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言語学者、日本大学法学部准教授 ウィキペディアから
トーマス・ロックリー(英語: Thomas Lockley、1978年 - )は、イギリス出身の大学教員(英語教育者)[2]。日本大学法学部准教授[2][3][4][5]。元ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)客員研究員[4][6]。研究分野は言語学習の内容言語統合型学習(英語: Content and language integrated learning)(CLIL)[7][9]。日本やアジアの歴史に関する研究も行う[4]。日本語の著書などでは姓が先に書かれ、ロックリー・トーマス[10]、またはロックリー トーマス[11]と表記される。また結婚し日本姓を持ちトーマス 木下 ロックリー(英語: Thomas Kinoshita Lockley)[12][13]またはロックリー 木下 トーマス(英語: Lockley Kinoshita Thomas)[14]と記載されていることがある。トーマス(Thomas)には愛称がいくつかあるが、ロックリーはトム(Tom)を使用している[15][16]。
この記事は最新の出来事を扱っています。 |
人物情報 | |
---|---|
全名 |
ロックリー 木下 トーマス Lockley Kinoshita Thomas |
別名 |
ロックリー・トーマス Lockley Thomas |
生誕 |
1978年(45 - 46歳) イギリス ロンドン |
居住 | 日本 千葉県[1] |
国籍 | 日本 |
出身校 | |
学問 | |
研究分野 | 内容言語統合型学習(英語: Content and language integrated learning) |
研究機関 | |
学位 | |
特筆すべき概念 | 弥助の研究 |
主要な作品 |
信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍 African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan |
影響を受けた人物 | 弥助 |
学会 | 日本CLIL教育学会 |
公式サイト | |
日本大学研究者情報 LOCKLEY Thomas |
1978年、イギリスロンドンで生まれる[2][7][17]。2006年、シェフィールド大学で外国語教員免許(PGCE)を取得した[18][19]。オープン大学大学院を修了(MA Ed.)[19]。
2000年、JETプログラムの参加者として初来日し、鳥取県鳥取市に2年間滞在した[7]。鳥取では、小学校でALT(外国語指導助手)として働いた[20]。
2009年から日本に在住し[19]、同年4月から2013年まで神田外語大学で語学専任講師を務めた[21][22]。
2013年に日本大学法学部の助教となり、その後専任講師を経て[19]、2019年4月に日本大学法学部の准教授となる[17][19](2024年4月時点で現任[23])。また、同じく2019年にロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)の客員研究員となった[4]。
日本大学法学部では外国語(英語)の授業を担当しており、日本史や王貞治など、生徒が興味を持ちやすいテーマで英語授業を展開している[19][24]。 文献や著者説明では「歴史と英語の教科を担当している」という記述が多いが[2][4][7]、実際に担当している教科は英語のみである[19][23]。 2022年から国際社会文化論のゼミナールを開講し、国際社会の視野からみる日本史を学ぶ[25]。
2009年か2010年の頃、インターネット上で弥助のことを知り、その魅力に魅かれる。それをきっかけにして論文を作り始めたが、まもなく歴史ノンフィクション作品として弥助を主人公にした作品も作り始め、以降は作家としても活動している[26]。
ロックリーの著書や、彼の説を採用したメディアで登場する弥助や関連する出来事に関して、資料や史実と異なっており、デマを生み出しているなどの批判がなされている[27][28][29][30]。
ロックリーは弥助に関する著書や解釈、メディア取材などにおいて、実際に文献・資料にある内容だけでなく、想像や創作で補った内容を多数含んでいるにも関わらず、フィクション(スペキュレイティブ・フィクション)・推測や仮説ではなく、ノンフィクション・歴史的事実として提示しており[26][31][32][33]、次第に弥助の専門家として認められるようになった[34]。書籍の分類も一般書ではなく、小説形式で書かれた学術書となっている[35][36]。ロックリーの想像により生み出された弥助像は、日本を含む世界各国の主要メディアにおいて、まるで事実であるかのように取り上げられ[4][37][38][39][40][41]、「弥助は本著書の通り“伝説のサムライ”である」「弥助は日本のヒーローだった」など、世界中で様々な誤解を生む事態となっている。
