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古墳時代の古墳の上に樹立された焼き物。円筒埴輪と形象埴輪に大別される。 ウィキペディアから
埴輪(はにわ)は、古墳時代の日本の特有の器物。一般的には土師器に分類される素焼き土器である[注 1]。祭祀や魔除けなどのため、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた。日本各地の古墳に分布している。
埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した。大きく円筒埴輪と形象埴輪の2種類に大別される。
円筒埴輪は、普通円筒(最も基本的な土管形のもの)[2]・朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪などに細分される。墳丘を取り囲む周提帯の上や、墳丘頂部、墳丘斜面に設けられた段部(テラス状の平坦面)に横一列に並べられた。
形象埴輪は、家形埴輪・器財埴輪・動物埴輪・人物埴輪の4種に区分され、墳丘頂部の方形基壇や、造出と呼ばれる墳丘裾の基壇状構造物の上に立て並べられた。形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などの復元が可能である。なお、「壺形埴輪」と呼ばれるものについては、壺という器物を表しているため形象埴輪とも言いえるが、歴史的には弥生時代の「特殊壺」が埴輪化していったものであるため(円筒埴輪と一体化して朝顔形埴輪にもなった)、他の形象埴輪群とは起源や系統が大きく異なり、円筒埴輪に類するとされている[3](埴輪の起源については後述)。
埴輪の構造は基本的に中空で、粘土で紐を作り、それを積み上げていきながら形を整えて作った。時には、別に焼いたものを組み合わせたりしている。また、いろいろな埴輪の骨格を先に作っておき、それに粘土を貼り付けるなどした。型を用いて作ったものはない。中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色顔料が塗布された。畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったが、関東地方では形象埴輪に様々な彩色が施されている。
埴輪の起源は、考古学的には吉備地方の墳丘墓に見られる特殊器台・特殊壺にあるとされ、それらから発展した円筒埴輪と壺形埴輪がまず3世紀後半に登場し、次いで4世紀に家形・器財形・動物形(鶏)が出現し、5世紀以降に人物埴輪が作られるようになったという変遷過程が明らかとなっている[4][5][6]。
3世紀後半になると、前方後円墳(岡山県岡山市都月坂1号墳、奈良県桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号墳)から最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している[注 2]。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。最古の埴輪である都月型円筒埴輪と、最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とは同じ墳墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていた。ただ一例、兵庫県たつの市の権現山51号墳では後方部石槨から三角縁神獣鏡が5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されている。
なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、前方後円墳に宮山型の特殊器台・特殊壺が採用されていることは、吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている(吉備勢力の東遷説もある)。
一方、文献上では『日本書紀』の垂仁天皇32年条に、野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したところ、天皇が喜びその通りにしたとする記述があり、これが埴輪の始まりとされる。「埴輪」という名称もこの記事に登場する[7]。しかし、『日本書紀』にあるこの記述は考古学研究で明らかにされた埴輪の変遷とは一致せず[7][8]、人身御供の代替として埴輪が誕生したとする説は、野見宿禰の後裔を称し、古墳造営や葬儀を職掌としていた土師氏が後世に創作した伝承と考えられる[9][10][注 3]。
古墳時代前期初頭(3世紀中葉〜後葉)には、吉備地方において円筒形・壺形、少し遅れて器台と器台に乗せた壺が一体化した形の朝顔形埴輪などの円筒埴輪が見られた。これら筒形埴輪は、地面に置くだけではなく、脚部を掘った穴に埋めるものへと変化した。前方後円墳の広がりとともに全国に広がった。
前期前葉(4世紀前葉)には、これらの埴輪とは別の系統に当たる家形埴輪のほか、蓋(きぬがさ)形埴輪や盾形埴輪をはじめとする器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れた。初現期の形象埴輪については、どのような構成でどの場所に建てられたか未だ不明な点が多い。その後、墳頂中央で家型埴輪の周りに盾形・蓋形などの器財埴輪で取り巻き、さらに円筒埴輪で取り巻くという豪華な配置の定式化が4世紀後半の早い段階で成立する。そこに用いられた円筒埴輪は胴部の左右に鰭を貼り付けた鰭付き円筒埴輪である。
さらに、古墳時代中期中葉(5世紀中ごろ)からは、巫女などの人物埴輪や家畜である馬や犬などの動物埴輪が登場した。埴輪馬は裸馬のものと装飾馬があり、装飾馬は馬具を装着した姿で表現される。群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳は保渡田古墳群に含まれ、5世紀後半代の前方後円墳で、馬や鶏、猪など多くの動物埴輪が出土している[12]。保渡田八幡塚古墳から出土した鵜形埴輪は首を高く上げ口に魚を加えた鵜の姿を形象しており、首には鈴のついた首紐が付けられ、背中で結ばれる表現も残る[12]。鵜形埴輪の存在から、古墳時代には祭礼や行事としての鵜飼が行われていた可能性が考えられている[12]。
