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大阪府藤井寺市にある古墳 ウィキペディアから
津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)は、大阪府藤井寺市にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群(世界文化遺産)を構成する古墳の1つ。
津堂城山古墳 | |
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上空から見た城山古墳(1961年当時)。古墳周囲の住宅の並び方で外側周濠の存在がわかる。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 | |
所属 | 古市古墳群 |
所在地 | 大阪府藤井寺市津堂 |
位置 | 北緯34度34分55.26秒 東経135度35分36.33秒 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長208m 高さ16.9m |
埋葬施設 |
竪穴式石室 (内部に長持形石棺) |
出土品 | 埴輪・銅鏡・玉類・鉄鏃等 |
築造時期 | 4世紀後半(370年頃[1][2]) |
被葬者 |
(宮内庁推定)第19代允恭天皇 (一説)日本武尊 |
陵墓 | 宮内庁治定「藤井寺陵墓参考地」 |
史跡 |
国の史跡「城山古墳」 (「古市古墳群」に包含) |
特記事項 | 全国第31位の規模[3] |
地図 |
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「藤井寺陵墓参考地」(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定されている。また国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳の全長は400m以上になる。
これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代には古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。明治初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に、神社に建立する石碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴式石室と巨大な長持形石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。そのため、後に「藤井寺陵墓参考地」に治定された。
1980年に大阪府教育委員会が、1983年には藤井寺市教育委員会が発掘調査を実施。造り出しや二重の周濠(中堤幅30m、外濠25m)、石葺の外側堤(幅20m)の存在が確認された。また、周濠内の前方部左右近くの島状遺構(方墳形の祭壇)からは3体の水鳥形埴輪が出土。このほかにも衝立型や家形・盾形・衣蓋形、靫型の埴輪、円筒型など多彩な形象埴輪が発見された。
これらの内、複数の周濠や堤などの建築様式は誉田御廟山古墳や大仙古墳をはじめとする5世紀以降の大王墳の基本形態として継承されており、本古墳はその起源と見なすことができる事から大和から河内へと古墳築造が移った初期の大王の陵墓ではないかと考えられている[4]。しかし同時期に墳丘単体の規模で当古墳を大きく上回る五社神古墳が佐紀の地に築かれている事や、馬見地域で築山古墳や巣山古墳といった同等規模の古墳が多数営まれている事などを踏まえ、大王墳と見なすのは難しいとする説もある[5][6]。
1958年1月21日に国の史跡に指定。2001年1月29日には、個々の古墳の指定を統合した古市古墳群全体として史跡に指定されている。
大王墳とする説を支持し、尚且つ記紀の内容を重視する立場の研究者の何名かは、初めて河内に埋葬された大王として記述された仲哀天皇を被葬者の候補として提案している[7][8][9]。
森浩一は古墳から出土した水鳥形埴輪と記紀の伝承との間に関連を見て、仲哀天皇の父で死後に白鳥となって天に昇ったとされるヤマトタケルの三つの墓の一つである可能性を指摘した[10][11]。また、古墳の築造者としては仲哀天皇の息子で神功皇后と誉田別皇子(応神天皇)に対して反乱を起こした忍熊王を挙げている[12]。宮内庁は軽里大塚古墳を記紀に語られたヤマトタケルの墓に定めているものの、考古学上の編年では5世紀後半の築造であると推定されているため、それよりも1世紀ほど年代が古く、尚且つヤマトタケルの父である景行天皇の陵とされる渋谷向山古墳の築造年代とも近接する本古墳の方が伝承にある墓として相応しいと考えられる。
豪族間での王権移動を重視する立場からは応神天皇の妃の父として記される品陀真若王の名が挙げられる。塚口義信は津堂城山古墳を王権の中枢が河内に移動する直前にその一帯の中小豪族を束ね、後に外戚として誉田別尊の一族と結びついて王権を掌握する礎となった大豪族の墓と考えており、品陀真若はこうした豪族間の繋がりが天皇家の系譜へと整理される中で一人の皇族という形に反映された姿と捉える[13]。また、品陀真若王は系図上景行天皇の孫にも相当するため、河内の勢力が4世紀前半に王権を握っていた三輪山周辺の勢力とも繋がりを有していた可能性も指摘している[14]。
周濠を通って墳丘へと至る道筋はいくつかあり、自由に立ち入ることができるため、古くから子供の遊び場や近隣の人々の憩いの場となっている。ただし、後円部墳丘の頂上部は金網で囲まれ、宮内庁が陵墓参考地として管理しているため立ち入ることができない。
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