東条義叔
江戸時代前期の江戸幕府の旗本。旗本東条家初代。吉良義冬の次男。従五位下、因幡守、伊賀守、能登守 ウィキペディアから
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江戸時代前期の江戸幕府の旗本。旗本東条家初代。吉良義冬の次男。従五位下、因幡守、伊賀守、能登守 ウィキペディアから
東条 義叔(とうじょう よしすえ[1])は、江戸時代前期の江戸幕府の旗本。吉良氏の分家として東条家を興した。
高家旗本の吉良義冬(4200石)の次男として誕生。母は7000石の旗本酒井忠吉(酒井忠勝の弟)の娘。生年は不詳だが、兄の吉良義央が寛永18年(1641年)の生まれなので、義叔が生まれたのはそれ以降となる。
吉良家の家督は義央が継いでおり、義叔は別家東条家を興している。戦国時代において吉良家は、西条吉良家と東条吉良家に分かれていたことから、東条を家名にしたものと思われる。東条家は高家ではなく、一般の旗本家として遇された。
寛文元年(1661年)12月24日に召し出されて将軍徳川家綱に中奥小姓として仕える。寛文2年(1662年)12月22日には切米500俵を給された。寛文5年(1665年)12月27日、従五位下・因幡守に叙任する。将軍が徳川綱吉に代わったのちも長く小姓役を務めていたが、元禄7年(1694年)8月23日に勤務怠慢とされて小普請(無役の旗本)にされた。その際、江戸城への出仕も止められたが、12月11日に赦免された。元禄10年(1697年)7月26日、切米を知行に改められ、武蔵国児玉郡と賀美郡内に500石を領した。
実子がなく、弟(義冬四男)の東条冬貞を養子にしていたが、宝永元年(1704年)に死去したため、柘植氏から東条義武(義武の母荒川氏が吉良家庶流の出身)を養子として迎え、東条家を継がせた。なお、弟の義孝も別家「東条家」を立てているが、義孝流東条家はまもなく断絶する。
吉良家は赤穂事件によって断絶していたが、享保17年(1732年)、東条義武の養子・義孚が吉良姓への復姓を希望して許された。高家の格式は認められなかったものの、御書院番に代々任じられている[2]。
一方、武蔵吉良氏(前期東条家[3]のち奥州管領家)の末裔である高家の蒔田家[4]も、宝永7年(1710年)に吉良姓の復姓を希望して許されている。なお、こちらが「高家吉良家」として残ることになる。
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