またこの頃から、埴輪の配列の仕方に変化が現れた。それは、器財埴輪や家形埴輪が外側で方形を形作るように配列されるようになった。あるいは、方形列を省略することも行われている。さらに、靭形埴輪の鰭過度に飾り立てるようになったり、家型埴輪の屋根部分が不釣り合いに大型化したりするようになる。
畿内では古墳時代後期(6世紀中ごろ)、次第に埴輪は生産されなくなっていく。しかし、関東地方においては、なおも埴輪の生産が続けられた。なかでも、埼玉県鴻巣市の生出塚埴輪窯跡は当該期の東日本最大級の埴輪生産遺跡として知られる。
近代的考古学研究が始まる前の江戸時代にも、日本各地で埴輪が出土することがあり、中には写実性に欠けるものもあるが絵図や記録が作成された。現在、こうした江戸時代の古記録は埴輪の研究史上の重要な資料であり、文書記録だけが残り現物が伝わっていない埴輪もあることから、各地の郷土資料としても貴重である。当時は埴輪と呼称せず、
明治に入り、近代的な考古学研究が開始されると、円筒埴輪の機能的意義についての研究も始まった。なおこの頃には埴輪土偶という呼称が使われている[14]。1888年(明治21年)から1901年(明治34年)にかけて坪井正五郎は埴輪円筒(円筒埴輪)について、表面に縦向きに入った無数の筋目模様「刷毛目(ハケメ)」[注 4]に注目し、土留から生じた柴垣模倣説を提唱し[14][16]、異論を唱える和田千吉や[17]、光井清三郎[18]らと論争した。同じころ、瓦片生は、坪井の柴垣模倣説を認めつつハケメや焼き上がりの差異などから、埴輪の大まかな新旧関係=編年を把握する試みをしており[19]、この時期の学史において特筆すべき成果とされる[20]。
円筒埴輪の柴垣説論争が明確な決着を見ずに停止した後、大正から昭和初期にかけては形象埴輪についての研究も盛んになった。高橋健自の研究を引き継いだ後藤守一は、1931年(昭和6年)発表の論文「埴輪の意義」にて、埴輪に表現される服飾や装備品、所作から分類を行い、個々の埴輪の表す職掌的性格について分析した。人物埴輪ではよく知られた埼玉県野原古墳群出土の2体の埴輪を『踊る男女』と命名したのもこの頃である。また古墳に樹立される形象埴輪群(埴輪群像)に対し、古墳に葬られる首長(豪族)を送る葬儀、葬列を表すものではないかとして、形象埴輪のもつ具体的な意義・解釈にも初めて言及した[21]。その後1958年(昭和33年)に小林行雄は、それまで美術・芸術学的視点に寄り気味だった形象埴輪研究で考古学的な分析を進展させ、形象埴輪には種類によって出現時期に差異があることを指摘し、編年的視点を与えた[22]。
1967年(昭和42年)には近藤義郎と春成秀爾により円筒埴輪の研究で新たな知見が提示され、円筒埴輪が弥生時代後期後葉(2世紀後半)の吉備(岡山県)地方の弥生墳丘墓(楯築墳丘墓など)で出土する特殊器台・特殊壺(特殊器台型土器・特殊壺型土器とも呼ばれる)を祖源とし、3世紀後半までに成立してきた変遷過程が示された[5]。
1971年(昭和46年)には形象埴輪の研究として、水野正好が群馬県保渡田八幡塚古墳の形象埴輪配列の構造を検討した「埴輪芸能論」を発表し、埴輪群像を「王権継承儀礼」を表したものとする説を唱えた[23]。
1978年(昭和53年)、円筒埴輪の編年研究の不足を指摘した川西宏幸が「円筒埴輪総論」を発表した。川西は、円筒埴輪の持つ突帯(タガ)の形状や調整(ハケメ)の向きなどの諸属性を分類・検討し、ハケメ調整として断続的な「A種ヨコハケ(工具が表面から複数回離れる)」、継続的な「B種ヨコハケ(工具を離さないが静止痕が残る)」、連続的な「C種ヨコハケ(工具を離さず一周させる)」、「タテハケ」を見出だし、編年基準とした。また表面の「黒斑」の有無により、須恵器生産技術として伝来した窯の導入時期を画期とするなどして、I〜V期の年代区分を与え、全国的な埴輪編年を構築した[24][25]。この円筒埴輪編年は天皇陵古墳などを含む全国の古墳の年代決定の基準ともなり、古墳研究を活性化させ現代の学界でも支持される成果となっている[26]。
これ以降も、1988年(昭和63年)に器財埴輪についての編年を提示した高橋克壽の研究や[27]、人物埴輪の型式学的分析から既存の分類名称や理解を再検討した塚田良道の研究(踊る埴輪が馬飼に分類される事を指摘した)などがある[28][29]。
「埴輪芸能論」で知られる保渡田八幡塚古墳の整理報告書をまとめた若狭徹は、八幡塚古墳の埴輪配列には首長権継承儀礼の意味だけでなく、複数の場面が存在するという新たな解釈を加えた[30]。
このほか犬木努らにより、関東地方出土の円筒・形象埴輪のハケメ調整痕を分析し、同一の工人(あるいは同一工具)の手による埴輪作品を特定し、埴輪製作の実態を明らかにする研究などが行われている[31]。
元々、吉備地方に発生した特殊器台形土器・特殊壺形土器は、墳墓上で行われた葬送儀礼に用いられたものであるが、古墳に継承された円筒埴輪は、墳丘や重要な区画を囲い込むというその樹立方法からして、聖域を区画するという役割を有していたと考えられる。
家形埴輪については、死者の霊が生活するための依代(よりしろ)という説と死者が生前に居住していた居館を表したものという説がある。古墳の埋葬施設の真上やその周辺の墳丘上に置かれる例が多い。
器財埴輪では、蓋が高貴な身分を表象するものであることから、蓋形埴輪も同様な役割と考えられているほか、盾や甲冑などの武具や武器形のものは、その防御や攻撃といった役割から、悪霊や災いの侵入を防ぐ役割を持っていると考えられている。
人物埴輪や動物埴輪などは、行列や群像で並べられており、葬送儀礼を表現したとする説[21]、生前の祭政(首長権継承儀礼)の様子を再現したとする説などが唱えられている[23]。このような埴輪の変遷は、古墳時代の祭祀観・死生観を反映しているとする見方もある。
普通切手の意匠
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