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日本のサッカー選手 ウィキペディアから
岩本 輝雄(いわもと てるお、1972年5月2日 - )は、神奈川県横浜市金沢区出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。ベルマーレ平塚を皮切りに名古屋グランパスエイトを退団するまで6チーム(ベルマーレの前身、フジタを除く)に在籍した。
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名前 | ||||||
愛称 | テル | |||||
カタカナ | イワモト テルオ | |||||
ラテン文字 | IWAMOTO Teruo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1972年5月2日(52歳) | |||||
出身地 | 神奈川県横浜市金沢区 | |||||
身長 | 180cm[1] | |||||
体重 | 74kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF[1] / DF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
1988-1990 | 横浜商科大学高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1991-1997 | フジタ/ベルマーレ平塚 | 142 | (25) | |||
1998 | 京都パープルサンガ | 33 | (8) | |||
1999 | 川崎フロンターレ | 12 | (5) | |||
2000 | ヴェルディ川崎 | 9 | (0) | |||
2001-2003 | ベガルタ仙台 | 82 | (14) | |||
2004 | 名古屋グランパスエイト | 5 | (0) | |||
2006 | オークランド・シティ | 3 | (0) | |||
通算 | 278 | (48) | ||||
代表歴2 | ||||||
1994[2] | 日本 | 9 | (2) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2006年12月15日現在。 2. 1994年10月11日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
2004年に名古屋グランパスエイトを退団後、約2年間選手生活から遠ざかっていたが、2006年10月、ニュージーランドのオークランド・シティFCと契約を結び、12月に行われたFIFAクラブワールドカップのオセアニア地区代表として2試合に出場した。独身。
横浜商科大学高等学校卒業後の1991年、フジタサッカークラブに加入[3]。高校時代まではミッドフィールダーだったが、同年7月にニカノールヘッドコーチによって左サイドバックにコンバートされた[4]。元々、左サイドバックを務めていた名良橋晃を右サイドに移した上での起用となったが、当時の岩本は左足の確かな技術を有する一方で、守備については不安視をされていた[5]。一方、ニカノールは「カバーリングと1対1で負けないこと。それだけ気をつけておけ」と岩本を後押ししたという[6]。
加入初年度から出場機会を得ると1991-92シーズンのJSL2部では22試合に出場し、7得点を記録[3]。チームがJリーグ参入を逃したため1992年夏からはジャパンフットボールリーグでのプレーとなったが、右サイドバックの名良橋と共に両サイドが高めのポジションを取ることでチームを牽引し[4]、Jリーグ昇格に貢献。この当時のチームは「湘南の暴れん坊」と称された[4][6]。Jリーグ昇格後の1994年、NICOSシリーズ躍進(最終的には2位)の原動力となり、その活躍が認められ日本代表に選出された。同年、天皇杯優勝[6]。
1995年、短期留学したブラジルで右足甲を痛め、代表定着のきっかけを失った。さらにリーグ戦では左膝靱帯を傷めたため靱帯に筋を移植、半月板を一部切除する手術を2回受けたため、チームのアジアカップウィナーズカップ初制覇に帯同できなかった[3]。
ハンス・オフト監督時代の1993年、左サイドバックのレギュラーだった都並敏史が負傷したことにより代表入りが噂され、代表スタッフによりチェックを受けたが招集には至らなかった[7]。
ファルカン監督時代の1994年、日本代表に初招集され、同年5月22日に行われたキリンカップのオーストラリア代表戦で代表デビューを果たした[7][8]。
日本代表に選ばれた当初は背番号6を付け、左サイドバックでプレーした[5][7]。アシックスカップのガーナ代表戦では中盤での起用となり、7月14日に行われた第2戦では代表初得点を記録した[7][9]。
