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平安時代中期の皇族。宇多天皇の四男。勅撰集『後撰和歌集』に3首入集。二品・式部卿、中務卿。子に源後古(従四位下、刑部卿)、源方古(従四位下)-義忠、源福慶 ウィキペディアから
敦慶親王(あつよししんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。初名は維蕃。宇多天皇の第四皇子で、醍醐天皇の同母弟。官位は二品・式部卿。光玉宮と号した。
宇多朝初頭の寛平元年(889年)兄の維城・斉中・斉世とともに親王宣下を受ける。翌寛平2年(890年)同母兄・維城親王(後の醍醐天皇)とともに改名し、維蕃から敦慶に改めた。のち、異母妹で皇太夫人・藤原温子所生の均子内親王と結婚するが、延喜10年(910年)に均子に先立たれている[1]。
醍醐朝の延喜13年(913年)宇多法皇が主催した『亭子院歌合』に「中務の四のみこ」として参加。既にこの時点で中務卿の官職を帯びていた。延喜16年(916年)金字寿命経を書写し、仁和寺に法会を設けて宇多法皇五十の賀を催した[2]。延喜18年(918年)の六条院への行幸では笛を吹き[3]、翌延喜19年(919年)甥の代明親王の元服において絃歌を奉じている[4]。
容姿にすぐれ、「好色無双の美人」と評された[5]。玉光宮の通称から『源氏物語』の光源氏のモデルとの説もあり、琴・弓などに秀でた。
和歌に長じて、勅撰歌人として『後撰和歌集』に8首が入集しているほか[6]、『伊勢集』『大和物語』に和歌作品が残されている。孚子内親王(桂のみこ)[7]・伊勢らとの交際が知られ、伊勢との間には、歌人・中務が生まれている。敦慶親王の死は多くの人々に惜しまれ、伊勢・藤原兼輔らによって哀悼歌が詠まれた[8]。
注記のないものは『日本紀略』による。
注記のないものは『尊卑分脈』による。
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