二条城
京都市にある城郭及び元皇室関連施設 ウィキペディアから
京都市にある城郭及び元皇室関連施設 ウィキペディアから
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある日本の城。江戸時代の徳川将軍家の平城であり近代においては皇室の離宮の役割を担った。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)である[1]。
(京都府) | |
---|---|
別名 |
旧二条離宮(二条城) 恩賜元離宮二条城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 |
※共に焼失し非現存※ 複合式望楼型5重5階(1603年移築) 複合式層塔型5重5階(1628年移築) |
築城主 | 徳川家康 |
築城年 | 1601年 (慶長 6年) |
主な城主 |
徳川将軍家(江戸期) 皇室(明治17年ー昭和14年) |
廃城年 |
1873年(明治6年) 廃城令により存城処分を受ける。 |
遺構 |
二の丸御殿 (国宝・重文) 二の丸御殿障壁画(重文) 二の丸庭園(特別名勝) 本丸御殿群(旧桂宮邸) 本丸御殿障壁画(重文)・本丸庭園 唐門・筋塀(築地塀) 番所 ・櫓門・土蔵 櫓・門・塀・天守台 石垣・堀・井戸等 外堀護岸等 |
指定文化財 |
国宝(二の丸御殿6棟) 国の重要文化財(建造物18棟、二の丸御殿障壁画1016面) 特別名勝(二の丸庭園) 本丸御殿(重要文化財) 世界文化遺産(古都京都の文化財) 国史跡・旧二条離宮(二条城) (城内敷地全体) 国史跡・二条城外堀護岸 (単独の国史跡) |
位置 | 北緯35度0分50.96秒 東経135度44分51.0秒 |
地図 |
京都市街の中にある平城で、足利氏・織田氏・豊臣氏による二条城もあったが(旧二条城跡について)、現存するものは徳川宗家の城のみである。当城は京都御所の裏鬼門に位置する[2]。築城理由には都および朝廷のある京都に江戸城の分身の役割として徳川家康は京都御所・公家町(現:京都御苑および冷泉家一帯)および洛中の守護並び上洛時の居城として造営した城である[3]。
二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の行幸、幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏、離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀など徳川幕府の始まりと終わりをはじめ日本の歴史を見届けてきた[4][5]歴史的に重要な場所である[6]。
明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、1884年に皇室の「二条離宮」へ変遷した[7]。その後、1939年(昭和14年)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城[8]と改称、そして現在に至る。
城内全体が国の史跡に指定されている他、狩野探幽をはじめとする狩野派一門など各名工らが荘厳華麗な金碧画から可憐な花鳥画までの障壁画と多彩な透彫欄間や飾金具ともに日本唯一本来の徳川将軍家城郭御殿完全遺構である二の丸御殿(6棟)が国宝[9]に、旧桂宮邸である本丸御殿をはじめ22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、小堀遠州の代表作と知られる二の丸庭園が特別名勝に指定されている。
城外史跡には、築城時代からの史跡二条城外堀護岸が存在する。
現代史では1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に歴史的および文化的価値の高さから洛中唯一の城郭建築として「古都京都の文化財」として登録された。
日本の歴史書において二条城と呼ばれることのあるものは複数ある[10]。
現存するのは4の城である。
1と2は同じ場所に造られた御所である。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが、2の前史としてここに紹介しておく。
2と3は同じものと見る説[13]がかつてはあったが、『信長公記』やその他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として、別のものとするのが現在では通説となっている。2と3について「二条城」と呼ぶのは、4が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城跡」[14]と呼ばれている。
この節では、近世以降の現在の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と、2と3の「旧二条城跡」について略説する。
永禄8年(1565年)、将軍義輝は斯波氏の屋敷跡・武衛陣に自らの城を築いた(斯波氏の屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場している。また、現在の旧二条城跡地の地名である「武衛陣町」は、斯波氏の職名を由来としているとされている)。しかし完成寸前の6月12日、三好三人衆に襲撃されて焼失している(永禄の変)。その後、跡地には真如堂が移された。
永禄11年(1568年)9月、足利義昭は織田信長を後ろ盾として入京し、同年10月18日、将軍に就任する[15]。義昭は、はじめ六条本圀寺に入った後、細川京兆家邸、本能寺と居所を移し、再び本圀寺に戻ったようである[16]。永禄12年1月5日、三好三人衆らに本圀寺を攻められ、これを撃退した[17](本圀寺の変)。これを受けた信長は、義昭の新たな屋敷として、義輝の御所を再興する[17]。普請に際しては、信長自ら現場で指揮をとった[17]。大工奉行には村井貞勝、島田秀満が任じられた。
