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日本のお笑いタレント・映画監督 ウィキペディアから
内村 光良(うちむら てるよし、1964年〈昭和39年〉7月22日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、俳優、映画監督。
本名 | 内村 光良 |
---|---|
ニックネーム | ウッチャン、チェン |
生年月日 | 1964年7月22日(60歳) |
出身地 |
日本・熊本県人吉市 (出生地は同県球磨郡上村〈現・同県同郡あさぎり町〉) |
血液型 | AB型 |
身長 | 169 cm[1] |
言語 | 日本語 |
方言 | 共通語・球磨弁 |
最終学歴 | 横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学) |
出身 | お笑いスター誕生 |
コンビ名 | ウッチャンナンチャン |
相方 | 南原清隆 |
芸風 | コント |
立ち位置 | 右(ネタ)、左(司会) |
事務所 | マセキ芸能社 |
活動時期 | 1984年 - |
同期 | 出川哲朗、中山秀征 |
現在の代表番組 |
世界の果てまでイッテQ! スクール革命! 内村さまぁ〜ず LIFE!〜人生に捧げるコント〜 THE突破ファイル など |
過去の代表番組 |
内村プロデュース 爆笑レッドシアター 痛快TV スカッとジャパン など |
作品 |
『ピーナッツ』 『ボクたちの交換日記』 『金メダル男』 |
他の活動 | 俳優、映画監督、司会者、作家 |
配偶者 | 徳永有美[2] |
親族 | 内村宏幸(従兄) |
公式サイト | マセキ芸能社によるプロフィール |
受賞歴 | |
日本アカデミー賞 新人俳優賞・話題賞 |
南原清隆とお笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」を結成。
1964年(昭和39年)7月22日、熊本県球磨郡上村(現:あさぎり町)に生まれ、免田町立免田小学校(現・あさぎり町立免田小学校)に入学。小学4年生の時に熊本県人吉市の人吉市立西瀬小学校に転校し、人吉市立第二中学校、熊本県立人吉高等学校を卒業。映画監督を志し横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演劇科に第9期生として入学。南原清隆、出川哲朗、入江雅人らと出会う。
在学中の1984年、漫才の授業をきっかけに南原とコンビを結成[3][4]。講師をしていた内海桂子・好江の勧めでマセキ芸能社に所属し、『お笑いスター誕生!!』に出演。「ショートコント」スタイルを確立するなど[5]、コントを主体とした芸風で、とんねるず・ダウンタウン・B21スペシャルらと共に「お笑い第三世代」代表の一角としてバラエティ界をリードした。
『夢で逢えたら』への出演からスタジオコントにこだわるようになり[6]、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』と合わせて様々なキャラクターを演じた。ドキュメント系バラティの『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』では内村の強い要望でコントライブのコーナーを設け[7]、コントブーム終焉後も『笑う犬の生活』や『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』に携わるなど、コントにかける情熱から「最もコントを愛する芸人」とも言われる[8]。
1998年、ポケットビスケッツのメンバーとして『第49回NHK紅白歌合戦』に出場[9]。
1999年、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』の企画「ドーバー海峡横断部」の遠泳リレーでドーバー海峡の横断に成功。後年、「人生で1番キツかった仕事」と語る[10]。
『内村プロデュース』をはじめ、2000年代からピンでの活動が中心となり、『内村さまぁ〜ず』、『世界の果てまでイッテQ!』、『スクール革命!』などは10年以上続く。なお、『内村さまぁ〜ず』は2012年にDVDのリリース本数がギネス記録に認定され、以降も更新中である[11]。
2006年に『ピーナッツ』で映画監督デビューし、2013年に『ボクたちの交換日記』、2016年に『金メダル男』を発表。
