土井利意
1664-1724, 江戸時代前期~中期の大名。『享保七年寺院法度』 ウィキペディアから
1664-1724, 江戸時代前期~中期の大名。『享保七年寺院法度』 ウィキペディアから
土井 利意(どい としもと)は、三河西尾藩の第2代藩主。刈谷藩土井家2代。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文4年5月21日(1664年6月15日)[1] |
死没 | 享保9年閏4月27日(1724年6月18日) |
別名 | 利忠(初名) |
戒名 | 霊応院殿前豫州大守謙室義静居士 |
墓所 | 東京都港区南麻布の天真寺 |
官位 |
従五位下、縫殿助、式部、式部少輔 山城守、伊予守 |
幕府 | 江戸幕府奏者番・寺社奉行 |
藩 | 三河西尾藩主 |
氏族 | 稲葉氏→土井氏 |
父母 |
父:稲葉正則、母:毛利秀元の娘 養父:土井利長 |
兄弟 |
稲葉正往、稲葉正倚、稲葉正員、稲葉正辰 稲葉正直、土井利意、稲葉通周、稲葉正如 稲葉正佐、姉(堀田正俊正室) 妹(伊達綱村正室)、妹(松浦篤信正室) 妹(土井利知正室) |
妻 | 正室:土井利隆の娘、継室:某氏 |
子 |
初、幸、勝千代、縫殿助、曾与、待、清 養子:利庸、千代 |
寛文4年(1664年)、老中で相模小田原藩主の稲葉正則の七男として生まれる。延宝3年(1675年)に西尾藩主土井利長の養子となる。延宝9年(1681年)4月13日に利長が隠居したのにともない家督を継いだ。税制改革や農政に尽力し善政を行なった名君として知られる。
宝永元年(1704年)10月9日に奏者番に任じられ、山城守に任官された。正徳3年(1713年)3月28日、寺社奉行を兼任の形で任じられた。藩政では徳川氏ゆかりの松應寺修理で功績を挙げた。また、貞享3年(1686年)には領地が隣接していた高家の吉良義央と、領地の境界線をめぐって争っている。宝永4年(1707年)の大地震(宝永地震)では大被害を受け、救済に努めている。
父母
正室、継室
子女
養女
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