Loading AI tools
江戸時代前期の高家旗本 ウィキペディアから
吉良 義央(きら よしひさ[1]、寛永18年9月2日〈1641年10月6日〉- 元禄15年12月15日〈1703年1月31日〉)は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。元禄赤穂事件の中心人物の一人。題材をとった創作作品『忠臣蔵』では、敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
木造吉良義央像(華蔵寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛永18年9月2日(1641年10月6日) |
死没 | 元禄15年12月15日(1703年1月31日) |
改名 | 三郎(幼名)→義央 |
別名 | 左近(通称)、卜一(ぼくいち、号) |
墓所 | 万昌院功運寺、片岡山華蔵寺 |
官位 |
従四位下・侍従兼上野介、従四位上 左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府奥高家、高家肝煎 |
氏族 | 吉良氏(清和源氏足利氏流) |
父母 | 父:吉良義冬、母:酒井忠勝の姪(忠吉の娘) |
兄弟 |
東条義叔、東条義孝、 東条冬貞、東条冬重、孝証 |
妻 | 正室:上杉綱勝の妹・富子(梅嶺院) |
子 |
上杉綱憲、三郎、鶴姫(島津綱貴室) 振姫、阿久利姫(津軽政兕室) 菊姫(酒井忠平室→大炊御門経音室) 養嗣子:義周(実孫〈実子である上杉綱憲の二男〉) |
吉良義冬の子。父の跡をついで4200石の高家となり、後に高家肝煎に列し、官位は従四位上左近衛少将まで登ったが、1701年3月14日に指南していた勅使饗応役の播磨赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)から遺恨ありとして江戸城内で殿中刃傷を受け、浅野は改易・切腹となるも吉良は咎めのないまま隠居した[2]。この両者に対する処分について不満をもった浅野長矩遺臣の大石良雄(内蔵助)以下赤穂浪士は1702年12月14日に江戸本所松坂町にあった吉良邸に討ち入り、義央の首級をあげて泉岳寺の浅野長矩の墓前に供え、その後お預かりとなった各藩江戸屋敷で切腹した[3]。養子の義周が継いでいた吉良家4200石は改易となった[4]。
諱「義央」のヨミは、従来は「よしなか」とされていた[1]。しかし『易水連袂録』における振り仮名から、現在では「よしひさ」が正しいと判明している[1]。
領地は三河国幡豆郡吉良庄、岡山、横須賀、乙川、饔場、小山田、鳥羽、宮夾の八箇村の3200石、上野国緑野郡の白石村、碓氷郡の人見村、中谷村の三箇村の1000石、計4200石。
本姓は源氏。清和源氏足利家支流。鎌倉時代に足利家から足利宗家継承権をもったまま分家した支族(長男でありながら母が側室であるため足利宗家を継承できなかった為に宗家継承権を持ったまま分家するという特例措置)であり、後に足利家が将軍家へと栄達した室町時代には足利将軍家が途絶えた際には次に吉良氏から将軍を輩出すると言われた程の名門であった。曾祖父吉良義定は徳川家康の従兄弟であった。室町時代中期までの三河の守護は一色氏であったが一色氏が更迭されたのちは吉良氏が三河の旗頭として土豪らから推戴されていた。松平氏の代々に編諱を与えるなど、のちの徳川家とは特別の関係にあった。徳川家康が源氏を名乗る際には、吉良氏の家系図を借用したとも言われる[5]。徳川幕府により旗本3000石(後に4000石)に取り立てられた家格の出自である。家紋は丸に二つ引・五三桐。足利家が上杉家と縁続き(足利尊氏の母が上杉家出身)であるため代々足利一族と上杉家は婚姻外交を繰り返しており、その関係で吉良家も上杉家とは古来からの縁者である。
寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本・吉良義冬(4,200石)と大老・酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。一説によれば、陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれともされる。義冬の母及び父方の祖母が高家今川家出身で、今川氏真と北条氏康の娘・早川殿の玄孫、武田信玄の傍系の子孫である。継母は母の妹。
弟に東条義叔(500石の旗本)、東条義孝(切米300俵の旗本)、東条冬貞(義叔養子)、東条冬重(義孝養子)、孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の5人がいる。妹も2人おり、うち1人は安藤氏に嫁いだ。