ロックリーが著者である日本語で出版された書籍『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』や『つなぐ日本史2 近世』に寄稿した記事[42]と、海外向けに出版された書籍『African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan』や海外メディアの記事を比べると、日本向けでは推測や仮定の話と前置きする柔らかい表現を使う一方、海外向けでは断定的な表現になっているなど、異なる部分が存在し内容が統一されていない[34]。
ロックリー自身、自らの主張に証拠がないことは認めており[43]、例えば『African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan』の取材に対して「一次資料に基づいているが、物語を完結させるために『研究に基づく仮定』をかなり多く加えている[44]」としている[45]。別の機会では「事実に基づく歴史的文書ではなく、自身の『情報に基づいた研究に基づく仮説』に基づき、歴史上の弥助は織田信長の単なる家臣ではなく、立派な侍だった[46]」と語っている[47]。一方、専門家として出演したメディアのインタビューでは、どの記事を見てもどのような資料を参考にした内容を語っているのか、どこからが自らの推測なのかを提示していない。著書の中では出典元・参考文献が記載されている部分があるが、未記載の場所も多く、出典元が書かれていないか曖昧なために日本の歴史専門家から「検証できない。聞いたことがない」「関係ない史料も弥助のことになっている部分がある」と指摘されている[48]。
「織田は弥助を守護鬼か、寺院で黒い像として表される繁栄の神『大黒天』のどちらかだと信じていた[49][50]」、「本能寺の変で織田信長が切腹する際、弥助に首をはねて、息子に首と刀を届けるよう頼んだ。それは大きな信頼の証だった[51][37]」(別の記事では「信長の切腹の介錯を森蘭丸が行い、蘭丸が自分の切腹の介錯を弥助に依頼した[52]」としている[53])など、ロックリーは様々なエピソードを語っており、中には前述のとおり出典元不明の内容が含まれているものの[48]、海外メディアはこれらを専門家の話として報じている。
問題の発覚と、後述の「アサクリ『弥助』問題」が大きくなると、批判はロックリーにも向かうようになったため、「私は何の関係もなく、プレイするつもりもないのに、多くの人が私に責任があると考えているようです。そのため、このアカウントを凍結します[54]」とコメントし、全てのSNSアカウントを閉鎖している[55]。
『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』には、戦国時代の日本において「イエズス会士は清貧の誓いを立てて奴隷制に反対しており通常はアフリカ人を伴うことはなかった」「地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。弥助は流行の発信者であり、その草分けでもあった」という記述が存在する[56]。
これを組み合わせることで「イエズス会は奴隷を使わなかったが、日本人が黒人奴隷を求めたから伴っていることがあった。日本に黒人奴隷制があった」などと読める内容であるとして、「事実とは異なる」とか「日本が黒人奴隷を生んだというデマが世界に広まってしまうのでは」など、偽史の拡散に対する非難や懸念がなされている[27][57]。 「宣教師がボディーガードとして連れてきた黒人が日本人に奴隷にされた」という不正確あるいはファンタジーな記述についても、国際的に「歴史的事実」として広がりつつあることについて、批判が起こっている[34]。SNSなどでの批判の中には「黒人奴隷は日本発祥だとロックリーが主張した」と勘違いしている人が見受けられるが、ロックリーはそのような主張をした事実はなく誤りである。『信長と弥助』には、「アフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という記述に出典・参考文献が書かれておらず、日本で黒人奴隷を誰が始めたか、どのように広まっていったかなど、何も記載していない[58]。
ルイス・フロイスの『フロイス日本史』によると沖田畷の戦いの有馬・島津軍側に大砲を扱う黒人がいたとされており、天正遣欧少年使節の『天正遣欧使節記』でも「見たことがある」という記載があり、他にも幾つかエピソードがあることから、弥助と同じく宣教師の従者などの名目で複数の黒人が日本国内にいたこと自体は事実と考えられている[59]。当時の日本国内にどれくらいいたかの具体的な数字や、日本人や当時の各大名が組織的に奴隷として使用していたという情報は存在しない[60]。