10月から広島県で行われたアジア大会では澤登正朗を抑えて10番に抜擢されたが[5][7]、自身のコンディション不良の影響で先発から外れた試合もあり、満足な活躍は出来なかった[7]。同年10月11日に行われたアジア大会準々決勝の韓国代表戦が最後の代表出場となった[7][10]。アジア大会終了後、ファルカンが解任され、加茂周が監督に就任すると、これ以降は再び代表に呼ばれることはなかった[7]。
故障の影響から、その後ベルマーレ平塚での活躍ぶりに陰りが見え始めた。そんな中、1998年に京都パープルサンガへ移籍。33試合に出場し、8得点を記録するなど復調の兆しを見せた[3]。京都を退団後は川崎フロンターレ、ヴェルディ川崎と渡り歩いたが、故障しがちでなかなかチームに定着できず[3]。V川崎では監督と対立した末、2000年5月に自主退団[5]。
その後は自主トレーニングを続けていたが、同年10月に京都時代に指導を受けた清水秀彦を頼り、ベガルタ仙台の練習に参加[5]。翌2001年、仙台に加入すると左サイドでの攻撃の軸として復活を果たし[3]、チームをJ1へと導くゴールを挙げた財前宣之へのクロスに象徴される数々のアシストを記録した[3]。特に長身FWのマルコスとの相性は抜群で、この当時は左サイドからのクロスに磨きをかけていたという[5]。
2004年、名古屋グランパスエイトへ移籍[3][11]。5月29日のナビスコカップ予選Bグループ第3節対アルビレックス新潟戦(名古屋市瑞穂公園陸上競技場)でジャンプ後の着地に失敗し、右足首を負傷し、途中交代[3]。受傷後すぐに「靱帯の一部損傷」という診断結果が出たため、しばらくして練習を再開したものの[3]、後に右足首靭帯断裂という診断を受けた[3]。8月29日の横浜F・マリノス戦を最後に試合から遠ざかり[12]、10月、12月に2回手術を受けたが回復しないまま、同年限りで名古屋を退団[12]。
手術により歩行可能にはなったものの慢性的な痛みが残り、軽く運動しただけで足首はテニスボールのように腫れたという[5]。その後はリハビリを続けながら現役復帰を目指すこととなった[3][13]。2005年夏にはメキシコに渡りデポルティーボ・トルーカFCの練習に参加するが、足首の痛みが再発したため帰国。帰国後検査すると、足首に3箇所の亀裂骨折が見つかった[14]。そこで日本代表時代のチームドクターだった武井経憲を頼ったところ、過去の手術で腱を縫い付けていた糸が中で腐っていたことが発覚し、それを取り除く手術を受けた[14]。
リハビリのかたわら芸能プロダクション三桂と契約し、タレントとしても活動をしていた[12]。
2006年、4月から6月にかけてNHK衛星放送『東海道五十三次完全踏破 街道てくてく旅』に旅人として出演。徒歩により約500kmある東海道五十三次を2か月半かけて完全制覇した[12]。本人によれば、この徒歩が結果的に良いリハビリになり、足首の状態が一気に回復したという[14]。また、4月発売のゲーム『ウイニングイレブン10』の中ではピッチレポーターとして登場している。
2008年のNHK教育テレビ『テレビでスペイン語』では得意のスペイン語を生かしてExamen(試験)コーナーでトップ賞を数多く勝ち取っている。9月11日放送分で最後を待たずに総合優勝した。
2006年8月、Jリーグのアビスパ福岡との契約交渉まで話が進展したが[12]、契約は実現せず。
同年10月、ニュージーランドのオークランド・シティと7週間の短期契約を締結した[15]。オークランド・シティはFIFAクラブワールドカップへの出場を控えていたが、岩本以外の全選手がセミプロ契約というチームだった[15]。12月のFIFAクラブワールドカップでは、途中出場ながら2試合に出場。これをもって正式に現役を引退[3]。
2009年1月、現役時代に所属していたクラブの1つである仙台がクラブの親善大使である「アンバサダー」職を新設。その初代アンバサダーに就任し、2010年まで務めた。2011年12月、横浜創学館高等学校サッカー部コーチに就任[16]。
2015年8月よりワタナベエンターテインメントとマネジメント契約することが本人のブログで明らかとなった[17]。
現役引退後は、AKB48の熱狂的なファンとしても知られるようになった。推しメンバーは小嶋菜月と大島涼花であることも公言していた。本人曰く「頭の中はサッカーが8割、AKB48が2割」とのこと。2015年9月18日にAKB48劇場で初日を迎えた岩本輝雄『青春はまだ終わらない』公演のプロデュースを行い、小嶋菜月をセンターに指名した[18]。
しかし、2019年6月26日放送の『有吉大反省会2時間SP ウソつきアイドル祭り!!』に出演し、これまで「小嶋菜月の推し」を大々的に明言していたが、実は2推しで1推しは渡辺麻友であり、「推しメン詐称」をしていたことを告白・反省した[19]。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | フジタ | 13 | JSL2部 | 22 | 7 | 0 | 0 | ||||
1992 | 旧J1 | 14 | 2 | - | 4 | 3 | 18 | 5 | |||