承応2年(1653年)3月16日、将軍・徳川家綱に拝謁。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従兼上野介に叙任(位階が高いにもかかわらず、上野守でなく上野介であることについては、親王任国を参照)。
万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。
『上杉年譜』では「万治元年3月5日、柳営において老中・酒井忠清、松平信綱、阿部忠秋列座のなか、保科正之から三姫を吉良上野介へ嫁がせるべき旨を命じられたことを千坂兵部が(綱勝に)言上した」と幕命による婚儀と記している。
富子との間に二男四女(長男・三之助、次男・三郎、長女・鶴姫、次女・振姫、三女・阿久利姫、四女・菊姫)に恵まれた。ただし次男・三郎と次女・振姫は夭折。
万治2年(1659年)から父とともに出仕する。部屋住みの身分ながら、家禄とは別に庇蔭料(ひいんりょう 家督を継いでいない部屋住の給与)1,000俵が支給された。
寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜る。翌3年(1663年)1月26日、識仁親王御践祚(霊元天皇)の儀に列して祝賀申し上げた。2月3日、参内して霊元天皇に発洛の御挨拶申し上げ、土佐派の絵に右大臣・大炊御門経孝が歌詞を書した「三十六歌仙絵巻」を賜る。(本記事「遺品」の項も参照)
以降、生涯を通じて年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛した。父の義冬がまとめた吉良流礼法の後継という立場から、部屋住みの身でありながらも使者職を任じられており、通算24回もの上洛は高家の中でも群を抜いている。こうした扱いは、徳川家が新しく武家の礼法を欲していた為ともいわれている。
寛文3年(1663年)1月19日、後西上皇の院政の開始に対する賀使としての2度目の上洛の際、同年2月3日、22歳にして従四位上に昇叙。
寛文4年(1664年)閏5月、義兄・上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために米沢藩が改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男・三之助を上杉家の養子(上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。綱勝急死は義央による毒殺説が存在するが、これは上杉家江戸家老・千坂高房らと対立して失脚した米沢藩士・福王子八弥の流言飛語とも言われ、毒殺説の信憑性は乏しいとされている。
以後、義央は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、財政支援をさせたほか、3人の娘達を上杉家の養女として縁組を有利に進めようとした。長女・鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女・阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政兕の室、四女・菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている(鶴姫は1680年11月20日に綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家・大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。
寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。
延宝8年(1680年)8月29日、高家の極官である左近衛権少将に転任し、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴に嫁いでいた鶴姫が離縁される。天和3年(1683年)3月には大沢基恒、畠山義里とともに高家肝煎に就任した。貞享3年(1686年)に領地のあった三河国幡豆郡に黄金堤を築いたという伝承があるが、実際に義央が築堤したという信憑性は乏しいとされている。
また、長男・綱憲の上杉家入り以後、嫡男は次男・三郎だったが、貞享2年(1685年)9月1日に夭折。綱憲や幕府とも協議の末、綱憲次男の春千代を吉良左兵衛義周と改名させて養子とし、元禄3年(1690年)4月16日に江戸鍛冶橋の邸宅へ迎え入れた。同4年(1691年)、上洛して東山天皇の謁見を賜り、賜盃や白銀十両を拝領している。その帰路、オランダ商館付きのドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルと行きかう際に駕籠から降りてすれ違い、医師は「彼は内裏から勅使下向の準備の為に、江戸へ急ぐ名代であり、立派な人物であった」と書き記している[6][7]。