更に遡ると1910年頃に北米で確認されている坂上田村麻呂黒人説があり、こちらは証拠の無いデマだったと結論付けられているが、未だに黒人社会や一部の民族学者の中では根強く残っている[61]。「侍が勇敢であるためには、黒人の血を少しは受け継がなければならない[62]」という諺が日本に存在すると信じている者もいるうえ[63]、論文も存在する[64]。ロックリーは著書の中でこの説には触れておらず無関係であるが、今回の弥助に関する論争に便乗して、黒人説を信じる人が「日本のサムライは黒人の影響を受けている。それを否定する人は人種差別主義者だ」などと根拠のない主張をする例が散見される。この現象は2024年に公開されたドラマ『SHOGUN 将軍』放送時にも発生していた[65]。
なお、ポルトガル商人がイエズス会宣教師公認(または黙認)のもと、日本人や中国人などアジア人を奴隷として買い集め、自国植民地まで連行していた時期があったという指摘が存在する[66]。日本人は黒人と同じくポルトガルなどヨーロッパの奴隷として使われる立場であり、後にバテレン追放令が発令されることとなった[67]。
弥助が侍であると記述している書籍はロックリーのものが初めてではない。E. Taylor Atkinsの著書や、Jonathan López-Veraの著書などが存在し、侍であると主張する根拠はそれぞれで異なる[68][69]。
戦国時代は将軍家や天皇の権威が低下し、従来の侍や武士の違いが曖昧になり定義づけは難しくなっていた頃だったが、ロックリーは以下のような考察や理論を根拠とし「弥助は侍である」と主張している。
しかし、豊臣秀吉が織田信長に小者(足軽)から武士へと認められたのは、信長の下で約10年間の軍役を経てからであることを考えると、信長の下で2年未満しか仕えていない弥助が武士・侍になったとは考え難いという批判がある[34]。
文献を確認すると、弥助が侍であると断定されている資料は存在しない。信長公記の写本の一つ、尊経閣文庫本『信長公記』(前田本)には「扶持と鞘巻、私宅が与えられ、時には道具などを持たせた[86][87]」という旨の記載があるものの、尊経閣文庫本は全文が公開されていないうえ、記載されているのはこの写本だけであり[29]、他の信長公記[88][89][90]、多数存在する織田家や織田信長、イエズス会の文献では同様の記載がなく内容の裏付けが取れない状態となっている。徳川家家臣の松平家忠の日記『家忠日記』において、天正10年4月19日(1582年5月11日)の記述に「扶持を与えられた弥助という黒い男がいる[91][92]」という記載があることから、扶持(現在で言う給料)だけは確認することができる。尊経閣文庫本『信長公記』を含めいずれの文献でも、弥助の具体的な仕事内容や身分に関する記載はない。「道具などを持たせた」とあるが、刀などの武器の場合もあるし、その他の場合もあり、何を持っていたのかは不明である。
これらの資料のうち、『信長公記』は複数の版があるがいずれも二次資料[93]、『家忠日記』は一次資料。イエズス会の資料のうち、各宣教師の書簡は一次資料、日本キリスト教の通史である『日本教会史』はフランソワ・ソリエ、ジャン・クラセなど数人が執筆しているがいずれも二次資料となる[94]。
また、弥助に姓(家名)やカバネなどが与えられたという記録や、諱を持っていたという情報は存在しない[58]。偏諱を与えられたわけでもない。そもそも「弥助」という名前を誰が考案したのかすら不明である。日本の江戸時代に作られた武鑑のうち、織田家に関する織田武鑑と総見公武鑑のどちらにも記載されていない[95]。
発言者であるロックリー自身が認める通り、本能寺の変で「森蘭丸が信長の介錯人となった」「弥助が信長の首を持って逃げた」などの話は、本能寺の変での弥助の行動を記述している唯一の資料であるイエズス会の記録に書かれていない内容である[96]。
前述の信長と弥助の対面の時、「織田は弥助を守護鬼か、寺院で黒い像として表される繁栄の神『大黒天』のどちらかだと信じていた」という記述は信長公記は勿論、イエズス会にも存在しない[97]。尊経閣文庫本『信長公記』で与えたという内容に召使いは含まれておらず、こちらも記録にない内容である[87]。
「弥助は『殿』と呼ばれていた」という記述も、正しくは「彼を殿にするであろうという者もいる」という伝聞形、つまりそういう噂話があるという記載であり、いつ・誰が・どこで話していたのか、どれだけ話題になっていたのかなど一切不明となっている[98]。
2024年に出版された書籍『A Gentleman from Japan: The Untold Story of an Incredible Journey from Asia to Queen Elizabeth’s Court』は初めてイギリスを訪問した日本人であるクリストファーとコスマス(英語: Christopher and Cosmas)(洗礼名のみ、本名不明)を主人公にした物語である[99]。