1993 | 10 | 1 | 4 | 3 | 1 | 0 | 15 | 4 | |||
1994 | 平塚 | - | J | 37 | 6 | 1 | 1 | 5 | 3 | 43 | 10 |
1995 | 18 | 2 | - | 1 | 0 | 19 | 2 | ||||
1996 | 17 | 3 | 9 | 2 | 3 | 0 | 29 | 5 | |||
1997 | 13 | 24 | 4 | 6 | 0 | 3 | 2 | 33 | 6 | ||
1998 | 京都 | 6 | 33 | 8 | 4 | 1 | 1 | 0 | 38 | 9 | |
1999 | 川崎 | 28 | J2 | 12 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 13 | 5 |
2000 | V川崎 | 11 | J1 | 9 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 |
2001 | 仙台 | 14 | J2 | 34 | 5 | 2 | 1 | 3 | 0 | 39 | 6 |
2002 | J1 | 22 | 4 | 6 | 0 | 2 | 0 | 30 | 4 | ||
2003 | 26 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 30 | 5 | |||
2004 | 名古屋 | 8 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |
ニュージーランド | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2006-07 | オークランド | 53 | NZFC | 3 | 0 | - | - | 3 | 0 | ||
通算 | 日本 | J1 | 191 | 32 | 33 | 4 | 15 | 5 | 239 | 41 | |
日本 | J2 | 46 | 10 | 3 | 1 | 3 | 0 | 52 | 11 | ||
日本 | JSL2部 | 22 | 7 | 0 | 0 | ||||||
日本 | 旧JFL1部 | 24 | 3 | 4 | 3 | 5 | 3 | 33 | 9 | ||
ニュージーランド | NZFC | 3 | 0 | - | - | 3 | 0 | ||||
総通算 | 286 | 52 |
その他の公式戦
その他
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1994年05月22日 | 広島県 | 広島広域公園陸上競技場 | オーストラリア | △1-1 | パウロ・ロベルト・ファルカン | キリンカップ |
2. | 1994年05月29日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | フランス | ●1-4 | キリンカップ | |
3. | 1994年07月08日 | 愛知県 | 名古屋市瑞穂公園陸上競技場 | ガーナ | ○3-2 | アシックスカップ | |
4. | 1994年07月14日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | ガーナ | ○2-1 | アシックスカップ | |
5. | 1994年09月27日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | オーストラリア | △0-0 | 国際親善試合 | |
6. | 1994年10月03日 | 広島県 | みよし運動公園陸上競技場 | アラブ首長国連邦 | △1-1 | アジア大会 | |
7. | 1994年10月05日 | 広島県 | 広島県総合グランドメインスタジアム | カタール | △1-1 | アジア大会 | |
8. | 1994年10月09日 | 広島県 | 広島県立びんご運動公園陸上競技場 | ミャンマー | ○5-0 | アジア大会 | |
9. | 1994年10月11日 | 広島県 | 広島県総合グランドメインスタジアム | 韓国 | ●2-3 | アジア大会 |
# | 開催日 | 開催地 | 会場 | 相手 | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1994年07月14日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | ガーナ | ○2-1 | アシックスカップ |
2 | 1994年10月09日 | 広島県 | 広島県立びんご運動公園陸上競技場 | ミャンマー | ○5-0 | アジア大会 |
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