元禄11年(1698年)9月6日、勅額火事により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建する。この大火で消防の指揮をとっていたのは播磨赤穂藩主・浅野長矩であった。
元禄14年(1701年)2月4日、赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主・伊達村豊両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの御馳走人を命じられた。義央は高家肝煎饗応差添役だったが、朝廷への年賀の使者として京都におり江戸に帰着したのは2月29日だった。長矩は過去に1度、勅使御馳走人を経験していたのだが、以前とは変更になっていることもあって手違いを生じていた。ここに擦れ違いが生じた、と見る向きもある。
3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられ、義央は高家・品川伊氏、畠山義寧らによって別室へ運ばれた。外科医・栗崎道有の治療もあって命は助かったものの、額の傷は残った。その後、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、長矩を取り調べた目付多門重共の『多門筆記』によると、義央は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えている(多門筆記は事件のだいぶ後に書かれたもので、他者の作も考えられる)。長矩は、即日切腹を命ぜられた。「乱心」ならば長矩は蟄居または流罪、長矩の弟で養子の大学長広による家督継承で済み(過去の事例からみて)助命された可能性が高い。
義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命[8]。受領は9月3日であった。当時の本所は江戸の場末で発展途上の地であった。なお旧赤穂藩士との確執が噂され、隣家の阿波富田藩蜂須賀飛騨守(隆重)から吉良を呉服橋内より移転させるよう嘆願があった[注釈 1]というが、蜂須賀家文書には記述が見られず、後世になって流された風評とされる[10]。
また、屋敷替えに富子は同道していなかったといわれてきたが、義央も隠居し、養嗣子の義周に家督を譲って以降は、妻の富子らと共に上杉屋敷などに住み、本所屋敷には常住していなかったことが『桑名藩所伝覚書』・『江赤見聞記』・『忠誠後鑑録』などの複数の史料によって判明している。
この屋敷替えに合わせるように、8月21日、大目付の庄田安利、高家肝煎の大友義孝、書院番士の東条冬重など、義央に近いと見られた人物が「勤めがよくない」として罷免されて小普請編入となっている。
12月11日、義央は隠居願いを提出した。これは即座に受理された。養嗣子・義周が家督を相続した。元禄15年(1702年)7月に浅野長矩の弟・長広が浅野本家に預かりとなった。
これと前後して茶人・山田宗徧は本所に茶室を構えていたので、義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。横川宗利は吉良邸の茶会が開かれる日を茶坊主の手紙を盗み読みして「茶会は十四日」と大石に報告している。
義央は養嗣子の義周に家督を譲って以降、上杉屋敷などに住み、本所屋敷には常住していなかったため、常に上杉の兵達に守られている状況にあった。そのため、義央が上杉屋敷を離れ、本所の吉良邸で茶会を行うこの日を元赤穂藩筆頭家老・大石良雄は討ち入り日に決定した。
12月15日未明に、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。当時の吉良邸には、諸説あるが『桑名藩所伝覚書』に「上杉弾正様より吉良佐平様へ御附人之儀、侍分之者四十人程、雑兵共百八十人程参居申候よし」とあるように、上杉家(米沢藩)から220人ほどが派遣されていて、義央の警固にあたっていたとされる。
討ち入った赤穂浪士はまず、家臣達が寝起きする長屋の戸口をかすがいで打ちつけ、吉良家の家臣達が出られないように工作を行った。 そのため、戸口を破って応戦したり、逃亡した者数名を除いて、長屋から出なかった者達(用人1人、中間頭1人、徒士の者5人、足軽7人、中間86人)と赤穂浪士らに抵抗しなかった裏門番1人の合計101人には、死傷者は出なかったとされる[11]。