『信長と弥助』『African Samurai』と同様、カテゴリは「ノンフィクション」「伝記」となっているが[100]、「現在のマーケティング・トレンドは、あらゆる歴史物語の中心にドラマチックな個人的ストーリーを必要とするが、実際のところ、クリストファーの経験について確かなことはほとんど知られていないため、彼の人生をつなぎ合わせるには必然的にある程度の推測が必要となる。ロックリーは記録に膨大な労力を費やしているが、彼が結論で述べているように、彼の本は日本から来た紳士についてというよりも、『根本的には、我々が現在"東洋"と考えているものを志向した世界について』なのである[101]」とインタビュー記事で記載されているように内容の多くは推測であり[99]、書籍は論文扱いとなっている[102]。書籍発売前にそのテーマで論文を執筆していたことも同じである[103]。
2015年以来、英語版wikipediaの弥助の項目に、ロックリーの未発表著作を参考文献として挙げ、「弥助は侍だった」などとする不確かな情報が繰り返し加筆された。加筆者と特定されている「tottoritom」は、日本大学の准教授であると名乗っており、さらに、ロックリーには鳥取で日本語教員の経験があることから、ロックリーの未発表著作を出典として加筆した「tottritom」は実際にロックリー本人ではないかと考える人らによって、大きな批判が起こっている[34]。
英語版ウィキペディアの「User:Tottoritom」は、「東京にある日本大学法学部の教員であるトーマス・ロックリー」と自己紹介している[104]。また、wikipedia英語版のThomas Lockleyの記事は、2018年10月31日にTottoritomによって作成され、その13分後に他の編集者がレビューを行なったところ、宣伝目的の記事の疑いで記事削除の提案が出され、2018年11月8日に記事削除された。記事削除するべきかの議論の中で、作成者のTottoritomは「私は初めて知ったが、これは完全に宣伝目的というわけではなく、複数の本を出版している著者(私)に関する記事です。また、私の本(このテーマに関する世界で唯一の本)を引用しているページなど、他のページにもリンクされている[105]」と正当性を主張している。しかし、「本の評価は別として、著者というこの人物に関しては知名度が低すぎ記事を作るには早すぎる。英語版書籍はまだ発売しておらず、発売予定である。現状では特筆性がない」という理由(WP:TOOSOON)で却下されている[106]。その後、記事は2024年7月17日に当時の日本語版記事を翻訳して再作成されている[107]。
wikipediaの日本語版と英語版では、自らの著作物に関するガイドラインは微妙に異なる。日本語版では著作権に抵触しないこと、既に公開されており高く評価されているなど一定の条件を満たしているならば、自分の著書の使用はむしろ歓迎される。しかし査読を受けていない新刊書籍・論文は誰も内容を確認していないことから、内容の妥当性や正確性の確認に問題があり批判が起きる可能性が指摘されている。英語版ではより厳格であり、「wikipediaでは独自研究を認めない(WP:OR)」という大原則があるために大きな注目を集める・信頼される情報源で取り上げられるなどの環境が揃うまでは、新刊書籍・論文を使用しての記述は禁止されている(WP:DCP)。
wikipediaだけでなくブリタニカ百科事典でもロックリーと見られる人物により記事「Yasuke」が編集されていたが、今回の騒動を受け2024年7月に専門家委員会がファクトチェックを行い更新を行った。ただし、ブリタニカが更新内容の執筆を依頼し、それを受けて作成したのはロックリーである[108][109]。
ロックリーの著書を参考にして作られたと見られている、「伝説のサムライ」という設定を持つ弥助が主人公であるゲーム『アサシンクリードシャドウズ』[110]のコンセプトアートにおける日本の描写が、不自然で史実に沿っていないことなどから、騒動が起こり[28]、発売中止の署名運動がなされている[57]。
ゲーム内で、侍であるはずの弥助が、村の中で白昼堂々と敵を惨殺する姿が描かれており、この描写はサムライらしくないとして批判を集めた。また、取材に対してユービーアイソフトのゲームディレクターが「当時、死を見ることは日常茶飯事であり、当時の日本ではほとんどの人が死ぬ方法はきれいな斬首だった[111]」という発言をしており[112]、これも歴史的に正確ではないとして批判を生んだ[34]。ゲーム内で侍として描かれた弥助は、社会的地位が高い「伝説の人物」として尊敬を集める存在とされているが、歴史上の侍は必ずしも地位が高いわけではなく、ロックリーの主張に影響を受けたアサクリ制作者がまったく誤った概念に基づき、史実における見解と著しく異なるキャラクターを生み出してしまったと批判されている[34]。
