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日本の幕臣、政治家 ウィキペディアから
大久保 一翁(おおくぼ いちおう) / 大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)は、幕末から明治時代にかけての旗本、政治家。東京府知事、元老院議官を務めた。栄典は従二位勲二等子爵。
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 文化14年11月29日(1818年1月5日) |
死没 | 明治21年(1888年)7月31日 |
改名 | 市三郎(幼名)、忠寛、一翁(隠居後) |
墓所 | 多磨霊園、本妙寺 (豊島区) |
官位 | 従五位下・志摩守、右近衛将監、伊勢守、越中守、正五位、従四位、正四位、従三位、従二位、子爵、勲二等 |
幕府 |
江戸幕府:海防掛、軍制改正用掛 蕃所調所頭取、外国貿易取調掛 駿河町奉行、京都町奉行、外国奉行 大目付、御側御用取次、会計総裁、若年寄 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂→慶喜→家達 |
藩 | 駿河国静岡藩大参事 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠尚 |
妻 | 先妻:鶴子、後妻(正室):谷子 |
子 | (先に男子3人夭折)、大久保三郎(植物学者)、大久保業(鉄道技師、測量士、溺死)、大久保立(造船学。海軍中将。業の死後、子爵家を継承) |
特記 事項 | 孫に、常陸丸事件の大久保正少尉(三郎の長男) |
文化14年(1817年)11月29日、旗本・大久保忠尚の子として生まれる。
第11代将軍・徳川家斉の小姓を勤め、天保13年(1842年)に家督を相続する。老中の阿部正弘に早くから見出されて安政元年(1854年)に目付・海防掛に任じられた。
その後も意見書を提出した勝海舟を訪問してその能力を見出し、阿部正弘に推挙して登用させるなどしている。安政3年(1856年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた。
このころ、幕閣では第13代将軍・徳川家定の後継を巡る将軍継嗣問題で対立があり、安政3年(1857年)の阿部正弘没後に大老となった井伊直弼が始めた一橋派の弾圧である安政の大獄で、忠寛は直弼から京都における志士の逮捕を命じられた。しかし忠寛は安政の大獄には否定的な考えであり、直弼の厳しすぎる処分に反対した。このため、直弼に疎まれるようになっていく。
そして忠寛の部下に質の悪い者がおり、志士の逮捕で横暴を振るっているのを知って激怒した忠寛は、この部下を厳重に処罰したが、これが直弼から志士の逮捕を怠っているととられ、奉行職を罷免された。
桜田門外の変後の文久元年(1861年)、幕府より復帰を許されて再び幕政に参与する。そして外国奉行・大目付・御側御用取次などの要職を歴任した。
政事総裁職となった松平慶永らとも交友し、第14代将軍・徳川家茂にも仕え、幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還することを提案している。第15代将軍となった徳川慶喜にも大政奉還と、諸大名、特に雄藩を中心とした議会政治や公武合体を推進した。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、若年寄・会計総裁に選出された。その後、新政府軍が江戸に向かって進撃してくると、勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力した(→江戸開城)。同年2月から5月3日まで、田安慶頼や勝義邦(海舟)と共に、江戸市中取締の任にあたった[1]。
その後、徳川家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当した。
明治政府では東京府の第5代知事、並びに政府の議会政治樹立などに協力した。明治21年(1888年)7月31日に死去。享年72。
※1872年(明治5年)までは旧暦
※参考資料:大日本近世史料「柳営補任」、国立国会図書館:近代デジタルライブラリー「桜園集」、大久保一翁伝(戸川安宅(残花)編「旧幕府:合本一」原書房 1971年発行所収の中の第三号)
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