赤穂浪士らの襲撃に気づいた吉良家の者達は、この時の当主・義周をはじめとした吉良家臣40名ほどが防戦にあたり[12]、その間に、義央は寝所から二人の供を連れて、台所横の炭小屋に隠れた。赤穂浪士らは吉良家の家臣達と戦いながら義央の捜索にあたったものの、容易に見つけることはできなかった。しかしながら、義央の寝所にたどり着いた赤穂浪士のうち、茅野和助が夜具に手を入れ、まだ夜具が温かい事を確認すると、赤穂浪士らは義央が寝所から離れてそう時間が経っていないと判断し、再び捜索にあたった。
そして、吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中へ入ろうとした。すると、炭小屋にあった皿鉢や炭などが投げつけられ、赤穂浪士らに向かって2人の吉良家臣が斬りかかってきた。そのため、その二人を切り伏せ、炭小屋内を調べると、奥で動くものがあり、間光興が槍で突いた。間光興が突いたのは、寝所から逃げてきた白小袖姿の義央で、義央は脇差を抜いて抵抗したが、武林隆重に斬殺され首を取られた。享年62(満61歳)。
そして、義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられた後、箱に詰められて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へと送り返し、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内がこれを受け取った。この時の二人の連署が書かれている、吉良の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が義央の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、義央は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。
この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。
元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[13]。切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[14]。複数の義士で介錯の失敗があり(大石・潮田・武林・近松・杉野など)[15]、二度斬りをしたため血が散乱したという伝承の「血染めの石」が泉岳寺にある。
当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[13]。毛利家では扇子を出し幕閣御目付から叱責された[16]と記録されている。
赤穂浪士らの切腹が行われた同日、元禄16年(1703年)2月4日、吉良義周は荒川丹波守(御寄合)、猪子左太夫(御先手)が同伴し、評定所へ呼び出され、仙石伯耆守(大目付)より「仕形不届」として、領地召上のうえ、信濃諏訪藩(高島藩)の藩主、諏訪忠虎へお預けの旨が申し渡された。そして、その身柄は高島藩士の沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平四郎に渡されたことなどが『上杉家御年譜』などに見える[17]。
幕府が義周をこのように処分した理由としては、幕府の裁定により、父・吉良義央が松の廊下での事件の際に内匠に対し卑怯の至りな振る舞いをし、赤穂浪士討ち入りの時も未練のある振る舞いをしたため、「親の恥辱は子として遁れ難く」として、父である吉良義央に代わって吉良義周が責任を取ることとなったこと[18]。そして、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った際の義周の対応、義周が自ら武器をとって赤穂浪士達に応戦したが、不破正種に面と背中を斬られ、そのまま気絶していたことなどに対して幕府評定所が「不届き」としたためであった。そして、その後、宝永3年(1706年)に義周が死去したため、高家としての吉良家は断絶となった。
その後の吉良庄は、西尾藩のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、天領といった様々な領主が統治する。吉良義央の弟・東条義叔は、兄の死後、吉良の祭祀[注釈 2]などは継承したが、知行500石は武蔵国児玉郡と賀美郡内にあり、吉良庄と直接の関係がなくなっている[19]。