武衛陣の御構えの跡地を中心に北東へ拡張、約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした[18]。
建物の多くは本圀寺から移築され[19]、屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれた。建築物を奪われることに困った本圀寺の僧侶らは松永久秀に、信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られた。また1,500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供も申し出て免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかった(フロイス『日本史』)。また、細川氏一族で分家・細川典厩家の細川藤賢邸から、囃し立てながら運び込む文字通りの「鳴り物入り」で「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え同年4月に義昭はここへ本拠を構えた。城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われ、城を訪れた山科言経は「石くら」(石垣)に驚嘆している。この事実はこの城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。
なお、元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。
ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。
この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。
1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この義昭の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。さらに、別地点における発掘調査によって検出された堀跡から出土した石仏群は京都文化博物館に展示されている。この旧二条城の跡地には現在平安女学院の校舎が建っているが、その一角に学院によって立てられた説明板には「信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎入れ、城は『二条御所』として使われていた」と書き、次に記す信長の二条城(誠仁親王の二条御所)との混同が見られる。
織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。
信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。住居者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は信長に邸宅を譲ると、そのはからいにより報恩寺の新邸に移徙している(『言経卿記』)。信長はこの邸宅を上洛した時の宿所とするために改築することとし、「二条殿御構へ」の普請を京都所司代の村井貞勝に命じた。この屋敷を山科言経は日記に「右大将家二条新邸」と記す。
翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。天正7年(1579年)11月、この屋敷は誠仁親王に献上され、これ以降は「下御所」と呼ばれる[21]。またこれによって「二条御所」の名も生まれた。
この頃の二条御所の様子が江村専斎『 老人雑話』に「信長の時に二条殿をば報恩寺を替え地にして移し、小池の御所を取立て、屋形を結構し、小池に反り橋などをかけ、烏丸通に東の壁をかけ、室町の東側の町屋はありて、町屋の後に長壁をかけたり、門は南面なり」と記録される。これによれば「義昭の城」に比べて遥かに小さくまた堀もなかったからこの城に対する信長の考え方がうかがえる。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢を相手に奮戦するが、貞勝ら60余名は討ち死にし、信忠は自害、二条御所は灰燼に帰した[22][23]。
現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には二条家が屋敷を構えていた当時の名残の「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なお、この「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。
この二条御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、山科言経が天正4年9月13日(1576年10月5日)に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日(10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される[24]。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り(現新町通)二条(二条通のこと)」へ「上が」って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。
羽柴秀吉も二条に城を構えた。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されて、お気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。
天正11年(1583年)9月、秀吉は妙顕寺を自身の屋敷とするため普請を開始した[25]。同寺には、天正12年(1584年)9月に替地が与えられ、移転したと考えられている[25]。これ以降、同地は「二条屋敷」や「二条城」と呼ばれた(妙顕寺城)[25]。周囲に堀を巡らし、天守もあった[25]。
聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ、普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」を残している。天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使・アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。
幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。
これを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末までの230年間、歴史の表舞台から姿を消す。その間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化した。
二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。
家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。
縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお、家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。
二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが[59]証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。1613年、平戸でオランダ東インド会社の貿易船が磁北のずれを測定したが、それによれば磁北は真北に対し東に「2度50分」ぶれていた。このぶれは、現在の二条城のぶれとほぼ一致するが、渡辺真経の研究によればこの時期は磁北が急激に東に変化していく時期にあたっており、測定の10年前の二条城創建時の磁北のぶれは東に約1度であったと考えられる[60]。また、加藤繁生も地磁気学者今道周一の研究に基づき同じく創建時の京都での磁北を算出しているが、やはり東偏1度20分という結果を得ている[61]。さらに「古来から寺院の配置に磁石が用いられた」という仮説に基づき研究してきた広岡公夫が岡山理科大学と共同で開発した「日本考古地磁気データベース」では「7.2度」と算出され、広岡自身の仮説に反する結果が出ている。現在のところ方位磁石が慶長7年以前に家康の周辺にもたらされていた証拠はなく、その以前も以降も幕府造営やその他の寺社の建築に磁石が使用された事実は確認されていない。以上を総合すると、二条城の縄張りに方位磁石を使用したという説に科学的な根拠は皆無としなければならない。他方で、発掘された二か所の聚楽第石垣にともに正方位に対し時計回り方向に約3度の傾きがあることが認められ、また聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性があるとの指摘がある[62]。
元離宮二条城並び二の丸の代表的建造物である国宝・二の丸御殿6棟(付属:重要文化財2棟)は、東大手門(重要文化財)から入城し突き当たりの筋塀(重要文化財)を南端まで歩き左折すると長く連なる筋塀と御殿正門である威風堂々で豪奢な唐門(重要文化財)に囲まれている二の丸御殿正門正面に対面する。
そこから、御殿正門の唐門をくぐると正面に武家書院造の集大成である国宝・二の丸御殿群の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)と参殿者控えの間や奥に勅使の間がある「遠侍」(とおざむらい)が見える。そこから手前から奥への順番に「式台」(しきだい)、「大広間」(おおひろま)、「蘇鉄の間」(そてつのま)、「黒書院」(くろしょいん)、「白書院」(しろしょいん)と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、室内の入側廊下や縁側で接続され一体となっている。間取りは部屋数33室、800畳余りもある徳川将軍家の城郭御殿建築物である[29]。内部のしつらえは竣工当初は柱の銅版は金箔押しであって現在の現存している物より遥かに華やかなものであった。眺望としては二の丸御殿大広間の西側、二の丸御殿黒書院の南側に小堀遠州が作庭した特別名勝の二の丸庭園である日本庭園がある。話を戻し、二の丸御殿の遠侍の北側には、料理をこしらえるための二の丸御殿の「台所:重要文化財」と御膳を配膳準備をするための「御清所:重要文化財」と呼ばれる建物がある。補足として、現在観られる檜皮葺となっている唐破風の車寄の屋根は、明治期の離宮時代による修理の際に瓦葺きから檜皮葺となったものである。
徳川家康が二条城の造営に着手したのは慶長6年(1601年)であるが、現存する二の丸御殿の建物群はその20数年後の寛永期に大改修されたものである。後水尾天皇の二条城行幸に備えて、寛永元年(1624年)から御殿の大改修が始まり、同3年(1626年)に完成した。二の丸御殿が寛永期に新築に近い改修を受けていることは川上貢らの調査で判明しており、建物内の障壁画についても寛永期の作であることが土居次義、武田恒夫らの研究で明らかになっている[63]。
二の丸御殿の御殿構成詳細については、正面に遠侍及び車寄があり、以下、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各建物が南東から北西へ雁行形に配置される。各建物は入側の渡廊下や縁側で連結されている。遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が国宝に指定され(遠侍及び車寄は1棟に数える、二の丸御殿台所の渡り廊下は明治時代に解体された。)、これらの建物の各室の床(とこ)、床脇(棚)、帳台構、襖、障子腰、長押上壁などには狩野探幽ら狩野派一門の絵師による障壁画が描かれている。御殿の建物はおおむね寛永期の状態を伝えるが、改変された部分もある。各建物の屋根は現状は瓦葺きであるが、当初は杮葺きであった。貞享3年(1686年)に建物の破損検分を行った際の記録によれば、当時すでに瓦葺きであったので、屋根葺き材の変更時期は1686年をさかのぼることは明らかである[64]。
