安徳天皇
日本の第81代天皇 ウィキペディアから
日本の第81代天皇 ウィキペディアから
安徳天皇(あんとくてんのう、旧字体:安德天皇、1178年12月22日〈治承2年11月12日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉[1])は、第81代天皇(在位: 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)。諱は言仁(ときひと)[2]。歴代の天皇の中で最も若くして崩御した天皇。戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である[注釈 1]。
治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年)2月21日に数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った[2][6]。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った[2]。摂政には藤原基通が任じられた[2]。
即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した[2]。大嘗祭の為の大嘗宮は紫宸殿の前庭に建てられた[7]。寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする[2][8]。この後寿永2年8月20日(1183年9月8日)に三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し[9]、元暦元年(1184年)7月28日に即位[10]。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった[11][12]。このため、以降2年間、二人の天皇が並立する事態となっている。
一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、御所も造られた。昭和11年刊行の『史蹟名勝天然記念物調査報告』ではその場所を「屋島山東麓壇の浦の安徳天皇祠[注釈 3]及び其の附近なるべし」としている[13]。また、御所が造営されるまでは対岸の牟礼に今も現存する六萬寺を仮御所にしたとも伝わる。現在、六萬寺には「高松平家物語歴史館」の閉館に伴い奉納された安徳天皇、二位尼殿の等身大蝋人形が展示されている[14]。結局、安徳天皇と女官たちはこの地に2年弱滞在した。
しかし、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼、源義経)によって、平家は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北[2]。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる[15]。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平家と源氏が激突[2]。平家軍は敗北し、一門は滅亡に至る[2]。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した。母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した[3][5]。
『平家物語』「先帝身投」の描写では[16]、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている[17][18]。
神器の宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「天叢雲剣」の項目を参照のこと)。原型か形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している[19]。その後、後鳥羽~土御門天皇~順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした[11][20]。
文治元年(1185年)7月3日、九条兼実の発議により、諡号を贈ることが決まった[21]。文治3年(1187年)4月23日[21]、「安徳帝」と漢風諡号が贈られた[2][3]。平安中期から天皇号は贈られず、院号が用いられていたが、安徳のみには天皇号が贈られている。
8歳で崩御したため、后妃も皇子女もいない。未婚の男性天皇は清寧天皇・六条天皇に次いで3人目で、これ以降は例が無い[注釈 4]。
77 後白河天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
78 二条天皇 | 以仁王 | 80 高倉天皇 | 亮子内親王 (殷富門院) | 式子内親王 | 覲子内親王 (宣陽門院) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
79 六条天皇 | 某王 (北陸宮) | 81 安徳天皇 | 守貞親王 (後高倉院) | 82 後鳥羽天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
86 後堀河天皇 | 83 土御門天皇 | 84 順徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
87 四条天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 85 仲恭天皇 | 忠成王 (岩倉宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※平氏側では改元以降も寿永を使用している。
安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説がある[3]。九州四国地方を中心に全国各地に伝承地がある。
下関市伊崎町には、壇ノ浦の戦いの翌日、漁師達が網にかかった安徳天皇の遺体を引き上げて、一時的に安置したという御旅所がある。 陵(みささぎ)は、宮内庁により山口県下関市阿弥陀寺町にある阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ、阿弥陀寺陵)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。天皇を祀る赤間神宮境内に所在する。
壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊(おんれい)を鎮めるため源頼朝の命により阿弥陀寺御影堂が建てられた[2]。御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、京都方面を向いた東向きで造立された。『玉葉』によると、後鳥羽天皇の時代に長門国に安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心に厨子に収めて安置され、現在の本宮ご神体となる。その尊像の周囲に天皇を守護する平家一門10名の肖像が描かれ、その下段に位置する拝殿に安徳天皇の8年の生涯を8枚の障子絵に表した『安徳天皇縁起絵図』が飾られた。
明治時代の廃仏毀釈運動により、阿弥陀寺は廃されて、現在の安徳天皇を祀る赤間神宮となった。新たな社殿造営のため、御影堂解体が行われた際に、本殿床下に五輪塔の存在が確認されたことにより、数十箇所の陵墓の伝承地の中から、阿弥陀寺に隣接するものが陵墓とされた(赤間神宮社務所発行『源平合戦絵図』「阿弥陀寺御影堂について」1985年)。赤間神宮は安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院の見た夢[36]にちなみ、竜宮城を再現した竜宮造りとなっている。
のちに安徳天皇は、久留米水天宮(福岡県久留米市)の祭神とされて、水の神、安産の神として各地の水天宮に祀られるようになった。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.