赤穂事件以来、三河吉良家が断絶していたため、武蔵吉良家の義俊は、姓を蒔田[注釈 3]から吉良に戻す許可を幕府に求め、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。これにより三河吉良家は途絶えたまま、武蔵吉良家が高家を次ぐことになった。幕末の当主・吉良義常は朝臣に転じるとともに中大夫席を与えられた[20]。
一方、義央の弟にあたる義叔は旗本として東条姓を名乗っており、その息子の東条義武の末期養子であった義孚が、享保17年(1732年)に、義央の家系が絶えていることを理由に東条家から吉良家への復姓を幕府に願い出て許された。この再興吉良家には高家の格式は与えられなかった。歴代当主は吟味与力や西の丸書院番などを務めた。
吉良義央の血脈は上杉家・大炊御門家・鷹司家・畠山家・一条家・東伏見家などに伝わり、21世紀の令和の御代まで存続している。吉良氏も二家(旗本と高家)続いているが、どちらも義央の子孫ではない(弟・義叔の子孫と別家・義俊の子孫)。
元禄16年(1703年)の元禄大地震とそれの6日後に起きた大火で、吉良邸があった周辺の武家地や町人地は壊滅状態になり、本所の人々は吉良の怨霊が現世にとどまり祟りをなしたと噂した[25]。その復興のときに吉良邸跡の中島伊勢(小林央通の曾孫・葛飾北斎の養父[26])の拝領地に義央の鎮魂と供養の為に吉良神社[27]が建てられている。また、呉服橋の屋敷は北町奉行所が使用、鍛冶橋内の屋敷跡には松前家の上屋敷が営造された。
忠臣蔵成立のはるか以前、義央の生前から浅野の刃傷沙汰は「東山栄華舞台」や「傾城八花形」等で劇化されたと言われており、それらが当時から義央の悪評が各地で広がっていた要因の一つとなったと考えられる。
忠臣蔵の悪役として有名な義央の評価は全国的には芳しくない。もっとも忠臣蔵が上演される以前から、義央が行っていた長矩に対するいじめの話は広く世間に知られていたようであり、また義央が浅野長矩以外の御馳走人にもいじめを行っていたという逸話も下記のごとく残っている。
若狭国小浜藩主・酒井忠囿は、松之大廊下で義央が刃傷を受けると、見舞いの使者として鈴木団右衛門を派遣している[33]。 播磨国林田藩主・建部政宇は、伏見奉行の時には、京都山科に隠棲した大石良雄の動向を警戒している[34]。
上杉家(米沢藩)家臣たちからの評価も芳しくなかった。それは上杉家では義央の長男・三之助(後の上杉綱憲)が上杉家の養子となって以降、吉良家の買掛金や普請を負担し、支払うのことが多々あったためである。
なお、当時の上杉家の江戸家老の色部安長の知行(石高)は1666石。色部安長の前任で江戸家老を務めた千坂高房は1565石。上杉家で色部氏と共に最上位に遇され、米沢藩が削封されてから福島城代から代わって鮎貝城代(御役屋将)を命ぜられ、上杉家の軍大将(軍奉行)も兼ねた本庄政長は1666石だったので、当時の上杉家で最上位に位置していた、これら上士(上級藩士)の三家を合わせた石高よりも更に多い俸禄を上杉家は毎年、吉良家に仕送りしていたということになる。
上記のように、上杉家は吉良義央の長男を養子とすることで改易を免れたという立場上、そして義央の息子である上杉綱憲が藩主となったことなどから、所領が半減されるなどの苦しい藩財政にありながらも吉良家に対して何かと支援し、金銭を工面しなければならなかった。そのため、吉良家に対して、多額の肩代わり・資金援助を行わなければならなかった当時の上杉家の江戸勘定方、須田右近は国元の米沢藩にあてた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と書き残している[40]。また、それらに加え、経済的に逼迫していた上杉家では、天和3年(1683年)4月に、将軍家へ「倹約」を正式に申し出、藩財政が逼迫していたため、幕府や諸大名家との交際を倹約した[41]。更に、藩では平日の音信贈答を禁止し、婚礼であっても一汁三菜におさえることなどが命じられたが、同年の11月には、上杉家の江戸における買掛金は1万2千両に達した[41]。
すでに義央の娘、鶴姫と島津綱貴とは1680年に離縁しているが、陽和院は驚き能動的な反応を示している。また、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴から離縁された鶴姫はその後、実家の吉良家には戻らず、養家であり、弟である上杉綱憲のいる上杉家に戻り、上杉家白金屋敷で暮らした[要出典][43]。
松の廊下での刀傷事件が伝わった当時の朝廷の反応・様子を伝えるものとしては、当時の関白であり、朝廷内で親幕府派であった近衛基熙の日記である『基煕公記』、当時の参議であった東園基長(基雅の前諱)の日記の『東園基長卿記』、そして、基長の父であり、有職四天王と称された一人でもあった東園基量の日記の『基量卿記』などがある。また、赤穂浪士の討ち入り時の様子を伝えるものとしては、同じく有職四天王であった野宮定基には自身の日記である『定基卿記』がある。