主人公の一人が「黒人侍の弥助」であることに関して、「どうして日本が舞台なのに主人公が黒人なのか」「弥助は侍ではない」などと批判する人に対して、「多様性を否定している。黒人批判をしている」と人種差別主義者扱いしたりポリコレに結び付けて反論する者も現れている[113]。
また、日本が舞台であるはずのゲーム内で、なぜか逆さまに描かれた中国の仏像や工芸品、ミャンマーやタイの農作業の場面が出てくる、日本の「関ヶ原鉄砲隊」「相馬野馬追」などの画像盗用(著作権侵害)といった複数の文化的・歴史的・季節的な誤り、法律的な問題などの失態が発生している[114][115]。騒動を受けて出したゲームに関する声明[116]や当初のゲームの宣伝[117]で、弥助を採用した理由として「"私たちの待"つまり日本人ではない私たちの目になれる人物を探していました」という発言が含まれていたこともあり(現在は該当部分が削除されている)、日本のみならず、中国や韓国でもユービーアイソフトの制作陣、ひいては白人社会がアジア文化を無視・軽視・差別していると非難する異例の事態を招いている[34][118][119]。
ロックリーは本ゲームに関して「関わっていない」としているが、発売前のポッドキャスト配信での宣伝に出演していたことが確認されている[55]。問題が大きくなっても配信されている[120]。UBIソフトが入れたナレーション部分には「伝説的なアフリカ侍の目を通して封建時代の日本の世界を見ることができる[121]」と、他のメディアでは削除した内容が残っている[85]。
弥助が侍であるか否かについては、資料が少なすぎほとんど検証できないため研究も論文も存在しなかったものの、今回の騒動を受けて複数の研究者・学者が個人的意見・見解を出す事態となっている。
呉座勇一は『信長と弥助』のみを読んでコメントをし、尊経閣文庫本『信長公記』に記載されている「鞘巻の熨斗付(装飾刀)と私宅(屋敷)を与えた」というのが事実であれば、武士として遇されていたとしている。しかしその情報が尊経閣文庫本『信長公記』にしかなく、他の文献には存在しないことに触れ、「書写過程で付け加えられたのでは」という可能性を提示しており、ロックリーやメディアが報じる「黒人のサムライ」という主張に対しては慎重な姿勢を示している[122]。また、「侍だったとしても『形の上では』ということもあります」と実態は伴っていなかった可能性も指摘している。九州の黒人の話については、「九州のキリシタン大名の一部が黒人を召し抱えていたということが、分かりにくい書かれ方をしている」と事情を推察した。そのうえで、「基本的な部分をちゃんと理解した上で敬意を払うのが欠けている」「発想の飛躍がある」「姿勢が適切ではない」とロックリーに対しての批判も述べている[29][48]。
平山優はX(旧ツイッター)において資料が不足していることを認めつつ、「侍であったことは間違いない」と主張している[123][124]。「帯刀が認められている」「2刀指し」などを理由に挙げているが、弥助がいた頃は、農民や町民であっても刀の所持・帯刀は制限されていない[125]。1593年の豊臣政権による九州での刀狩に関して、ルイス・フロイスは『日本史』で「日本では今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者がある年齢に達すると大小の刀を帯刀する」という旨を記載している[126]。豊臣政権の小田原征伐に対峙した後北条氏が発した徴兵令では「得意な武器を持ってきなさい」という指示があり、その一例として弓や槍の他、鉄砲を挙げている[127]。これらは弥助が表舞台から消えた後の豊臣秀吉の刀狩(1588年)や身分統制令(1591年)、1668年と1683年に江戸幕府が発したお触れでの帯刀禁止などで段階的に禁止されていったものである。
渡邊大門は「日本に黒人奴隷がたくさんいたというのは、記録がないため間違いだろう」と奴隷の件を否定した後、「弥助が侍であったかどうかは一次史料が乏しく、確定的なことは言えない」と判断不能であるとしている[128]。渡邊は今回の騒動が始まる前と後に弥助について記事を執筆しているが、どちらも侍身分だった可能性は否定しないものの疑いの目を向けており、「出掛けるときに弥助を連れて行き、人々が驚く様子を楽しんでいたようであるので、召使いのような存在だったように思える」と記述をしている[129][130]。
韓国の社会言語学者である能出新陸(Alaric NAUDÉ)は騒動を知り状況を調査していたところトーマス・ロックリーに行き着き、その書籍の内容から西洋人のアジア文化に対する理解の低さ、そしてゲーム『アサシン クリード シャドウズ』のアジア描写の酷さに失望し、社会学および言語学を用いてロックリーの書籍のどこが問題なのか、何が証拠のない不適切な記述なのか、そして弥助はどのような人物だったのかをまとめた書籍を2024年10月に出版している[131]。