明治維新後の二の丸御殿は、昭和14年(1939年)に京都市に譲渡されるまでの間は京都府庁や皇室の二条離宮として明治天皇や大正天皇など皇族や要人らに使用され、その時間の経過と共に障壁画の破損も進んだ。大広間と黒書院の外面の腰高障子も離宮時代の明治期に新たに入れられたもので、当初は使われていなかったものである。また、日本の城郭御殿は廃城令や第二次大戦において明治以降に多くは破却されたものや焼失したものが多いなかで、二条城二の丸御殿は、往時から少々一部に改変や破損があるとはいえ、徳川将軍家唯一の城郭御殿として寛政期からの本来の御殿と障壁画や透彫欄間や飾金具等の全てが現存するという意味において大変貴重な存在である(補足として名古屋城本丸御殿では、障壁画のみは大部分が現存するが、建物や欄間等は太平洋戦争の空襲で全て焼失した)。
※以下、国宝・二の丸御殿の構成や障壁画や用途についての詳細
遠侍並び車寄は二の丸御殿のうちもっとも手前に位置し、かつ、もっとも大規模な建物である。棟を南北に向けた入母屋造、遠侍は瓦葺きで車寄は檜皮葺の建物で(以下に述べる二の丸御殿の諸殿はいずれも入母屋造、瓦葺き)、遠侍の面積は1,048平方メートル。
車寄(くるまよせ)は二の丸御殿の玄関のこと。駕籠や御所車が難無く入れるように広く大きく造ってある。目を引くのは車寄の屋根下に施された豪華絢爛な欄間彫刻。色鮮やかな彩色がまだ残っている[65] 。
遠侍(とおざむらい)は車寄から参殿した大名や家臣らの控えの場や朝廷の使者(勅使)との対面の場などに使用された建物である。遠侍の外観は平面で正方形に近く、間取りは東西・南北とも3列構成で、北東に位置する勅使の間(上段・下段に分かれる)から逆時計回りに、一の間、二の間、三の間、柳の間(四の間とも)、若松の間、帳台の間があり、これらに囲まれた中央部には芙蓉の間と物置がある。物置以外の各室に障壁画があり、いずれも金地濃彩である。勅使の間は上段が21畳、下段が35畳。上段には二間半幅の押板形式の床(とこ)と棚、帳台構を備えるが、付書院はない。このような大規模な御殿の主室に付書院を設けないのは異例である。床に向かって左の入側境(通常、付書院の設けられる位置)には腰高障子を嵌める。画題は上段が楓、下段が檜の大樹を主とした金地濃彩画である。一の間、二の間、三の間の障壁画の画題はいずれも竹虎図で、これらの室には虎の間の別称がある。勅使の間は朝幕問題の紫衣事件の解決の場や徳川慶喜の将軍宣下として使用され[66]、離宮時代では大正天皇の皇太子時代の拝謁の場として使用された[67]。遠侍(車寄後方)の障壁画に虎を描くことは名古屋城本丸御殿などにも例があり、来訪者を威嚇する意図があるという。障壁画の筆者については狩野山楽との伝えもあるが、研究者は狩野甚之丞の筆と推定している。『二条御城御指図』(宮内庁書陵部蔵)には遠侍の障壁画の筆者を「真節」としており、これは「真設」(甚之丞の号)を指す[68]。なお、この甚之丞については、名古屋城本丸御殿対面所の障壁画の筆者とされる甚之丞とは別人(または制作時期が大きく異なる)の可能性が指摘されている[69]。
式台(しきだい)は遠侍の西に接して建つ東西棟の建物である。面積は332平方メートル。登城した大名らの取次の場となった建物で、手前に式台、その裏手に老中一の間、老中二の間、老中三の間がある。各室の障壁画はいずれも金地濃彩である。式台の間は48畳で、床(とこ)、棚、付書院等の設備はない。式台の間の障壁画は松の巨木を描く[70]。
大広間(おおひろま)は式台の西に接して建つ南北棟の建物である。面積は784平方メートル。二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式が高く、将軍の表向きの対面に用いられた、公式的・儀礼的空間である。一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間からなる。一の間は48畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備え、天井はもっとも格の高い二重折上格天井とする。障壁画は松の巨木を主題とする。式台と大広間の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野采女すなわち狩野探幽の筆とあり、伝承どおり探幽の作とみなされていたが[71]、2019年(令和元年)、二条城の研究により四の間の松鷹図に関しては狩野山楽が手掛けたと結論付けられ、通説が覆されたと報じられた[72][73]。
蘇鉄の間(そてつのま)は式台と黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物である。明治期に板敷に変更されているが、江戸時代には畳敷の部屋であった[74]。
黒書院(くろしょいん)は蘇鉄の間の北西に接して建つ東西棟の建物である。「黒書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「小書院」と呼ばれていた。面積は569平方メートル。大広間が公式的・儀礼的な表向きの対面の場であったのに対し、黒書院は内向きの対面の場であり、将軍の御座所でもあった。規模は大広間より一回り小さい。一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなり、二の間、三の間、四の間は障壁画の画題から、それぞれ桜の間、浜松の間、菊の間ともいう。一の間は24畳半で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。このうち、棚を北面東端から東面北端にかけて矩折り(L字形)に配置するのが特色である。一の間の天井は格天井だが、大広間の一の間のような二重折上とはしていない。障壁画は式台、大広間と同様、松を主題とするが、床貼付絵は松に梅、柴垣、小禽鳥などを配し、松樹には残雪を表すなどして早春の季節感を表す。さらに床脇(棚)の壁貼付の竹図と合わせて松竹梅を表している。黒書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野尚信の筆とあり、伝承どおり尚信の作とみなされている[75]。寛永期の絵図では「小広間」、江戸城や駿府城・名古屋城の御殿配置では対面所・白書院に相当し、後述の白書院と逆転している。