これらの当時の朝廷に仕えていた者達の史料では、親幕府派であった基熙らは義央に対しては冷たかったともとれる。一方、天照大御神の子孫である天皇陛下への信仰を尊王思想として体系化し、幕府寄りの基熙と敵対関係にある正親町公通は義央に同情している[63]。高家という立場の義央は幕府による朝廷抑制政策の通達役に立つことが多く、朝廷側は義央ら高家に含むところがあったという見方もあるが、義央は霊元天皇の御代の延宝4年(1676年)の年頭祝儀の上使の際には、後西上皇から直筆の「うつし植て 軒端の松の 千とせをも おなしこころの 友とち吉良む」という和歌を下賜されており[64]、この時点では天皇家や親朝派から評価を受けている立場であった事がうかがえる。
元禄14年(1701年)当時の幕朝関係から見れば、朝廷尊重を掲げていた綱吉の時代に入り、幕府嫌いといわれる霊元天皇に代わって親幕派であった近衛基熙らの補佐を受けて東山天皇が親政を行っていた時期でもあり、御料(皇室領)が1万石から3万石に増加し、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していたとされている。
幕府は吉良義央が礼節典故を熟知し、精錬していることに関して、右に出るものはいないと高く評価している。 しかしながら、その立場などから賄賂を貪り、巨万の金額を得ていたこと。長矩が阿順せず、賄賂を渡さなかったことを憎んで、何事についてもいやがらせをしたことから恨みを買ったために、あのような顛末になった、と記している。
以上のように、吉宗は赤穂浪士の討ち入り以降の世情を見ていることや赤穂浪士を擁護したことで知られる儒学者の室鳩巣を重用・起用していたこともあってか、義央と当時の幕府の判断を非難している。
茶人としての義央は、「卜一」(ぼくいち)[注釈 5]という茶の号を名乗り卜一流を興した。また『茶道便蒙抄』を著した茶人山田宗徧などとも親交を持っており、茶匠千宗旦の晩年の弟子の一人であるという。ただし千宗旦は義央が未だ五歳であった正保3年(1646年)に隠居しており、義央が初めて京を訪れる寛文2年(1662年)より前の万治元年(1658年)に亡くなっている。
いつの頃からか三河地方の一部では、領地幡豆郡に黄金堤を築いたとされる治水事業(1686年)や、富好新田の新田開拓(1688年)、塩田開発などの治績を義央が行ったという伝承が形成されており、これらを根拠として地元の名君として評価する独特な史観に基づいた教育が行われている[75]。しかし名君であるとするこれらの根拠は、近年になって作られたと考えられるものが多い。
義央の所領があった上野国においては、若狭守の正室が伊香保温泉に湯治した帰途に白石にあった陣屋に滞在して義央を産んだという伝承があり、この時産湯に使われた井戸を「汚れ井戸」と称して後世に伝わっている。もっとも、義央は江戸鍛冶橋の江戸屋敷で誕生したとされ、吉良の陣屋にあった飲料に適さない井戸を「汚れ井戸」とし、わざわざ義央の産湯の話を付け加えたのは地元領民の揶揄であったと考えられる。
雨雲は 今宵の空にかかれども 晴れゆくままに 出づる月かげ
名にしおふ 今宵の空の月かげは わきていとはん うき雲もなし
吉良流作法の学習者は「礼法家」と呼ばれる(他流では弓馬・軍陣の小笠原流や幕府典礼の伊勢流などが知られる)。朝廷の儀式や、鎌倉・室町の武家の礼法など、有職故実を踏まえて興した礼法で、多くの大名家に伝わっている[97]。のちに小野周輔が「吉良流礼法」として纏めている[98]。
吉良流礼法には折形(おりがた)礼法も含まれ、祝儀(贈り物に付ける)・軍陣(本陣に勝ち栗などに添える)用折り紙の型がある[102]。 ほかに婚礼の宴席の献立・席次を「吉良流婚禮御膳儀式」として解説している。
刃傷事件があった元禄14年(1701年)、義央は高家肝煎の地位にあったが、当時の高家は彼を含めて9人いた(元禄14年当時)。
このうち、吉良義央・畠山義寧・大友義孝の3人が高家肝煎職であったが(★印)、中でも義央は高家肝煎職の最古参であり、かつ唯一の左少将であった。高家筆頭と呼ばれているのはこのためである。
