くことにした。その後、そのカッフェに居られなくなり岩見沢に帰るが、結局子供を里子に出して再度上京し、銀座のカッフェ・Tで働くことにした。そこで馴染みになった客が詩人の吉水(菊池寛がモデル)と会社員の相良であった。特に相良は小夜子との結婚を強引に迫ってきたため、小夜子は郷里の岩見沢に逃げ、それを追ってきた相良に結婚できないことを言い渡したために相良は自殺未遂事件を起こした。やがて小夜子は3回目の上京をし、今度は銀座のカッフェ・シャノアールに出た。そこでライバルの京子にお馴染み客の吉水を奪われ、客として来た相良に結婚詐欺呼ばわりされ警察の調べを受けた。
- (女給君代)豊橋から身を立てるため上京し、やがて小さな喫茶店を持つことを夢に銀座のカッフェ・シャノアールで女給となった。そこで知り合ったのがA大学のラグビー選手掛川で、掛川の強引な口説きに屈して、やがて男女の関係となった。逢瀬を重ねるうちにやがて君代は身重となってしまった。それを知った掛川は徐々に君代と距離を置くようになり、「女給では誰の子供を孕んだか怪しいものだ」と君代を侮辱した。しかも掛川には君代の他に妊娠させられた掛川の下宿の娘や弊履の如く捨てられた女給の登美子など多くの犠牲者がいた。思い余った君代は掛川の郷里小樽まで出かけて行くが掛川は口実を設けて会おうとはしなかった。君代は帰京した後、小夜子とともにシャノアールを辞め、カッフェ・ミキに出るようになったが、そこで偶然掛川に出会い、君代は小夜子とともに掛川を激しく詰問するのであった。
- 『六大学リーグ戦史』芦田公平共著 誠文堂 1932
- 『過去』岡倉書房 1934
- 『小説作法講義』万昇堂 1934
- 『昭和初年のインテリ作家』改造社(文芸復興叢書)1934
- 『風雨強かるべし』1934 小説 のち岩波文庫、新日本文庫、各・上下
- 弾圧が強化されていた左翼運動に共感しつつも実際運動には飛び込んでいけず精神的に動揺し続ける大学生佐貫駿一を主人公にした物語である。実際運動に携わり逮捕された旧友八代の妻ハル子と駿一の叶わぬ恋、駿一の亡父の親友で新興資本家の飯島千太の倒産・没落、ブルジョア的生活に疑問を持ち経済的な自立を目指し駿一と結ばれる千太の娘ヒサヨなどが描かれている。
- 『一時期』黎明社 1935
- 『青春行路』三笠書房 1935
- 『母は護る』三笠書房 1938
- 『青麦』学芸社 1939
- 『巷の歴史』中央公論社 1940
- 『愛と死と』牧野書店 1940
- 『芸術の味』全国書房 1942
- 『父と子』報国社 1942
- 「若き日』(1919年 - 1943年)小説 のち岩波文庫
- 小島(広津和郎自身がモデル)は小学校から大学まで同じ学校に通った友人杉野とは相性が悪くあまり好意をもてなかったが、肺病病みの彼の父や善良そうで小柄な彼の母、そして無邪気で快活な妹千鶴子には親しみを感じるのであった。小島の父(広津柳浪がモデル)は硯友社の同人であったが自然主義文学の台頭におされ文筆の仕事もなく一家は極貧の生活を強いられるようになった。その頃、久しぶりに千鶴子と再会した小島は彼女にほのかな恋情を抱き芝居などに誘ったりするのだが、自らの経済状況を考えると求婚する勇気をもてず、杉野の妨害にもあってそのまま千鶴子とは会わなくなってしまった。やがて千鶴子は意に満たない相手と結婚するが、父譲りの肺病で亡くなってしまった。
- 『夢殿礼讃』全国書房 1946
- 『美しき樹海』民友社 1946
- 『女の敵』新生社 1947
- 『動物小品』創芸社 1947
- 『大和路』鎌倉文庫 1947
- 『散文精神について 評論集』新生社 1947/改訂版・本の泉社 2018
- 『別離』全国書房 1948
- 『冬の芽』大日本雄弁会講談社 1949
- 『狂った季節』六興出版社 1950
- 『若い人達』中央公論社 1950
- 『同時代の作家たち』文藝春秋新社 1951 のち新潮文庫、角川文庫、岩波文庫(新編)
- 『壁の風景画』創芸社 1951
- 『ひさとその女友達』角川文庫 1954
- 『泉へのみち』朝日新聞社 1954 のち角川文庫、新日本文庫