2017年からは『内村文化祭』と題した主催ライブを毎年行っている。
2017年から『NHK紅白歌合戦』の総合司会を4年連続で務める。
色白で鼻が大きく、度々相方や他の芸人のネタにされる。肌は幼い頃から白く、小学校の頃の担任に「君は色が白いから歌舞伎役者になるといいよ」とアドバイスをもらったことがある[14]。髪型は高校時代から変わっていない[15]。靴のサイズは26.5cm[16]
ジャッキー・チェンに似ていることから、ジャッキーに関する以下のエピソードがある。
芸風としては、素のキャラクターよりも、あるキャラクターを演じきって笑いを取る「憑依芸人」といわれるタイプで、素を前面に出す相方・南原とは対照的である。松本人志は内村を、「憑依芸人としてのキャラクターの引き出しが非常に多く、自分の場合は5、6パターンほどに集約されてしまうが、ウッチャンは全て確立出来ている」と評する[31][6]。
放送作家の高須光聖は「コントが大好きな芸人をイメージしてみると、真っ先に思い浮かぶのが内村光良で、2番目が松本人志である」と述べている[47]。また、お笑い第三世代によるコント番組ブームが1990年代後期に終息した後も、内村は『笑う犬』『爆笑レッドシアター』『LIFE!〜人生に捧げるコント〜』などのコント番組を手がけ、「スタジオコント[注 7]」にこだわっている。高須光聖は、「ダウンタウンの松本人志はテレビでコントをすることを諦めた。だけど内村はいまだにコントに挑戦している。」と芸に対する姿勢を評している[47]。
内村自身はスタジオコントについて「得意分野なので続けていきたい」「スタジオコントが一番好きなのかなと。『夢で逢えたら』とかあの空間が好きでしたね。お客さんがいなくて、スタッフの笑いを頼りにして。毎回やるたびに『俺、好きだわ』と思う」と語っている[48]。
また、個人でのネタ披露も度々行っており、2006年には『スティング松岡 危機一髪!』内で使用する漫談のネタを試すため、所属事務所の若手芸人ライブに紛れ込んで出演した[要出典] また、2008年には『ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円』内のコーナー「ゴールドラッシュ」において、ピン芸人「ザ・テルヨシ」[注 8]として漫談を行い、見事3週勝ち抜いて本選出場権を獲得、同年秋の本戦に出場したが、ファイナルチャレンジ(残り1人)で敗退した[要出典]。その後、2009年春と2010年正月のスペシャルでは、ウド鈴木(ザ・ウド)と共にコンビ「ザ・テルヨシ&ウド」として出場するが、2回ともファイナルチャレンジ(残り1人)で敗退となった。しかし、2010年末のスペシャルでは本名で三村マサカズと共にコンビ「三内芸」として出場し、見事100万円を獲得した[要出典]。
持ち前の運動神経の良さで、出演したコントでは時折難度の高いアクションを演じるほか、ドラマや映画に出演した際はスタントなしでアクションシーンを演じている。
しかし、40歳を超えた頃から体力の低下が見られ、『世界の果てまでイッテQ!』の「祭りシリーズ」では、宮川大輔と手越祐也の足を引っ張ることもある。「世界で一番盛り上がるのは何祭り?SP〜丸太祭り」では、練習では一度も丸太渡りが成功しなかったため、お祭り男からの引退を考えていたが、本番では予選・準決勝と丸太渡りを成功させ、チームの優勝に貢献し引退を撤回した。また、50歳を過ぎてからもバック転や鉄棒の大車輪を成功させるなど、難度の高い技に意欲的に挑戦している[49]。
優しい雰囲気や安定感に定評がある[9][51]。自分よりも共演者の持ち味を前面に押し出してフォローするスタイルで[51]、少し埋もれているような人に焦点を当てるのが得意とされる[52]。要所で声を張ってコント的な動きを見せる司会は劇場型とも言われる[53]。
芸人としてはタモリ以来2人目となる『紅白歌合戦』の総合司会を務め、視聴者を体現したようなコメントや内村ならではのパフォーマンスが評判を呼んだ[9]。
コントのキャラクター
コーナーのキャラクター
番組の企画でCDをいくつか発売している。
若い頃から映画マニアであり映画監督を目指していたが、自ら脚本を書き下ろした『ピーナッツ』で映画監督デビューとなった。
コンビとしての出演番組はウッチャンナンチャン#出演の記事を参照。
レギュラー
スペシャル番組
レギュラー
スペシャル番組
その他
小説
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