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日本の人類学者。 ウィキペディアから
坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日[1])は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学・人類学の普及と確立に尽力した。坪井信道の孫で、坪井信良の子。
蘭方医・坪井信道の孫として江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた[2](父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。1877年大学予備門に入り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業[3]。同年、東京人類学会を結成[4]。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学理科大学助手[5]。翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授[5]。遠縁にあたる民間の研究家・林若樹がこの頃から助手として出入りする[6]。同年蘭学者箕作秋坪の長女・直子と結婚。1899年理学博士の学位を授与された[7]。
日本の人類学の先駆者であり、アイヌ民族の伝承に出てくるコロボックルに関する論争に加わり実在説を擁護[8]、日本石器時代人=コロポックル説を主張したことで知られている。
1903年の第5回内国勧業博覧会では学術人類館に協力した(詳しくは人類館事件を参照)。1913年、第5回万国学士院大会出席のため滞在していたロシア・サンクトペテルブルクで、急性穿孔性腹膜炎のため客死[9]。墓所は染井霊園。
人類学の創始者として鳥居龍蔵などを育てる。柳田国男と南方熊楠を結びつけ、また、三越のブレーン「流行会」メンバーとして玩具の開発でも功績を残した。
「人類学者、考古学者の坪井正五郎」 坪井正五郎(1863 - 1913)は東京帝国大学理科大学教授で、人類学教室を主宰。民俗学、考古学までを含むイギリス流の幅広い人類学を提唱し、草創期考古学の指導者として活躍。日本石器時代人について、コロボックル説を唱えた。趣味人としても知られ、玩具の研究、蒐集に関心を持ち、清水晴風(1851 - 1913)、巌谷小波 (1870 - 1933)ら玩具愛好家たちと交遊し大供会に参加。玩具を中心とする児童文化運動を推進した。 狂歌や戯文などにも長じ、「遺跡にてよき物獲んとあせるとき心は石器胸は土器土器」などの句を残した。土偶や石器の絵あり。「坪井正五郎本郷駒込西片町十番地ほ十三」と書かれた名刺が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「人類学者、考古学者の坪井正五郎」より抜粋[10]
妻の直子は箕作阮甫の孫娘で、義兄に箕作佳吉、菊池大麓らがいる。正五郎は坪井信道の孫で、信道は岐阜中納言織田秀信の5世先の孫、織田信長の7世先の孫と伝わる。
正五郎・直子夫妻は2男2女をもうけた。地質学者・鉱物学者・岩石学者の坪井誠太郎は長男、地球物理学者の坪井忠二は次男。長男の岳父に平山信、二男の岳父に島薗順次郎。また、長女・春は西田正三に、次女・菊は佐谷台二に嫁いだ。物理化学者の坪井正道は正五郎の嫡孫(誠太郎の長男)。遠縁に坪井九馬三がいる。
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