イギリス出身の経済政策の専門家であり、二条城特別顧問などを務めるデービッド・アトキンソンは、「日本でアフリカ人奴隷を使うことが流行した」という記述を否定するSNSの記述に対し、自らのアカウントを用いて「それが嘘だったエビデンスは?」と問うことで『(戦国時代の日本で黒人奴隷を使うことが流行していたというトーマス・ロックリーの主張が)嘘だと証明せよ』と悪魔の証明を求めたと報道された[132][30]。さらに「黒人奴隷はシルクロードで運ばれた」、(侍という制度ができたのは江戸時代であり)「江戸時代まで信長、家康なども含めて侍ではなかった。武士。弥助は侍かどうかは歴史音痴の愚論に過ぎない」と独自の理論も主張している[133][134]。
前述のジャパンタイムズの取材でロックリーが「日本の専門家が否定していない」と述べたことに対しては、岡美穂子(『つなぐ日本史2』で査読を担当)と平山優はSNSにおいて、アマチュアによる独自研究だったので相手にしていなかったことを理由に挙げている[135][136][137]。能出新陸は自身のSNSで「現在進めているプロジェクトに専念していることが多く、その中には他の研究に参加できない契約がある場合もあります」「どの大学がそんな無名の人物に対する研究に資金を提供するほど愚かでしょうか?」と専門家や学者にも都合があると理解を呼びかけている[138]。
群馬県立文書館所蔵の栗間家文書の「年未詳加藤清正書状」(下川又左衛門ほか宛)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵に関連する記述の中で「くろほう」という言葉が出てくることに対しトーマス・ロックリーはNHKの番組「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」において「くろほう」こそ、織田信長に仕えた黒人武将弥助の後身ではないかとする解釈を示している。これに対し同館は、「くろほう」をこれまで全く黒人として認識していないとし、ロックリーの指摘に驚愕しているとしている。例えば『源氏物語』にも「くろほう」という言葉が登場するが、これは「黒芳」(練り香)の意味で、日本の古典で頻出しているとし「くろほう」を黒人と解釈するのは困難としている[139]。
ロックリーの著書やインタビューでの発言を元に、日本国外に弥助や日本の歴史に関する誤った認識が広がっているとして、「トーマスロックリー氏が広めた弥助に関する誤解の訂正を求める署名」を求める運動が起こっている[140]。
2024年7月11日、参議院議員の浜田聡は弥助および『アサシンクリードシャドウズ』について、「想像で本を書き、内容を史実として世界に広め、作り物の歴史を世界の真実にしてしまう」「日本文化・歴史・日本人を酷く軽視し、歪められた」とし、関係省庁に見解を求めた[141][142]。
文部科学省は「家庭用ゲームが子供に及ぼす悪影響について、一般論として、公序良俗に反する内容が疑われる場合などには、慎重な対応が求められる」と回答をしている[141]。
外務省は「ゲームにおける話で、外交とは関係していないことから、対応できかねる」[141]と回答し、『アサシンクリードシャドウズ』のゲームについてのみ回答。ロックリーが海外に向けて誤った歴史を広げたことについては回答しなかった。海外メディアでは「かなり大きな問題になってきており、外交問題に発展する可能性がある。可能性があると申し上げたが、現段階ではゲームなのでお答えできない」と続報があることを伝えている[143]。 一方、在モザンビーク特命全権大使であった池田敏雄(在任期間は2017年4月~2020年2月)が在任中に掲載していた大使館のウェブサイト内の挨拶で、「信長は弥助と名付け武士の身分を与えて家臣にした」「弥助は訪日した最初のアフリカ人」など、概ねロックリーの主張に沿った内容を記載していた[144]。その後、「※弥助の身分に関しては諸説あり、在モザンビーク日本国大使館として特定の見解を示すものではありません。」との注記を追記した。
2024年7月24日、NHKは2021年3月30日にBS4Kで放送されたトーマス・ロックリーを起用した番組「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」を放送した件について見解を問われ、「出演者の一人であり取材もしたが、番組自体は多くの専門家への取材で構成されている。問題があったとは思っていない」とし、またオンデマンドでの公開を中止した件については「当初から1年という予定で配信をした。予定通り終えたということで、今回いろいろ取り沙汰されたこととは関係がない」と回答している[145]。
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