義央が浅野長矩を「田舎大名」と愚弄した根拠はない。ただ、義央も三河国(愛知県)などに領地を持つ旗本である。両者の違いは、旗本と大名の問題に起因している。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。義央も領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは一度のみで、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に至っては一度も行ったことがない。そのため、旗本が領地に自己同一性を持つことはほとんどない。一方、大名(特に外様大名)は参勤交代で隔年に領地に入るので、領地において地元や居城・領民などへの愛着を持つ傾向が強かった。旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった。
当時、勅使饗応役に就任していたのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。また、任ぜられた大名が高家から指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが慣例となっていた。そうした中、当時の文献には義央が暗に賄賂を要求したが、浅野長矩が十分な賄賂を送らなかったことが両者の不和の原因だとするものがある。
松之大廊下で刀傷事件が起こった時には、二回目の勅使饗応役である浅野長矩は義央に指南料として大判金1枚・巻絹1台・鰹節一連を贈っている[103]。同時期に、院使饗応役を任じられた伊予吉田藩主の伊達村豊は、大判100枚・加賀絹数巻・狩野探幽の竜虎の双幅を贈っている[103]。また、饗応役の指南料の相場については、はじめに「御馬代」といった名目で大判金を1枚、無事に役目を果たした後に、さらに大判金1枚を贈るのが慣例だったとされている[103]。また、金子に添えられる付届は、国土産という国の産物であった[104]。
また、当時の指南・指導に対する指南料については、事例は少し異なるが、以下のような例がある。
義央が当主であった当時の吉良家の家計は、非常に逼迫した状況にあった。その様子は「閏十一月二十一日付千坂兵部・本庄出羽書状」に、「去年迄は従弾正殿の合力有之に付、とやかくと暮し候、今年よりは合力無之筈に付、内々ひしと手つまり禿候と被申候」とあり、その他の「六月二十日付須田右近書状」などの計3点の書状で、上杉家・吉良家・吉良家の親類などが困窮し、破綻しかけている吉良家の家計に対する金策を苦悩しながら相談している様子がいくつも書かれていることから明らかとなっている[107]。また、こうした経済的状況にあった吉良家は、出費を削減するために、大老の酒井忠清に一年に二度も京都への御使を命じられることのないよう申し入れを試みようとしていた[108]。更に、義央は家計逼迫を理由に、今後、諸家への音信・贈答などを全て省略することを畠山義里を使者に立て老中の大久保忠朝に申し入れている[109][41]。そして、ここでいう「諸家」は高家の交際範囲は大名・旗本等の武家に留まらず、京都上使を勤めるのに当たり、天皇家や親王家及び公家衆などの堂上方、西本願寺なども含まれていたとされる[109]。
元禄2年(1689年)に吉良義央は家臣に命じて、華厳寺の西側に霊屋を建て、三基の厨子を並べ、中央に吉良義安の木像を安置し、左に義定の木像、右に義央の自像を安置したという。義央が父祖幾代の像を差し置いて、自己の像を安置したのは僭越の行為であったとされ、義央自身、「生前自身に像を安置するのは憚あれど、五十に達するに遠慮は及ばず」として、敢えて像を安置したという[110]。
吉良義央と大石良雄の2人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁がある。義央から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。しかし、事件前から面識があったかどうかは不明である。
進藤長治 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大石良信 | 女 | 長滋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良勝 | 斎藤本盛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良欽 | 女 | 長定 | 俊盛 | 生善院 | 上杉定勝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良昭 | 長房 | 斎藤宣盛 | 宣盛 | 富子 | 吉良義央 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉良義央を演じた俳優に関しては赤穂事件を題材とした作品を参照。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.