白書院(はくしょいん)は黒書院の北に建つ南北棟の建物で、御殿の建物群のうちもっとも奥に位置する。黒書院とは渡廊下を介して接続する。「白書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていた。面積は318平方メートル。大広間や黒書院に比べて規模が小さい、内向きの建物である。将軍の休息所、寝所として使用され、本来は将軍と夫人(御台所)、おつきの女中のみが入ることができた間であり、江戸城の大奥にあたる部分であった。障壁画は他の諸殿が金地濃彩を主としているのと異なり、白書院の障壁画は私的な落ち着いた雰囲気を醸し出すために淡彩が主体となった御殿である。間取りは黒書院と同様、一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間、付属の間(指出の間)、厠からなるが、規模は黒書院より小さい。一の間は15畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。一の間の天井は格天井だが、二重折上としていないのは黒書院一の間の天井と同様である。障壁画は淡彩の山水画で、中国の西湖の情景を表したものである。白書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野興意(狩野興以)の筆とあるが、筆者については異説もあり、2012年に東京都江戸東京博物館で開催された「二条城展」では「狩野長信または興以筆」とされていた[76][77]。江戸城や駿府城・名古屋城の御殿配置では黒書院に相当し、寛永期の絵図では「御殿」、更に奥には御座之間に相当する「御殿」があった。
※国宝・二の丸御殿については上記項目を参照
二の丸御殿台所は築城時にも存在したが、現在の建物は、寛永行幸の1626年(寛永3年)に際し建設されたと考えられいる。広い土間と板間が特徴で、土間の一角に竈と流し台があったが、今は煙出しが屋根に残るのみとなっている。日本全国寺院も含めた台所として近世以前からの建築物では日本屈指の大きさを誇り、土間はと板間が一体となった内部空間の広さでは随一である。
二の丸御殿御清所は、台所の南に続く建物で、江戸時代は御料理間と呼ばれていた。建物南端中央には生活用水に使用した井戸がある。建物内には4畳の大きさの囲炉裏があり料理を温めたり調理したことが分かる。台所と御清所がともに城に残っているのは、日本で元離宮二条城(二条城)だけである[78]。
出典:昭和57年6月5日文部省告示第98号
二条城の史跡護岸である家康時代の石垣を見たければ、堀川の史跡護岸である「史跡二条城外堀護岸」がある。家康が二条築城に際し、平安京の造営時に運河として開削された堀川が二条城の要塞としての役割を担った。そして、護岸が石垣で固められたのだが、野面積みに近い荒々しい石垣が改修されないままよく残り、現在の元離宮二条城の一部分として単独で国の史跡に指定されている[79][80]。
現在の元離宮二条城の外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただ、南門は離宮時代の高麗門で1915年(大正4年)に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の江戸幕府時代の城門ではない。その他は江戸幕府の城門で正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(搦手門・埋門)と前述の南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお、東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられた。行幸後には再び櫓門に戻された。
本丸御殿は二条離宮時代に京都御苑にある京都御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)の主要御殿等の「玄関」、「御書院」、「御常御殿」、「台所及び雁の間」の4棟を明治天皇の意向により1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。しかし、この本丸御殿(旧宮邸)は幕末には孝明天皇の仮皇居となっていたことや、皇女和宮親子内親王はこの御殿に暮しここから江戸へ嫁いでいる由緒ある御殿である。
また、移築された本丸御殿は主に皇太子時代の大正天皇が10回滞在した等、離宮としても重要な役割も果たした[81]。
1952年(昭和27年)に本丸御殿4棟は江戸時代からの皇室にゆかりのある由緒正しい建築物である事に加えて幕末期の京都画壇である京狩野や土佐派など当時の宮家文化やしつらえを今に伝える唯一の建築物である事から重要文化財に指定されている[82][81]。過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていなかったが、保存修理完了し、2024年(令和6年)9月から事前予約制で入場料に加え観覧料で公開される[83]。もともとあった京都御苑内の敷地には、桂宮邸跡として通年公開され築地塀と表門と勅使門、また庭園や池跡も現存している。
本丸御殿の南には、洋風庭園がある。