- 『誘蛾灯』朝日新聞社 1955
- 『松川裁判』全3巻 筑摩書房 1955-1958 のち中公文庫、新版・木鶏社 2007
- 松川裁判の第2審判決を研究したもの。
- 『美しき隣人』宝文館 1957
- 『小磯家の姉妹』角川書店 1957
- 『自由と責任についての考察』中央公論社 1958
- 『松川事件のうちそと』光書房 1959
- 『松川裁判の問題点』中央公論社 1959
- 『街はそよ風』中央公論社 1960
- 『年月のあしおと』〈正・続〉講談社 1963-1967、のち講談社文庫、同文芸文庫全4冊
- 『松川事件と裁判 検察官の論理』岩波書店 1964
- 被告の無罪確定後に全体をふりかえる。
- 『広津和郎初期文芸評論 洪水以後時代・作者の感想』講談社 1965
- 『動物小品集』築地書館 1978
- 『裁判と国民』広松書店(上下)1981
- 『広津和郎全集』全13巻、中央公論社 1973、新版1988
- 広津桃子『父広津和郎』毎日新聞社 1973、中公文庫 1979
- 谷崎精二『葛西善蔵と広津和郎』春秋社 1972
- 松原新一『怠惰の逆説 広津和郎の人生と文学』 講談社 1998
- 橋本迪夫『広津和郎再考』西田書店 1991
- 坂本育雄『評伝広津和郎 真正リベラリストの生涯』翰林書房 2001
- 坂本育雄『広津和郎研究』翰林書房 2006
- 木下英夫『松川事件と広津和郎 裁判批判の論理と思想』同時代社 2003
注釈
祖父・広津藍渓は久留米有馬家に仕えた儒学者、父・弘信は長崎で医業を営む傍ら征韓論者として使節に参加したり外務省嘱託となった。
この頃、父・広津柳浪の元に舟木重雄らが訪れるようになり雑誌『にひしお』を発刊した。 社会部長の永代静雄は田山花袋の「蒲団」の女主人公の恋人のモデルとなった人物で、光用穆の友人でもあった。 上京し興信所に就職し一時和郎とともに西片町の宇野浩二の家に居候したが、その後神山ふくのいる永田町の下宿にころがりこんで和郎の着物などを質入してしまった。そのため和郎の召集解除のときは兄ではなく神山ふくが着替えの着物を用意して迎えに来た。 好景気の時代の悩むインテリ青年の苦悩を描き、新しい時代を予感させる作品となった。 偶然湯本館を訪れていた三好達治が翻訳に力を貸してくれることになった。また梶井基次郎も訪れてきて、普段は和郎の手許にはいない長男・賢樹と川遊びをしてくれた。 婦人公論の雑誌広告の内容とそれに対する菊池寛の投稿原稿を中央公論社が勝手に改題したことが紛争の原因であった。『続年月のあしおと』参照。 プロレタリア文学の流れには直接加わらなかったが、〈同伴者作家〉と呼ばれたように、社会の現実を見つめる作品を書いた。連載中に内務省と警視庁から「触れてはならない事項」十五か条(左翼運動の具体的な方法を書いてはいけない、留置場の光景を書いてはいけない、取調べの模様を書いてはいけない、作全体の上に左翼に対する同情があってはいけない等々)が指示されたという。 奈良滞在中に妻・はまから「コトバヲツツシンデクダサイ ハマ」という文学報国会での舌禍を戒める電報が届いた。
病気療養中でこの裁判に関われなかった宇野浩二から次のような電報が届いた。「ヒロツクンイマワユウコトバナシ/オメデトウヨロコンデバンザイ/ゴケンショウヲイノル/ウノコウジ」
出典
当時、八重山館グループと久米家グループの間で、総当たり戦の将棋対決があった。春原千秋『将棋を愛した文豪たち』(1994年、メデイカルカルチュア社。「野口雨情」の章) 『昭和・遠い日・近いひと』澤地久枝、文芸春秋 1997、「広津和郎 男としての誠実」pp.177-216
東郷青児、福田蘭童らも留置『東京朝日新聞』昭和9年3月17日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p614-615 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
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