1626年(寛永3年)の行幸を描いた寛永行幸絵図のこの位置に番所は描かれているが、現在の建物は、1663年(寛文3年)に建てられたことが分かっている。平時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警護していた。1組50人の在番が2組常駐し、この番所は彼らの詰所の一つとなっていた。近世の城内にはこの他、唐門前、北大手門周囲、西門周囲等、計9棟の番所があったが、現在残っているのはここだけである。全国でも番所が現存する城は江戸城や丸亀城等わずかしかなく、貴重な建物である[78]。
創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園の辺り)に望楼型の5重天守として描かれている。この天守は慶長期に家康によって現在の二ノ丸北西隅に建てられたもので、郡山城天守の移築説がある。記録には小天守や渡廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられる。この天守は3代家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に再び移築された。移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能である。
これに代わり、新たに造られた本丸の南西隅に、前年に一国一城令によって廃城とした伏見城の天守が移築された。この寛永期天守は、取付矢倉が付属する層塔型5重5階の天守であったが、1750年(寛延3年)に落雷で焼失して以来、再建されなかった。現在は、天守台のみが残る。天皇が昇った唯一の天守である。又、天守の木造復元計画もある。
本丸櫓門にはかつて内部が黒漆塗りで赤絨毯が敷かれた2階建ての木橋があり、天皇や将軍は二の丸御殿から橋の2階の廊下を通って、地上を歩くことなく本丸御殿と天守に行くことができた。1687年(貞享4年)に2階廊下が取り壊され、1704年(宝永元年)には1階の橋がかけ直されている。二の丸御殿溜蔵と橋の手前までの橋廊下の一部は1930年(昭和5年)頃まで残っていたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されている。[84]
別名「八陣の庭」。小堀遠州の代表作として挙げられることも多い桃山様式の池泉回遊式庭園である。作庭意義と庭園形式を端的に説明すれば徳川家の栄耀栄華を願うために、神仙蓬莱(しんせんほうらい)の世界を表現し庭の中心に池を配す事によって、その周りを歩いて鑑賞する事と二の丸御殿と調和する事を加味して造られた書院造庭園となっている。
まず庭の造形については複雑な広い池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には、二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東(大広間)側、第3正面は北(黒書院)側という三正面式の設計である。
220年あまりという長い年月、将軍の上洛がなかった幕末期の15代将軍・徳川慶喜の時代には庭は荒廃していたが、 宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用された。特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園風景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えらいる。
「二条離宮」が京都市に譲渡された年に元離宮二条城の二の丸庭園として昭和14年(1939年)に名勝に指定 、重ねて昭和28年(1953年)に日本国の特別名勝に指定された[40][85]
なお、慶長期二条城の庭園は不明点が多いが、勝興寺本系列(京都国立博物館・堺市博物館所蔵等)の『洛中洛外図』に描かれた慶長期二条城には広大な池と鬱蒼と茂った樹木で構成された庭園が描かれており、現在の庭園とは異なった印象を与える。
本丸御殿が移築された直後、1895年に二条離宮本丸へ明治天皇が行幸した折に枯山水風庭園の造園の勅命を受け、7ヶ月半をかけて1896年(明治29年)に完成した 芝庭風築山式庭園。日本庭園の様式である池や枯山水ではなくイギリス式庭園の様式を取り入れた芝生と植樹を中心とした意匠を取り入れ、明治時代を主に流行した和洋折衷の回遊式の庭園である[86]。
二の丸の北大手門付近に1965年(昭和40年)に 旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、更に全国から集めた銘石、篤志家より寄贈を受けたものなどを用い、同年に完成した和洋折衷庭園。1986年(昭和61年)には当時のイギリス王室のチャールズ皇太子・ダイアナ元妃がガーデンパーティーをこの場で王室外交を開催している[52]。
城が宮内省から京都市に譲渡された後の1939年(昭和14年)10月28日に上記二の丸御殿の6棟を含む24棟が国宝保存法に基づく「国宝」(旧国宝)に指定され、1944年(昭和19年)に本丸御殿4棟が追加指定された。その後、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行に伴い、旧国宝はすべて重要文化財として指定されたものとみなされることとなった。
二条城の外堀を囲む道路も含めて、二条城全域が1939年(昭和14年)11月30日に「旧二条離宮(二条城)」の名で史跡に指定された。
築城400年記念 展示・収蔵館(略称:展示・収蔵館)は二条城の敷地内東方にある施設であり、1982年に重要文化財に指定された二の丸御殿障壁画の原画を保管している。築城400年を記念して2004年3月に竣工され、2005年10月10日に開館した。御殿におけるレイアウトと同様に並べられた障壁画を、ガラス越しに鑑賞できる[88]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.